一度きりの新婚旅行(2)
自宅の電話機からだ。
私は笑みも収まる間もなく、受話器を取った。
私の母からだ。
「気の収まらないところだろうけど…」
母が言う。
「あれ? 旅行に行くって言ってあったっけ?」
母は沈黙の後、重い口調で話し出した。
「あんな状態だったから、お葬式はこちらでしたけど、四十九日は、あなたが、ちゃんとしなさい」
母の言葉に思い当たる節がない。
「ん? お葬式? 誰の?」
まだ旅行気分の抜けない頬が緩む。
「…奥さんよ」
「? 誰の?」
「あんたのよ」
どうしてだろうか、言葉に重圧感がある。
「だって、妻なら目の前に居るよ?」
「…」
受話器の向こうからは何も返答がない。
「四十九日にはちゃんとした姿で来なさい」
母はそう言うと、すすり泣く声が受話器の向こうから微かに聞こえ、電話が切れた。
「え?」
私は受話器を置いて、キッチンに立つ妻を見た。
妻は水を止めて、シンクに体を向けていた。
横顔から静かに泣いているのが伺える。
妻の頬にすっと涙が流れた。
私の緩んだ頬が硬くなる。
「ごめんね。嘘ついちゃった」
妻がシンクに顔を向けて言う。
「何が?」
「ごめんね、騙しちゃって」
私が混乱しているのを自身で感じる。
妻は目の前に居るのだから、死んではいない。
「ごめんね、勝手に死んじゃって」
「何を言っているんだ? だって、目の前にこうしているじゃないか。私の母親と何か企んでいるのか?」
私は言うも妻は静かに佇んでいるだけだった。
そして、少しの沈黙の後、妻はそっと口を開いた。
「…今ね、閻魔様にお願いして待ってもらっているの」
妻が言う。
理解をしようとした。
妻の言っていることを理解できるところを探した。
しかし、目の前に妻がいる以上のことは見つからなかった。
ただ、妻が冗談を言っているようには見えなかった。
「あなたと一緒にもっと過ごして、あなたと一緒に色んな場所に行って、あなたの前で目を閉じたかった。でも出来なかった。…突然、死んじゃった」
妻は頬を上げて笑みを作り、こちらを向いた。
一所懸命、明るく振舞おうとするも、笑みを作った拍子にぽろぽろと涙が溢れ出る。
その涙を見て、頭では理解できないが、もう会えなくなることを悟った。
私は立ち上がり、妻を背からそっと、でも、強く抱擁する。
今までにない程に強く抱擁した。
「私を忘れないで欲しかったの」
私の冷えた頬に温かな線が伝う。
その線は妻の髪に染み込む。
「忘れるものか」
「うん」
「世界一、美しい妻を忘れるものか」
「うん」
「こんな私を愛してくれた妻を忘れるものか」
「うん、あなたと一緒になれて本当に幸せだった」
「私も幸せだった」
「いつか、また違う誰か、素敵な女性と一緒になるかもしれないけど、それでも、少しでいいから、時々、思い出して欲しいな」
「私の新婚旅行は一度きりだ。もし天国で会えたら、私の生涯の妻は一人だって自慢する、約束だ」
「ありがとう。私は本当に幸せでした」
「…」
私は、強く、強く、妻を抱擁した。
旅立たせないでくれと願って。
「こんな形で死にたくなったよ。死にたくなかったよ!」
妻は両腕を固く緊張させて言う。
妻の肩は小刻みに震えている。
私は何も答えることが出来なかった。
私も願うならば、これからも一緒に居たい。
「忘れてなんて言えない…忘れないでとも言えない…私を覚えていて」
妻の言葉にただ、ずっと強く抱きしめるしかなかった。