幕間2-1 陸軍の不穏な動き
幕間になります。
世界大恐慌の嵐に襲われる日本の陸軍では、どのようなことが起こっていたのか。
1929年3月
「わしも、林忠崇元帥を見習いたい」
の一言を遺し、秋山好古元帥陸軍大将は、参謀総長を辞任し、予備役編入を自ら願い出た。
時の宇垣一成陸相は、秋山元帥の慰留を行ったが、本人の意志が固いことから、秋山元帥の希望通りの人事を発令した。
このことが、陸軍の一部が不穏な動きを示す発端となった。
「爵位を辞退したそうだな。その気になれば、伯爵は望めたろうに」
「いや、不躾なことを言わせてもらうと、爵位は、わしには似合わない気がしてな。それに持病の糖尿が悪化していてな」
1929年4月のある日、林侯爵と秋山予備役元帥は、木更津にある林侯爵の私宅で会話していた。
「それで、ブリュッセル会のことを、それとなく林殿に見守ってもらいたい」
「おいおい、10歳以上年上に、後の事を頼むのか」
林侯爵は驚いた。
「後、数年もすれば、ブリュッセル会のトップ、梅津は将軍になるだろう。永田や小畑、岡村も同様だ。しかし、あいつらには欠点がある。わしが悪いのだが、あいつらは、政治に無色になり過ぎた」
秋山予備役元帥は、しみじみと言って、更に言葉を継いだ。
「下手な政争に巻き込まれてはいかん、とわしが庇い過ぎてしまった。白い糸は、すぐにどんな色にも染まってしまう。それを教える時間が、わしには無さそうだ。後5年は、政争に巻き込まれそうになったら、林侯爵を頼れ、林侯爵が亡くなったら、林侯爵の指名する人物を頼れ、とあいつらには言い遺した。林殿、後を頼む」
「分かった」
林侯爵は肯いた。
さて、ブリュッセル会とは何か。
第一次世界大戦時に、陸軍本体は欧州に赴かなかったが、陸軍航空隊は派遣されたし、西部戦線で大量の戦死傷者により士官、下士官を損耗した海兵隊を助けるために、陸軍から尉官クラスの士官や下士官が、海兵隊に派遣され、海兵隊の軍服を着て、欧州で戦った。
梅津美治郎、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次ら、後の第二次世界大戦時に陸軍を支えた将帥の多くが、この時に欧州で実戦を経験している。
そして、欧州で実戦を経験した彼らの多くが、日本陸軍の改革を志すようになり、日本に帰国後に親睦会という名目でブリュッセル会を結成して、行動するようになったのである。
日本の欧州派遣軍の総参謀長を務めた秋山好古予備役元帥は、帰国後は参謀総長に就任し、ブリュッセル会の後見人となっていた。
だが、秋山参謀総長が予備役に編入されると、ブリュッセル会の後見人がいなくなってしまう。
彼らの多くが、大佐、中佐になっており、後少しで将官になろうとしている。
彼らの改革をさらに進めようとすると、政治的に動かざるを得ないが、秋山予備役元帥の見るところ、彼らの今の政治的見識は、無色過ぎて、余りにも他人の意見に染まりやすかった。
「あいつらのことだ。数年、それなりに政治の事を勉強すれば、どう自分や周囲が動くべきか、どこまでが許されることなのかが分かると思うのだが。今のあいつらには、まだ顧問が必要だ。林殿、顧問役を頼む」
「分かった」
秋山予備役元帥の頼みを、林侯爵は受け入れた。
秋山参謀総長の後任人事だが、秋山元帥からの
「後は渡辺錠太郎中将に託したい」
の一言が決め手となり、渡辺中将が大将に昇進の上、参謀総長に就任することになった。
ちなみに、秋山元帥が参謀総長時代に行った陸軍、参謀本部改革の一つとして、陸相が陸軍の明確なトップになっており、参謀総長が陸軍の2位、教育総監が陸軍の3位という序列が明確になっている。
とはいえ、秋山元帥が参謀総長では、宇垣陸相どころか、田中義一首相でさえ実際は格下だった。
だが、渡辺大将が参謀総長に就任したため、陸軍は本来の序列に戻ることになった。
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