第3章ー34(閑話・上)
感想欄で指摘されたので、急きょ、閑話という形で投稿します。
戦車に詳しい人から、猛烈な突込みが入りそうですが、緩くお願いします。
日本が初めて自国開発した戦車、89式戦車は、ある意味で極端極まりない戦車であった。
主砲は57ミリ短砲身を採用、最も厚い装甲部分は、主砲塔前面の80ミリ(しかも傾斜付き)という代物で、車体前面も(この当時としては充分に厚い)傾斜50ミリ装甲になっている。
その代り、それ以外の装甲は20ミリに満たず(傾斜装甲の採用により、実質は垂直20ミリ装甲と一般的は評価されている。)、何でこんな極端に装甲が偏ったのだ?という疑問が、後世で起きている。
ちなみに、エンジンは、第一次世界大戦の遺物、リバティエンジンを戦車用に転用した代物で、300馬力を発揮して、約20トンの車体を、不整地では20キロ程度で走行させることが可能だった。
これは、陸軍と海兵隊が対立し、日本の戦車開発が迷走した末のてん末だった。
1925年初め、日本陸軍は技術本部に国産戦車の開発を命じた。
そして、これまで日本陸軍と日本海兵隊は、基本的に装備を共通化していたこと等から、当然、日本海兵隊も、この国産戦車を保有することになり、海兵隊も戦車開発に対して、意見具申という名の介入を行うことになった。
開発当初に考えられていたのは、重さ15トン程度、主要装甲部は基本的に垂直25ミリで、主砲塔前面は念のために30ミリ、主砲は歩兵支援の為に57ミリ短砲身で、というある意味では平凡な戦車だった。
なお、装甲が25ミリと決まったのは、第一次世界大戦において、当時の独帝国陸軍が制式採用していた対戦車銃M1918の装甲貫徹能力が、射程距離100メートルから25ミリ程度だったので、少なくともそれには抗堪できるようにという要求からだった。
開発当時の中国と独の親密な関係から、中国軍がM1918を、多数、保有しているのでは、それを対日戦に投入するのでは、という疑惑を、日本陸軍も、日本海兵隊も拭いきれなかったからである。
ちなみに、この要求を受けた試作戦車は、日本陸軍技術本部の手により、1926年末に無事に完成し、一時は制式採用が有力視されるまでに至っている。
だが、それが一変する事態が起きた。
1927年春、南京事件が勃発、それにより、日英米は中国と限定戦争に突入した。
日本海兵隊は、中国に派兵され、中国軍と激闘を演じ、貴重な戦訓を得た。
この戦訓を巡って、陸軍と海兵隊は対立した。
「無茶をいうな、主砲塔前面の装甲を80ミリにしろだと」
「75ミリ野砲弾の直撃に抗堪するには、その程度は必要です」
「そんな装甲を主砲塔前面に付けたら、それ以外の装甲を削るしかないぞ。対戦車銃に銃弾に撃ち抜かれる装甲になる公算大だ。そんなことできるか」
「装甲板を垂直にしないとダメなことはないでしょう」
「何だと」
「軍艦がやっているように、装甲を斜めに傾斜させたら、少し装甲が薄くても、それより厚い垂直装甲並みの効果が期待できるのでは」
「これだから、素人は困る。傾斜装甲を戦車に採用して、軍艦と同様の効果が発揮できるものか」
「海兵隊を戦車の素人だというのか。こちとら、戦車師団を世界大戦で運用した身だ。そっちの方が、戦車については素人だろうが」
「何、陸軍を戦車の素人と馬鹿にするのか」
こんな感じで、陸軍の担当者と、海兵隊の担当者が、口論の末に、肉弾戦に突入、双方に多数の負傷者を会議の際に出したという噂話がある。
ちなみに、陸軍の秋山好古、海兵隊の林忠崇、両元帥が、この話を聞いて、陸軍と海兵隊の正式な手打式を開いたという噂話まで追加である。
この噂話の信憑性は、かなり薄いが、ともかく、南京事件から起こった日英米対中の限定戦争の戦訓評価で、日本の戦車の開発は迷走を引き起こしてしまった。
長くなったので、次に続きます。
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