第3章ー21
半ば幕間になります。
満州事変勃発から約3か月が経った1931年12月現在の日本以外の状況です。
まずは、満州の張学良の状況です。
1931年12月、張学良の顔色は悪くなる一方だった。
「まずい。直接の部下の統制が取れなくなりつつあるし、軍隊も衰弱し、民心も離れる一方だ」
張学良は、奉天の執務室に一人で籠って、そう呟く日が増えていた。
満州事変勃発直後、張学良自身は、この事件は韓国の謀略による自作自演であるとして、外交交渉でけりをつけたいと考えていた。
だが、韓国軍の満州領内への侵攻作戦発動、それに応戦して、自らの部下の軍が鴨緑江を越えてしまったことから、米国が参戦、日本政府も韓国救援のための声明を出し、と戦火は拡大していった。
それでも、日本の若槻礼次郎内閣が健在ならば、若槻内閣の仲介で和平交渉ができるのでは、と一縷の望みを張学良は託していたのだが、そこに起こったのが、若槻内閣の総辞職、犬養毅内閣の成立、蒋介石を首班とする中華民国臨時政府が東京で樹立されたという事態だった。
満州事変勃発から1月も経たない内の情勢の激変に、張学良はついていけなかった。
北京からは、張学良に対し、何としても鴨緑江以南の軍を維持するようにという指示が届いていた。
実際、現在のような状況で、鴨緑江以北に軍を退却させては、それをきっかけに張学良の勢力自体が完全に崩壊しかねないという危惧を、張学良自身が覚えていた。
もし、そうなったら。
「わしは、北京へ脱出したら、満州を売り渡した中華民族の裏切り者として死刑が確実だな。かといって、ソ連に亡命しても北京政府にすぐに引き渡されて、同じ運命が待っている。日米韓、更に蒋介石もわしを殺したがっているしな。自決するのが一番、楽な方法だな」
張学良は、いつも携帯している筈の阿片の丸薬が確かに懐にあるのを確認しながら呟き、現状について、あらためて確認した。
張学良軍は、50万人を現状でも保有している筈だった。
師団数から言えば、20個師団というところである。
その内、20万人が鴨緑江以南で戦線を維持し、5万人が、旅順方面で関東軍と対峙、残り25万人が満州各地に散らばって、後方警戒、治安維持任務に当たっていた。
張学良の本音としては、もう少し鴨緑江方面に部隊を送り込みたいところだったが、それは日増しに困難になっていた。
動員を完結した韓国軍8個師団が、米国海兵師団と日本第4海兵師団に督戦され、張学良軍20万人と鴨緑江以南で対峙していた。
文字通り、背水の陣を敷いていると言っても過言では無かった。
張学良は、そこへ鉄路を活用して懸命に補給物資を送り込もうとしているが、そこに補給を送り届ける筈の部隊は日本空軍の攻撃により、一部は何とか物資を届けるものの、ほとんどが生還せず、鴨緑江方面に出発する列車は、地獄行の片道切符持ちと言われる状況だった。
止むを得ず、人馬による古典的輸送補給も行っているが、日米韓の豊富な資金により装備を充実させた馬賊の好餌に、その部隊はなっている。
渤海の制海権は、完全に日韓にある以上、沿岸航路を活用した水上輸送による補給は論外で、鴨緑江以南の部隊からは物資欠乏による退却が言外に要望されており、それも日増しに強まる一方だった。
そして、鴨緑江以南の軍を維持しようとする鉄路の補給輸送は、それ以外、民間にも影響が出るようになっていた。
満州事変勃発に伴い、満鉄は速やかに旅順、韓国へと機関車、貨車等をできる限り脱出させた。
そのために従前の半分にも満たない数(しかも、旧式化した物)の機関車や貨車しか、張学良の手元には残らなかったのである。
そのなけなしの機関車、貨車が鴨緑江以南の軍隊への補給維持で失われていく。
12月現在、満鉄を利用した民間の旅客、貨物輸送は、ほぼ停止されてしまう有様になっていた。
長くなったので、次に続きます。
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