第2章ー14
こうして1931年3月、若槻礼次郎内閣が、立憲民政党を与党として成立したが、日本の昭和(農業)恐慌は、少しも収まる気配を示さなかった。
そもそも若槻内閣自体が、ある意味、陸軍の倒閣運動の機先を制するための緊急避難内閣であり、準備不足で急きょ組閣されたものだった。
そして、陸軍の当時の最大の実力者だった宇垣一成陸相を、陸軍内の不穏な動きを察知できなかった責任を取るという名目を付け、空軍本部長の伏見宮陸軍大将が因果を含めて、自発的な予備役編入処分を受け入れさせている。
そのために、若槻内閣は、南次郎大将を陸相にしているが、これはこれで、陸軍の重石が無くなったようなもので、陸軍内部の統制が執れないという問題を引き起こし、陸軍の若手将校たちの間に過激な意見が横行するという弊害を招いていた。
ともかく、こういった経済的苦境や政治的状況に悪戦苦闘しながら、若槻内閣は日本の舵を取っていたが、世界大恐慌をはじめとする嵐は、日本という船を揺さぶりに揺さぶった。
1931年は、東北地方を中心として米は大凶作となったことも、若槻内閣に追い打ちを掛けた。
1931年8月、英国は同盟国である日本に対し、金本位制の放棄を検討している旨を秘かに通知してきた。
英国ですら、金本位制放棄を決断せねばならない、井上準之助蔵相は、金本位制を放棄して、金輸出再禁止に日本も踏み切らねばならない、と覚悟を固めざるを得なかった。
そして、日本は英国と同日に金本位制の放棄を行うことを極秘裏に閣議で決めた。
1931年9月21日、英日は即日の金本位制の放棄、金輸出再禁止を公表、ここに2年も経たない内に日本の金解禁は終わりを告げることになった。
これにより、円は大暴落を来たし、皮肉にも日本の輸出は順調に回復する等、日本経済の反転攻勢のきっかけになった。
更に英国は、スターリングブロックを結成したが、日本もこれに事実上の加入を認められた。
これは、香港等、英国の中国利権の防衛には、日本の協力(特に軍事力)が必要不可欠であったことから、その代償という側面もあり、また、世界大戦以降、英連邦の一部であるインド、豪州、ニュージーランドは、日本との経済協力関係を深めていたことから、日本を単に排除することは、却ってインド等の経済を冷え込ませることになることも懸念されたからである。
(後、日英両政府共に決して公言できなかったが、インドの独立運動鎮圧に、日本が軍事力をもって協力せねばならない事態が起こる場合も懸念されていた。)
この交渉は極めて日英間で難航するものとなり、実質、1年近く交渉が行われ、1932年8月のオタワ会議で最終的に斎藤實内閣の下で妥結することになったが、日本は円という独自通貨を使うこともあり、スターリングブロックの中で、半独立の立場を維持することになった。
また、この交渉は、日本経済を英連邦経済に従属させるものであるとして、民間右翼、いわゆる国粋主義者の憤激を産み、五・一五事件の一因にもなった。
また、後述するが、1931年9月に起きた満州事変も、若槻内閣には逆風となった。
韓国の暴走を米国が後押し乃至結託して、満州事変は起こされたが、かねてから若槻内閣の一員である幣原喜重郎外相は、対中宥和主義がすぎる、と日本国内からも、米英韓等を筆頭に外国からも評判が良くなかった。
若槻内閣は、鴨緑江を越えて張学良軍が朝鮮へ侵攻してきたにもかかわらず、なお、日中和平を模索したことから、弱腰外交にも程があると、国内外から批判の嵐を浴び、1931年10月13日、内閣総辞職をせざるを得なくなり、ここに立憲政友会を与党とする犬養毅内閣が成立した。
最後の方で描いている張学良軍の鴨緑江渡河は、第3章で詳細を描きますが、実は米韓による全くの自作自演で、満州事変に消極的な日本を引っ張り込む工作の一環です。
もっとも、その後で、更にどんでん返しが起こるのですが。
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