第1章ー8
そういった動きを、山本権兵衛元首相と組んだ林忠崇侯爵が行っていた頃、加藤寛治軍令部長は、犬養毅率いる立憲政友会と接触し、提携することに成功していた。
1930年1月、濱口雄幸首相は、衆議院の解散総選挙を断行し、与党の立憲民政党は大勝していた。
犬養毅新総裁が率いる立憲政友会は、二大政党の一方の雄の筈が、立憲民政党が獲得した議席数の3分の2に満たないという大敗を喫してしまった。
第2章で述べる新平価による金解禁政策の採用と濱口内閣が進める緊縮予算は、日本国内に不景気をもたらしていた。
だが、立憲政友会は、立憲民政党を攻める有効な手段に事欠く有様になっていた。
そもそも金解禁政策は、立憲政友会も推し進めていた政策であり、しかも、新平価による金解禁政策は立憲政友会も同意して、そのための法改正に立憲政友会も賛成して可決成立したものだった。
緊縮予算にしても、立憲政友会の推し進める積極予算(裏返せば放漫財政)の後始末として、立憲民政党が推し進めざるを得なくなったもので、立憲民政党にしてみれば、立憲政友会の尻拭いをしているだけだ、という主張であり、立憲政友会の支持者の中にも、それに同意する者が多数いた。
こうなっては、総選挙に際して、立憲政友会が、立憲民政党の経済政策を非難することは難しい。
こういった事情から、総選挙に際して、立憲政友会は、犬養毅新総裁の下、社会民主主義的な政策の採用を唱えた。
例えば、労働組合法案、婦人公民権法案の提出を、総選挙の際に訴え、総選挙後に野党提出法案として、実際に議会に提出し、立憲民政党に対して法案論争を挑んでいる。
かつて、地主と資本家の党と謳われた立憲政友会が、総選挙に際して、労働者に接近する。
選挙に勝つために、立憲政友会はなりふり構わなかった。
実際、政策面については、立憲民政党の一部の議員からも、立憲政友会の方が上、との評価がなされるくらいだった。
だが、総選挙で、立憲政友会は大敗した。
理由は、単純明白だった。
政策では勝ったが、人気、感情面で、立憲政友会は負けたのである。
立憲政友会は長年に渡り、与党的地位を保持していた。
つまり、民心は、立憲政友会に飽きていたのである。
更に、社会民主主義的な政策の採用は、新支持者の獲得よりも、旧来の支持者の離反を招いた。
長年の立憲政友会の主張は何だったのだ、ということである。
こういった苦境にあえいでいた立憲政友会にとって、ロンドン海軍軍縮会議問題は天佑に見えた。
そもそも、ロンドン海軍軍縮会議前、立憲民政党は、戦艦や空母といった主力艦をこれ以上は1隻も減らさない、何れは拡充するということを政策面で掲げ、総選挙の際の公約にもしていた。
実際、後に「龍驤」と呼ばれることになる空母の建造を、ロンドン海軍軍縮会議において、英米に認めさせている。
だが、ここに金剛級戦艦1隻を練習戦艦にするという案が、ロンドン海軍軍縮会議で出てきて、しかも濱口首相率いる立憲政友会は、それを呑もうとしているというのである。
これは、明らかな公約違反ではないか。
しかも、海軍全体が、金剛級戦艦1隻の練習戦艦への改装に応じると言っているのではなく、海軍軍令部は反対しているにもかかわらず、それに応じるというのである。
立憲政友会は、ここに反撃の糸口を見出した。
更に、ここで濱口首相は失策を犯した。
衆議院総選挙の大勝におごっていた濱口首相は、民意は立憲民政党にあるとして、立憲政友会から仕掛けられたロンドン海軍軍縮会議問題についての衆議院での論争を、拒否したのである。
総選挙の公約破りをしておいて、民意が自分にあるとは何だ、立憲政友会や海軍軍令部等は憤激した。
大嘘と思われそうですが、史実の立憲政友会も、当時、労働組合法案や婦人公民権法案を真面目に衆議院で提出し、立憲民政党との議論を試みています(井上寿一著「政友会と民政党」を参考にしました)。
だから、この世界の立憲政友会の行動も、全くの絵空事ではありません。
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