第3章ー38
1932年4月1日を期して、満州北部及び熱河省の解放を目指す大攻勢が発動されることになったが、その大攻勢に参加する顔触れは大幅に変わっていた。
具体的に言うと、米韓の軍隊はそれぞれ基本的に本国に引き上げてしまい、蒋介石軍と日本軍のみが事実上は満州の地に残ることになった。
もっとも、日本軍にしても、海兵隊2個師団は、日本への帰還が決まり、陸軍2個師団、海兵隊2個師団を基幹とする部隊に縮小されている。
その代わりに大幅に増えたのが、蒋介石軍だった。
満州の地に蒋介石が帰還した際には、2個師団しかなかったが、張学良軍からの帰順兵を大幅に採用することで、多くが訓練途上だが10個師団が編制される目途が立っていた。
訓練を終えた部隊から、前線に投入して、まずは満州全土の解放を、と蒋介石は意気軒昂だった。
蒋介石の後押しとして、犬養毅首相率いる日本政府と、フーヴァー大統領率いる米国政府がいることも蒋介石を強気にしている一因だった。
日米は共に自らの満蒙利権を蒋介石に保護させるために、大規模な武器等の援助を蒋介石に行っており、それによって10個師団の装備等が整う目途が立っていたのである。
「私の考える今後についての基本構想を申し上げます。奉天より北の、いわゆる北満州部分については、旧張学良系勢力の大半が、蒋介石政権への合流を表明しており、馬占山等の抵抗勢力は山岳部等でのゲリラ戦を展開するしかない有様になっています。これには第4海兵師団を事実上の督戦部隊として付け、蒋介石軍が基本的に対処することにします。馬占山等にしても、中々、旧張学良系の兵士が多々加わっている蒋介石軍に積極的に銃口を向けるというのは躊躇われるでしょう。問題は熱河省です。一応、蒋介石軍1個師団と第1海兵師団、陸軍の第12師団を熱河省侵攻作戦に投じるつもりですが、それで足りるのか」
満州派遣総軍司令部で、石原莞爾中佐は、そこで言葉を切って、会議の参加者を見回した。
石原中佐の本音としては、もう少し満州の地に兵力がいて欲しかった。
だが、これ以上、満州の地に兵を残しても、蒋介石を肥え太らすだけだと考えた韓国政府は、満州にいる朝鮮民族の権利保護を、蒋介石が確約したことから、当初の目的は充分に達成できたとして、全軍を引き揚げてしまった。
米国政府も、これから後は、蒋介石政権に任せるべきだ、と米海兵隊を引き揚げてしまった。
また、2月に行われた総選挙で大勝を収めた犬養首相も、斎藤實海相や渡辺錠太郎陸相の反対にもかかわらず、日本の国内世論の圧力を背景に、一部兵力の日本への帰還を決めた。
日本の国内世論も、一応は蒋介石率いる政権が南満州の地に基盤を確立したことで、これ以上の派兵規模拡大に消極的になっており、派兵した兵を帰還させるように求める声も高まっていたのである。
こういったことから、犬養首相は、政治的決断から、2個師団の兵力削減を決めたのだった。
かつてだったら、考えられないことだな、と石原中佐は内心で思っていた。
陸相と海相が揃って反対したのに、首相の決断で兵力が減らされるとは。
(もっとも、これには裏があった。海相も陸相も、本音としては兵力を減らしたかったが、内部では強硬派の突き上げがかなりきつかった。そのために閣議の席では、口先では反対を唱えざるを得ず、首相が決断したということで、部内を宥めたのである。)
だが、そのために兵のやり繰りに、満州派遣総軍は苦労する羽目になった。
南満州の治安維持や、予備部隊として、陸軍1個師団は手元に残さざるを得なかった。
調整の結果、熱河省侵攻作戦に投入できる兵力は、寄せ集め部隊になってしまったのである。
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