第1章ー7
海兵本部を辞去した後、林忠崇侯爵は、元老でもある山本権兵衛元首相の居宅を訪ねていた。
「済まんな。面倒を掛ける」
山本元首相は、林侯爵をねぎらった。
「そもそも、山本元首相から一声掛ければ、ロンドン海軍軍縮会議の紛議はすぐに収まり、海軍内はまとまるでしょうに、何でそうしないのです」
林侯爵は苦言を呈した。
山本元首相は、予備役海軍大将でもあり、桂太郎、西園寺公望両内閣で長年、海相を務めた経験もある。
元帥になっていないのが、不思議なくらいだが、世界大戦の細の遺恨(海兵隊を欧州に先行派兵し、その行きがかりから海軍本体も欧州に派兵された。その損耗等のために海軍本体の整備が遅延している。)を、覚えている海軍士官も多く、元帥になれなかった。
だが、海軍の大御所なのは、間違いないところで、東郷平八郎と互角以上の声望を海軍内に持っている。
山本元首相と、海兵隊出身とはいえ、予備役元帥海軍大将でもある自分が手を組めば、海軍内の結束はすぐにでもできる、と林侯爵は睨んでいた。
「それはいかん。却って海軍内に不満を遺す。特に財部が、わしの女婿だからな」
山本元首相は、林侯爵に反論した。
「確かに否定できませんが」
林侯爵も口ごもった。
財部彪海相が有能な人物なのは、林侯爵も認めるところであり、その有能さを見込んで、山本元首相は鍾愛する長女、イネの婿として財部を迎えた。
だが、山本元首相の親バカぶりが悪い方に出て、イネは我が儘女房として名を馳せ、海軍士官を顎で使うような振舞いに出て、海軍内の人気がさっぱり無かった。
イネが良妻賢母なら、山本元首相は元帥になれたし、財部海相も首相を望めるのに、という陰口が海軍内であるくらいだった。
そして、止むを得ないことながら、海軍軍縮会議のために、財部海相は、今、ロンドンにイネと共に赴いている。
「わしとしては、海軍軍縮会議の第一提案に賛成だ。だが、わしが、賛成を主張したら、親族の縁から、財部の味方をしたように見られる。少なくとも加藤寛治軍令部長らは、そう喚くだろう」
「その通りです」
山本元首相に、林侯爵は肯かざるを得なかった。
「だから、今回の海軍軍縮会議については、わしは口をつぐむしかない。動くに動けんのだ」
山本元首相は、言葉を続け、林侯爵は黙って肯いた。
「海兵隊本体は傷を負いたくないので、条約派からも、艦隊派からも、完全中立を保つように、私から、あらためて米内光政海兵本部長に釘を刺しておきました。いざという際は、山本元首相からも、海兵隊を護るような口添えを海軍本体に対して頼みますよ」
「分かっておる。それは確約する」
林侯爵の言葉に、山本元首相は肯いた。
動くに動けない山本元首相の秘かな手足が、林侯爵だった。
林侯爵は、今回の海軍軍縮会議に際して、海兵隊は完全中立を保ち、動かない代わりに、組織を維持するという条件で、それを請け負った。
中立と言うのは、海軍省、軍令部双方から恨まれることになる。
林侯爵の本音としては、海軍省寄りの態度を海兵隊本体に執らせたいくらいだったが、二大政党、立憲政友会と立憲民政党の政争に巻き込まれるリスクを勘案した末、海兵隊は完全中立を維持するのがベスト、と最終的に林侯爵は決断し、山本元首相からその保証をもらった。
「それから、米内海兵本部長に、鈴木貫太郎侍従長に対して、今上天皇陛下を政治利用しようとする輩に今上天皇陛下が載せられないように、予めお諌めするように、私からの意向ということで伝言を頼みました」
「よくやってくれた。敵に天皇を政治的に利用されては叶わんからな」
林侯爵の言葉に、かつて、陸軍の欧州派兵に、天皇を利用した山本元首相は顔を綻ばせた。
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