第3章ー46
そうはいっても、承徳を制圧し、更にいわゆる長城線以北を抑えることは、蒋介石政権を安定させるためには必要不可欠である。
第12師団は、承徳に対する攻撃を行わざるを得なかった。
「やるしかないのか」
航空隊司令として錦州まで出張っている井上成美大佐は、重い気分で呟かざるを得なかった。
長城線まで少しでも近くに飛行場が必要であるということで、日本空軍は、錦州に臨時野戦飛行場を1月かけて人海戦術で急造していた。
この飛行場から、承徳に爆撃隊を出撃させ、承徳に立て籠もる湯玉麟将軍率いる北京政府軍に空爆を行うことになる。
北京政府は、人間の盾として承徳市民の市外への脱出を禁じている。
日本空軍が、承徳に対して空爆を行えば、承徳市民に多数の死傷者が出るだろう。
かといって、空軍も戦車の支援も無くして、承徳に第12師団が攻撃を加えるのは論外だった。
そんなことをしたら、幾ら質的優位があるとはいえ、兵力差(第12師団は2万名近い兵力を持つが、湯玉麟将軍率いる北京政府軍は、敗走してきた部隊も含めるならば、6万名以上で承徳市とその近郊で守備に就いている)から、第12師団は承徳を巡る戦闘での勝算が、まず立たなくなる。
野戦なら自動車化歩兵師団の機動力が行かせるが、市街戦ではその機動力の優位が生かせない。
満州派遣総軍司令官の武藤信義大将以下、満州にいる日本陸空軍、及び海兵隊の幹部は、皆(いつも傲岸不遜な態度を執る石原莞爾中佐まで)が、苦渋に満ちた判断の末、承徳に対する空爆を支持してはいたが、このことが、外交的には極めてまずい事態を引き起こすのは間違いなく、井上大佐は苦悩せざるを得なかったのである。
「せめて、少しでも搭乗員と苦悩を分かち合おう」
井上大佐は、世界大戦の際に欧州で戦場の空を飛んだ経験もあった。
承徳に対する空襲を始める爆撃機集団の先導機の中には、井上大佐の姿もあった。
「ここらでいいだろう」
井上大佐が爆弾の投下位置を直接、指示した。
承徳に対する空襲の始まりだった。
航空支援の下、敵陣地に対する攻撃を行う。
第12師団の将兵にとっては、ある程度は慣れてきたことだったが、市街地を陣地と化しての敵に行うのは、これが初めてである。
しかも、この当時には、地上部隊と航空部隊が戦場で密接に連携を取る通信手段が無い。
日本空軍の航空支援は、誤爆を避けるためとはいえ、地上部隊からしてみれば、腰の引けたものになるのは止むを得なかった。
そのため、承徳を巡る攻防戦は、第12師団の将兵にとって、苦戦の連続となった。
地上支援の為に、日本空軍が、承徳に対して総計になるが延べ50トン余りの爆撃を行ったことや、第12師団による砲撃もあり、この攻防戦の結果、承徳市街が瓦礫の山になった、と第12師団長の杉山中将が、満州派遣総軍司令部への直筆の報告書に書くほどの死闘となった。
最終的に山海関から転進してきた戦車団と1個海兵連隊による側面支援もあり、4月15日の夕刻、承徳は放棄されて、北京政府軍は退却を開始した。
この中には生き残った承徳市民の姿も多くあり、承徳市は、これによってゴーストタウンと化した。
第12師団と海兵隊、戦車団等は、これに容赦のない追撃を加え、4月21日には万里の長城に先遣隊が到達し、4月中には万里の長城以北を、ほぼ完全に蒋介石政府の統治下に置くことに成功した。
これに対して、北京政府軍は、山海関方面を中心に反攻を試みたが、うまく行かず、満州派遣総軍も兵力不足から、これ以上の侵攻を断念した。
更に日本政府から目標を達成したとして守勢に入るように指示が出たこともあり、ここに万里の長城を基本的な線として停戦状態となった。
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