なろうときららの色2
最近ノーストレスとか悲劇とか良く触れてると思う。ただもっと突っ込みたいのは、なろうのノーストレスって多分片足そうじゃない部分に突っ込んでる。これを分かって無いとけいおんなどのきらら系のノーストレスとの違いが分からないと思う。
なろうのノーストレスってなんだろう?って言うとドラゴンボールの極端なものだと思う。その対極に位置するのは間違いなくエヴァだろう。どこにきらら系と違うのか?ならやっぱり両方ともバトルをベースにした作品だからになる。後はなろうの場合世界観だろう。これはドラゴンボールも共通する。死と隣り合わせの世界観。
現実舞台の山あり谷ありの作品よりある意味シリアス調になってもおかしくはない。バトルと死と隣り合わせの世界観はそもそも同じものだと思う。でもドラゴンボールはそれをドラゴンボールで補ってる。ただそれは根本の部分だ、そもそも鳥山明の設計思想にある。鳥山明はハリウッド版への意見として1点だけ重くなりすぎない軽さが重要だと述べていたのだが。
私はそれあかんと思ってた。実写と絵の違いが大きいと思ってた。絵による漫画アニメは現実離れしたライト感が作りやすい。これが文字によるまだやりやすいなろうに使われてるわけだ。逆に重く作ってた方が良かっただろうなと思ってる。アニメオリジナルとなる人造人間IFのゴクウの居ない世界って平行世界が中々良い。私は漫画で人造人間編みたので雑にしか見てないが、あらすじだけでかなり引きこまれた。
富野監督が得意としてイデオンが多分最高系だと思うが、陰気な救いの無い全滅の美学がある。ちょっとラスト笑いを誘ってしまって失敗したが鉄血はそれが中々良く出来ていた。鉄血は本当にラスト失敗だと思う。オルガに焦点が当てられるが、あれもそうだ。全滅させるため鉄華団に隙を多くするんだ。それが不味かったんだ。キャラを殺す単純作業に見えて雑に見えるんだ…。
でもオルガは分かりやすい酷さに過ぎない。本当の問題はマクギリスにあると思ってる。何故バアルは期待はずれだったのか?これに気がついた。最初から鉄華団を全滅させるためバアルは期待外れの機体でマクギリス本人だけが信じる虚像と言うピエロを演じたからだと分かってきた。最初から結論アリキの強引さがバアルのクソさだったわけだ。マクギリスとオルガは作品のラストの流れの雑さのきわみだと言って良い。野球で言えば敗戦処理投手のやる気の無さだ。
期待したけど届かなかったぐらい魅せてほしかった。多分そこにあると思う。バアルがよければ多分オルガもあんな雑なものじゃなくて良くなっていた可能性もある。あっけない死、無常の世界をやりたかったんだと思うが、それがバアルのせいで雑に作り手が殺したと見えてしまってもおかしくない。これと声優の熱演がギャップを産んだのが笑いの元だろう…。
笑いになってしまったけど、それは作品の狙いとは違って、方向だけはノーストレスの逆を行くのはこういうのだとなる。
救いが無い今まで見てきたドラゴンボールの明るい世界のキャラ達がどんどん死んでいく展開がドラゴンボール本編では味わえないなんとも言えない魅力になっている。ただこれがドラゴンボールの空気感を壊すってのは分かる。鳥山が何を拘っていたか?はこれで分かるが、実写はこっちの方が向いてると思う。
漫画アニメの笑いは実写化しにくいんだ。のだめがあるじゃないか?となるが、私のだめ実写は見てない。アニメなら上手くいって当たり前のなものが実写だと上手く行ったらすごい事ってのは逆に言えば失敗がある裏返しなんだ。
ドラゴンボールはすぐには分からないが鳥山から説明されれば確かにそうだなと振り返ることが出来る。重くなりすぎないように、なろうってこういう作り方じゃないだろうか?それに対してきらら系は根本的にそういう要素を排除してるんだ。
クリエイター達が直接感じる直感的なもの。これをなんとか言語化しようと思ってる。クリエイター達は言葉にしなくても作品にすれば良い。その作品が失敗したら言葉はすべて無視されてしまう。だがそれで良いのだろうか?面白い面白くないじゃなくて、設計段階から感じてる直感的なものを結果とは別に考えるべきじゃないか?と思うんだ。
この事を意識するようになったのは虚淵氏が言ったけいおん全盛期の頃のまどまぎをやる前の安定と刺激についてになる。虚淵氏はきらら系学園ラブコメを安定と言い、自身の作品を刺激と言ったのだが、前半ラブコメ後半シリアスのKEY作品も同じなのでエロゲ業界は大体虚淵氏と同じだと思う。
虚淵氏は言葉を失敗したと見ている。何故なら可愛いは刺激だからだ。展開の安定と刺激とについて語ったのじゃないか?と後から考えると分かってきて。言葉足らずだなと思う。プロでもこうなんだ。ノーストレスについて語られる言葉は滅茶苦茶なんだ。私は可愛いを癒しとして何か対極させるのが隙じゃない。
根本的にはエロにつながっていてセックスバイオレンスとなんら代わりが無い。これは否定されるだろうが、深夜アニメの可愛いはエロは秘すれば花であるだけだ。隠すことによってより魅力的にしてるだけであってエロとは全く違う刺激だというならもっと女性ファンがついてもおかしくないだろ?
最近はまあましな部類だったけど、わたてんがあるけど、基本女子小学生はBD売れないんだ。ごちうさのチノもあれで一応JCだ。ただ過去苺ましまろってあるけど。これは中々難しい…。実際は真性のロリコンじゃない。子供が可愛いじゃない少女が可愛いんだ。エロで可愛くなる刺激としてトラブルなどがあるが、それはそれこれはこれで。
きららエロで釣るような可愛さはつまらないとされるのが多い。だが根本は刺激的なキャラって点で、虚淵氏のいう事は意味不明なんだ。だからストーリー展開についてなんだろうなとこっちが勝手に解釈してる。じゃ刺激ってナンだろう?ってなるとこれが分からないんだ。だって虚淵氏は可愛いは刺激だと思って無いから。実際多くの人も他のものと同様な刺激だと思ってない。
基本的に刺激は快だと思う。だが多くのクリエイターはどうもマイナス方向が刺激だと思ってる部分がある。何故か?展開の刺激だけにとらわれてしまってるのじゃないか?と思う。多くのストーリーを作るクリエイターにとってマイナス方向の刺激とプラス方向の刺激を同列に見れない。マイナス方向の刺激を特別視してしまう部分がある。
この反動がなろうじゃないかな?と思えてくる。
この刺激の正体はなんだろうか?と言うとワイドショーだと書いた。不快なシーンが快の刺激になっている。その点でそれは楽しいと同列に扱える。これを人の不幸は密の味にしてしまうから分からなくなる。それは否定し無いが、事故や災害の当事者じゃなくてただそれを日常から離れた異常として、脳が単純に刺激として動く。
これが何らかの快楽を伴ってる部分がある。もちろん当事者はそうではない。ただただ苦痛でしか無い。トラウマに囚われて病的に快楽と受取ってしまうケースも有るだろう。だがそういう異常者はおいておいて苦痛だろう。他人だから密の味理論で片付けてしまうが、多分私は脳が事件を記憶するように何かしらの物質を分泌してると見てる。科学的な話しじゃない。自分に起きたもの以外も記憶したほうが有利だからだ。
避けるには?と考えてるようになってのじゃないか?と見ている。蛇の恐怖がちょうどそんな感じで、蛇の恐怖は覚えやすいが仲間の驚愕した顔とセットだとサル類では覚えやすい。蛇恐怖は不快と逃避が伴うものなので快楽ではない。ただ人間が異常な事件事故などに興味を覚えるのは快である部分が本能的に備わってる部分があるのじゃないか?と見ている。
私は蜜の味じゃないなら、この感情は認識すべきだと思う。自己嫌悪に陥るのじゃなくて、そもそも生存本能は自分勝手なエゴ丸出しの部分なんだ。本能だから何やっても良いなら犯罪はなくなってしまう。そうじゃなくて、創作はそういった部分を向き合う部分がある。虚構ならそれが遊びとして許されるからだ。
虚淵氏は展開の刺激について語ったわけじゃない。この感情の本質が見えてないからだ。多分きららとエロゲを対比させるのは安定と刺激じゃない。分かりやすい快と不快だと思う。喜怒哀楽なら怒哀を作品から排除する事になる。
快だといったり不快だといったり一貫性がないなとなると思うが。これは自分と他人が絡んでるからになる。他人事として事件を見るのは快だが自分の事として事件を見るのは不快になる。または当事者に同情してしまった場合になる。
そこで見えてくる。キャラクターに同情や共感が置きやすい状況で事件を起こされたら不快になる。だがキャラクターを衝撃映像の登場人物として自分と切り離して、事故事件シーンとして淡々と眺めたらそれは不快とは言えない。しらずしらずに虚淵氏はキャラクターに入り込むものとして考えてしまったんだろうと見ている。
エグイ話しとして他人事で聞けるなら良いだが、子供の頃からの人格形成でおかしくなったと自分ごととして、友人に過去の話を打ち明けられた場合は全く違うだろう。後者は話すほうも聞くほうも、これ重い話だな…、って意識するはずなんだ。だが前者は刺激的な話しだとして聞くだけだろう。
虚淵氏はしらずしらずにこの刺激的の刺激を使ってしまったと見ている。きららは快の刺激の安定であって、全くの平坦なものじゃない。快という意味で不快を交えた変化が無い。これを安定として捉えている。展開と言う意味では安定と刺激でまどマギなどの新日常系とけいおんなどの日常系は確かに対比できるが、虚淵氏は多分違う意味で使っている。
このエグイ話ってのは虚淵氏の会社の社長が使っていたことで、エロゲ製作者は半グレみたいな感じのノリで話す人がちらほらいる。だから多分虚淵氏も展開の刺激と意味で遣ったわけじゃないと思う。安定と刺激の対比は多分ちょっと違うと思う。
なろうが特殊なのは自分ごととして悩みとなるような事件にならないって意味で、それそのものを排除するには世界観の構造やバトルをベースにしてる部分で無理。だからバランスコントールとしてドラゴンボールの重くしすぎないって程度のものにしかならない。根本的にきらら系のノーストレスな世界観と構造が違うんだ。
だからサイコパス主人公と言われてしまうんだけどね…。サイコパス主人公は猟奇事件の中心にいて一般人の苦痛と無関係だから。
ただ最後の最後になろうときららの相性が悪いのに、一般的な意味でバトルとそうじゃない対比にならない。何故か?なろうのバトルがなろうの外では面白がってる人ばかりじゃないからになる。だからここに視点が行かない。私も突っ込みきれない部分がここになる。バトルを排除して女主人公にすればなろうは成立するのか?なら分からない。
俺TUEEEや最強無双の面白さをもっと突き詰めないと分からない。私はどっちかと言えばなろうの大半の適切な経過で強敵が現れるバランスの取れた作品の方が好きなんだ。なろうのバトルはつまらないので排除して女主人公でキャハハウフフすれば良いだろ?それはなろうをベースに創る必要があるか?となる。
なろうで求められているバトルの肝を私は分かってない。だからかなり解明できたが、これで完結とならない。