第三章 〈二〉事の起こり
『事のおこり』
集められた場所へ行くと、すでにダリを含めた長老たちがいて、
その中心部に、ひざを折れた若者がしゃがみこんでいた。
「何事だ」
デルマは、腹からでたはずの声が、夜の山に掻き消えていくのを感じた。
膝をおれて座り込んでいる若者をみると、先日2日前に、日勤を終えて下山したはずのワルマだった。
ワルマは、その年の山の冷えには、何も持たぬ無防備な薄い格好で、しゃがみこんでいた。
長老たちは、ワルマを囲むようにして立っており、それ以外にも、山に入山していた若者がその場を囲んでいた。
ワルマは、自分のポケットから紙切れを出すと、おのおのと、長老のダリに渡した。長老は、隣で、松明を持っているものから明かりを向けられ、その紙に目を通すと、かっと目を見開いて、デルマをみた。
デルマは、すでに嫌な予感しかしなかった。
こんな夜更けに、たたき起こされ、きてみれば皆が集まっている。先日下山して里に言ったはずの若者が、こうして山に入るには無防備な格好で目の前にいる。
長老たちを囲っているものたちは、何も声を発さず、静かに沈黙を貫いていた。ダリは、老いて震えている手で、紙切れを渡した。
紙切れを苛立ち半分で受け取ると、中を覗き込んだ。
「ん?」
デルマは、すぐに喉元から声が出た。
その反応をみて、周りにいた若者にも緊張が走った。
これは、どういう意味だ?デルマには、すぐにわからなかった。
何のことを言っているのだ?
紙の中には、丸い円の中に右回りで渦が何周かかかれており、その渦は、一回りごとに大きくなっていく円で、最後は、縦に一本の線が描かれていた。
紙切れの裏もみたが、それ以外のことは何も描かれていない。
デルマは、若者を見返して言った。
「これは、何のマークだ?何か知っているものは、申せ」
デルマがそういうと、年長者のほとんどは、顔を背けた。それは、あきらかに彼らが、そのことを知っているのに、話す気はないという意味にもとれた。それと反対に、若い世代の男たちは、何が何だかという困惑の表情を覗かせて、デルマと年長者を交互にみた。
「ワルマ、お前は、先に、下山の任となっただろう?
その前には、5日の山の勤であったはずだ。下山したはずのお前が、どうしてここにおるのだ?しかも、こんな夜更けに何事かを説明してみよ」
冷たい山の空気と同じように、その場に緊張が張り詰めた。
ワルマは、何かを話そうにも、唇がかみ合っていないようだった。
震えた若者を前に、誰もが、静まり返っていた。
デルマには、こうした山の男たちの一蓮托生のような気質を持ち合わせていなかった。だから、何よりも事態を把握したいのに、誰もが何かについて口を開くことを断っているように見えた。
みんなで、俺に隠し事をしているのか?
政事を執り行ってきた自分にとっては、男たちのこうしたむやみな沈黙はいけ好かない。言いたいことがあるならハッキリ言ってみろ。それとも、山を降りたものにとっては、告げる必要もないことだとでもいうのか?
デルマは、17歳で、山を降りてから、一度も入山していない。
成人の儀を終えると、一旦は家に戻るが、それは入山の前の準備のための一時帰還であり、その後、入山して4日山の勤をし、交代で3日を休んで里に戻り、また4日交代で山に入るという生活を続ける。
デルマは、その生活が嫌になり、山を降りた。
山を降りるということは、山ノ神との聖なる仕事を降りて、再び山の男として入山しないという深い意味でもあった。
だから、デルマは、17歳で山の勤を降りて以降、必死に勉強して高の塾に入塾し、政事の世界へと入ることとなった。
村長の命によって、入山することはあっても、立場やポジションは違って、山の男たちとの同じような生活様式や価値観の中では生きていない。
村長の代理として、山に遣わされたとしても、入山すれば山の長老の命が、ここに生活する男たちには絶対の命であり、それには、デルマも従わなければならない場合もあるのだった。
デルマは、ダリをみた。
自分には何が起こっているかわからないという顔をしている哀れな村長の遣いをみて、年老いた長老は、気をもんだ。
年老いたといっても、まだ60なるかそこらだった。
この山には、50年近く携わってきて、結婚し、ここにいる間に、長女も生まれて、たびたび里に下山し、娘を育ててきた。
その娘も、嫁に行き、今は立派に、山の男と生活している。
わしは、この山と里を行き来する生活が好きだった。楽しいことばかりではなかったが、そのどれをとっても、好きだった。
時々みていく娘の顔がだんだんに成長することは、切ないと思うことも多かったが、それでも、大切に山の仕事をしてきた。
このまま、あと5年もすれば、山ノ勤が解かれ、里に残っている妻と、娘の子供たちを眺めながら、ゆっくりと老いぼれてゆくのもいいと、そう思っていた。
何事もなく。
しかし、今日この晩に、その想いが水になって流れてしまうだろうという予感が、しっかり確信へと変わっていくのを、乾いた唇をなめながら悟っていた。