第3章ー49
国際連盟から満州事変問題の解決案を探ることを目的として、英のリットン伯爵を団長として編成されたいわゆるリットン調査団は、1932年6月から約半年を掛けて、満州の地に足を踏み入れると共に、東京や北京、上海等を歴訪した(上海は、南京事件の結果、当時は名目上は中国の主権下にあるとはいえ、上海自治市という名で日英米等が関与した市政府が統治しており、満州問題の解決案として、ここを参考にしようとしたという。)後、報告書をまとめた。
1932年末に、リットン報告書が発表されると、この提案について、国際連盟本部のジュネーヴにいる各国代表団は激論することになった。
リットン報告書の提案の骨子は、次のようなものだった。
1、蒋介石政権は、認められない。
2、満州は、名目上は北京政府の統治下に置くが、実際は国際連盟の関与する自治政府が統治する。
3、自治政府は中国人からなるが、顧問団を置き、その顧問には日米韓の人間を入れる。
米韓は、これまでの経緯から、この提案を受け入れる意向を示した。
一応は、米韓の顔が立てられており、この提案の受け入れにより、これ以上の国際的孤立を避けるべきと考えたことや、ドラモンド事務総長から内々にだが、自治政府の一員として、蒋介石を迎え入れてもいい、という意向が示されたからだという。
むしろ、こじれきっていた日中双方が、拒否反応を示した。
北京政府としては、中国から満州を事実上切り離す自治政府案は、できたら呑みたくは無かった。
また、日本政府にとっても、蒋介石政権否認は呑めるものではなかった。
だが、北京政府は、とりあえず受け入れる方向を示した(ドラモンド事務総長は、蒋介石の処遇については、北京政府には政権の座から追放するといい、日本政府には、直接は何も言わなかった。英国人として、さすがというべきか、三枚舌を使い分けたのである。)。
1933年1月に開かれた国際連盟総会は、大荒れとなった。
リットン報告書が公開された後、北京政府は中小国に対して積極的に外交交渉を行い、これを単純に受け入れては、国際連盟が内政干渉をする前例となると訴え、それに中小国も同調したからである。
「雀の千声、鶴の一声」
松岡洋右代表は、溜め息をつく思いがした。
松岡代表は、従前の外交思考が抜けず、米英仏伊といった列強の代表とひたすら交渉しており、総会の場に出て、中国、北京政府支持の声が高いのに、半ば驚くことになったのである。
北京政府は、この中小国の声に強気になった。
北京政府は、リットン報告書の提案を表面上は受け入れつつ、独自の修正提案を総会に掛けた。
それは、満州自治政府の幹部の任免権を、北京政府が掌握して、リットン報告書の提案を受け入れるという案だった。
これは、日本政府というか、松岡代表が怒り、米韓も拒否反応を示し、英仏伊も難色を示した。
北京政府の修正案を受け入れては、日米韓が推薦する政府顧問さえ、北京政府の意のままの人事が行われてしまう。
だが、秘密投票の結果、中小国群の賛成多数により、中国の修正提案は過半数を獲得した。
それに対して、日本は拒否権を発動して、中国の提案を葬り去った。
次に総会に掛けられたのが、リットン報告をほぼ原案通りで採用する提案である。
これには、韓国、タイが棄権、米国でさえ賛成に回り、反対したのは日本のみだった。
これにも、日本は拒否権を発動した。
これは同盟国の英国にさえ、意外の感を持たれた日本の行動だった。
日本は拒否権の発動はしない、と多くの国が考えていたからである。
この投票を見て、北京政府代表は日本は国際連盟加盟国の多くの意向を無視していると声明をだし、総会の場から退席した。
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