一度きりの新婚旅行(1)
妻の長い髪が海風にさらさらと流れている。
「気持ちいいね」
妻が大海原を見ながら言う。
「そうだね、奮発してよかったよ」
私は妻の横顔を見ながら返す。
私は見惚れていた。
まるで大海原に解き放たれたイルカのように、優美な妻に目を奪われていた。
「まさか、一生で一度の旅行が、豪華客船になるなんて思わなかったよ! ありがとう」
妻は、満面な笑みで私を見上げる。
妻と目が合った瞬間、思わず、目を反らした。
「ん? どうしたの?」
妻が反らした目線に顔を覗き込ませてくる。
「いや、何でもないよ」
どうしてだろう、私は妻に動揺していた。
「ふーん」
妻は再び、海を見ている。
私はデッキの手すりに両腕をのせて、ひと呼吸置く。
「時間があったら、旅行しよう。今度は海外に行こうか」
私は海面を見ながら言う。
まるで宝石が砕けたようにきらきらと煌めいていた。
妻から返事が来ない。
妻に顔を向けた。
海面の煌めきが、妻の横顔に反射している。
「うん、また行きたいね」
妻は応えた。
その表情はどうしてだろうか、少しだけ寂しい表情に見えた。
少し体が冷えてきたのだろうか。
お腹が空いてきたのだろうか。
色々と考えてみたが、妻が寂しがる理由にはならなかった。
「やっぱりデッキが寒いね」
私は妻のその表情を紛らわすために、体を小さく震わして言う。
それを聞いた妻は、私に体を向けると、私の頬に両手をそっと添えた。
妻の温もりが私の冷えて強張った頬を緩める。
その暖められた頬は次第に腰までふんわりとした温もりを通わせる。
妻が口をそっと開いた。
「今日、ありがとう」
妻が静かに言う。
「ありがとうは私が言わなくてはいけないよ。いつも、家事をしてくれてありがとう」
妻は私の体に、ぺとっと、もたれると、目を瞑った。
その妻の目尻から、静かに涙が線を作る。
私はその涙を親指で優しく拭った。
「愛してる」
妻は私の体に顔を埋めて、周囲に聞こえないように言う。
そのぽわんとした妻の声が、私の体に振動する。
「私も愛しているよ」
私の声は船上に留まることなく、さらりと消えていった。
妻は幸せな表情を浮かべながら、しばらくの間、私にもたれていた。
名所を巡り、海の幸を食べて、夜の海風に浸りながら月を見上げて、二人の時間を過ごした。
長期休暇もあっという間に過ぎ去り、自宅へと戻った。
「ただいまー」
いつもの癖なのか、玄関に入ると、どうしても言いたくなり、冗談混じりで言った。
それに、後ろに居る妻が、「おかえりー」と返す。
もうすっかり、妻のきゃきゃっとした明るい変化に、私は慣れていた。
私はリビングの照明を点けて座る。
妻はキッチンで手を洗っている。
「楽しかったな!」
私は陽気に投げかける。
「うん、もっと早く、こうしてあなたと楽しみたかった」
妻の声がキッチンから聞こえる。
「そうだね、次はお金を貯めて、もっとすごい所に一緒に行こう」
「うん、行かれるならば、もっといろんな場所に行きたい」
二人の間を裂くように、一つの電話音が鳴った。