第3章ー37
1月下旬から3月終わりまでは、日米韓三国連合軍と蒋介石軍にとって、基盤整備の時間になった。
何とか奉天までは急進できたものの、これ以上の進撃を行うには、補給等を円滑に行うために占領地の鉄道の復旧等は急務だった。
また、占領地(蒋介石率いる中華民国正統政府が支配する地域というべきか)の民心の安定も必要だった。
米国から多大な物資、資金の援助を受け、日韓の工場から民生品等を供給し、と占領地の民心を掴もうと日米韓三国政府と蒋介石政府は連携して奮闘する羽目になった。
当然、そのしわ寄せは軍に掛かってきた。
「日本から戦車の正規の修理部品はまだ届かないのか」
3月初めのある日、岡村徳長少佐は、補給部隊の所に、自ら出向いて圧力を掛けていた。
無意味なのは、自分でも分かってはいる、だが、こうでもしないと部下の不満を少しは解消できない。
補給部隊の大尉は、階級差もあり、丁寧に岡村少佐に対応した。
「こちらも、懸命に督促しているのですが、届いていません。応急品で勘弁してください」
やっぱりか、岡村少佐は、内心で毒づいた。
自業自得と言えば、自業自得だが、満州事変勃発から1月の大攻勢開始まで、日本空軍を中心とする空軍部隊は鉄道の破壊等、張学良軍の補給寸断に力を注いでいた。
直接の地上部隊攻撃は、損害が大きいというのは、世界大戦の戦訓から熟知されていたので、損害が少なくて済む補給路攻撃を、空軍部隊は好んで行ったのである。
そのツケが今になって返ってきている。
南満州の土地を人体としてみれば、血管と言える南満州鉄道がボロボロになっていた。
機関車や貨車は多数が壊され、鉄路は破壊されていた。
中には生活費を稼ぐために、住民からレールが盗まれる例まで起こった。
石原莞爾中佐をはじめとする軍の関係者は、南満州鉄道の回復は、日本の鉄道連隊で何とかなると、1月の大攻勢開始前は楽観視する者が大半だったのだが、大攻勢の終了後の実際の行動の際には、日韓の民間の鉄道関係者まで、南満州鉄道の緊急回復にかき集める羽目になったのだった。
当然、倉庫に半ば死蔵されていた旧式機関車等まで、日韓から満州に送り込まれる等、いろいろ手は尽くされている。
それでも、旅順、大連を除く南満州の都市住民にとって、南満州鉄道が回復するまでは、長い期間が掛からざるを得なかったのである。
その間は、本来は軍需品を運ぶ軍のトラックまで、民心安定の為と言う大義名分から、民生品を運ぶために一部が転用される羽目になった。
最終的に、3月が終わる頃まで、日米韓三国連合軍と蒋介石軍の進撃は足を止められる羽目になった。
だが、悪い事ばかりでもなかった。
北満州にいた張学良系の残存勢力に対し、蒋介石政府に戦わずして帰順することを呼びかける時間にもなったからである。
張学良系の残存勢力にしても、日米韓三国連合軍に南満州が制圧されていることで、いわゆる中国本土からの直接の支援は絶望的であることが分かっている。
かといって、ソ連に頼るのは、過去の行きがかりから躊躇う者が多くいた。
そういった者達にとって、この2月余りは、ある意味で考える時間が与えられる猶予期間になった。
3月の終わりに、4月1日を期して、北満州への攻勢を行うことが蒋介石によって発表されると、北満州の張学良系の残存勢力の多くが、蒋介石政府への合流を表明し、戦わずして投降してきた。
蒋介石政府は、日米韓三国の傀儡政府であるとして、馬占山等、あくまでも徹底抗戦を唱える者も北満州の中にはいたが、その数は少数で、その中で最大の勢力を誇る馬占山にしても、その兵力は2万人に満たないと見られた。
だが、馬占山らは意地を貫き、戦いを選んだ。
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