幕間3ー1 5・15事件
5・15事件を巡る幕間になります。
1932年初め、林忠崇侯爵は、斎藤實海相から不穏な情報を聞きつけていた。
「わしを狙っている奴がいるだと」
「ええ、身辺には充分に気を配ってください」
「待て、待て、80歳過ぎのお人好しの老爺が死ぬのを待てないのか」
「自分の事を、お人好し、と言いますか」
「わしは、根っからの善人だ」
酷い嘘だ、林侯爵が、根っからの善人なら、この世に悪人は一人もいない。
斎藤海相は、凄く失礼なことを一瞬、考えたが、顔にまで出ていたらしい。
「今、わしが嘘を吐いたと思ったろう」
「いいえ、とんでもない」
斎藤海相は、惚けた。
「まあ、いい」
林侯爵は、鼻を鳴らすような表情を一瞬、浮かべた後、平静な表情になって、斎藤海相を問いただした。
「狙われているのは、わしだけなのか」
「それが」
斎藤海相は、詳しい事情を話しだした。
海兵隊は、伝統的に海軍本体の目付役を自任してきた。
海軍本体から海兵隊が、やや離れた立場であることや、歴史的経緯から来たもの(海軍本体は薩摩閥が主流だが、海兵隊は旧幕府系が主流)で、実際、シーメンス事件やロンドン条約で海軍本体が揺れた際には、海兵隊が事実上、海軍本体の粛軍を行っている。
そして、そういった海兵隊の情報網に、不穏な情報が入ったというのである。
「何、民間右翼と艦隊派の海軍本体の若手将校が手を組んだと」
「ええ」
藤井斉海軍大尉を中心に、政治革新を唱える王師会という団体が結成された、という情報が海兵隊の情報網に引っかかったことを発端にして、海兵隊は内偵を始めた。
王師会の中心、藤井大尉が接触している人物として、井上日召という人物が浮かんだ。
更にその人物の裏を探ってみると、民間右翼の過激派で、「一人一殺」をこの人物が唱えており、同志もそれなりの数がいることが分かった。
ロンドン海軍軍縮会議に、世界大恐慌と、民間右翼は不満を溜めこんでおり、この不況から、それに共感する民衆も増える一方である。
「まさか、放っているわけではあるまいな」
「そんなことはしません」
民間右翼については、特別高等警察に通報して、厳重な監視下に置かれている筈である。
だが、特別高等警察は、本来は共産主義者対策に置かれたものであり、民間右翼に対する監視は、等閑にしがちだった。
藤井大尉ら海軍軍人についても、憲兵隊が監視下に置いている筈だったが、艦隊派は海軍を二分する勢力を誇るため、藤井大尉らに同情する者も多く、監視に苦労しているとのことだった。
「万が一に備え、海兵隊から3名程の護衛を林侯爵に付けたいと思いますが」
斎藤海相からの提案を、林侯爵は受け入れることにしたが、まだ、話は終わっていない。
「他に誰が狙われているのだ」
「犬養毅首相以下、政財界の要人は軒並み、狙いを付けているようです」
「事前に捕まえられないのか」
「単に計画段階に止まっている段階で、捕まえるわけには。武器を入手したりしたら、別ですが」
「ほう」
林侯爵は、悪い顔をした。
「囮で武器を渡し、そこを一網打尽にしろ。囮捜査という奴だ。二重スパイもいいな」
「酷い捜査方法を思いつきますな」
「だが、極めて効果的だ」
「確かに」
林侯爵の示唆を受けた斎藤海相は、犬養首相の了解を得て、鈴木喜三郎内相と手を組んだ囮捜査で、井上ら多くの民間右翼を逮捕し、裁判に掛けることに成功した。
だが、藤井大尉らは捕まらなかった。
斎藤海相や鈴木内相にしても、充分な証拠も無しに現役海軍軍人を逮捕はできなかったからである。
そして、民間右翼の生き残りや藤井大尉ら艦隊派は、この一件を逆恨みし、犬養首相の暗殺、それに乗じてのクーデター計画を立案するのである。
ここに、5・15事件の導火線は敷かれることになった。
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