第2章ー11
金解禁の断行、大幅な緊縮予算の実施、と日本経済に激震を走らせた第57回帝国議会は、1月21日をもって衆議院解散により終わった。
そして、日本経済に様々な影響を投げかけたが、先に日本経済に大幅な影響を与えたのは、緊縮予算の実施だった。
「あかん。公務員、特に軍人の方々の利用ががた減りしとる」
「そりゃ、平均1割も給料を削減されてはな」
「議員さんも、不景気な顔をして、さっぱり利用してくれんな」
料亭街では、そういった会話が交わされるようになった。
新平価実施により、外債償還に多額の資金が必要になった濱口雄幸内閣は、その財源として公務員給料に目をつけ、野党の立憲政友会と協力して、平均1割の削減を断行したのである。
もちろん、若手で給料がそもそも安い平職員は5パーセント程、局長クラス等は2割というように格差は設けたが、給料削減は、給料削減である。
そして、特に軍人の間の憤激は強かった。
「文字通り、命を懸けてお国の為に働いているのに、この仕打ちは何事ですか」
1930年2月のある日、海兵隊の石原莞爾中佐は、海兵本部長室にいた米内光政提督に対して、半ば怒鳴り込んでいた。
「我が海兵隊をはじめとして、我が帝国陸海軍の将兵は、世界を股にかけて、御国のためにと尽くしてきました。その給料を削減するとは許されることではありません」
石原中佐は、咆哮した。
「気持ちは分かるがな。国に金が無いのだ。我慢してくれ」
米内提督は、懸命に石原中佐を宥めるしかなかった。
この事が後の濱口雄幸首相暗殺未遂事件等の遠因の一つとなる。
軍人の給料削減により、陸海軍共、内部に反政党感情が急速に高まるのである。
だが、逆に民間右翼と軍部との間に、微妙な間隙を生むことになるのも歴史の皮肉だった。
軍部が国政改革を訴えるのは、自分の給料の為ではないか、という皮相な見方をする民間右翼が多数出たからである。
そして、表面上は公務員の給料削減は、民間の給料に影響を及ぼさない。
むしろ、自ら身を削って御国の為に努力しているというように見える。
1930年2月の衆議院総選挙で、立憲民政党が大勝した一因だった。
だが、公務員の給料削減は、少しずつ公務関連企業の労働者の給料削減を波及効果によりもたらし、更に純然たる民間企業の労働者にも給料削減を波及させていった。
日本国内の労働者の給料が削減される、または実際に削減されないまでも、削減されると多くの国民が予測する以上、国内消費は落ち込み始めた。
理屈から言えば、金解禁に伴い、一時的なデフレ不況が日本では起こるものの、日本経済の非効率分野が淘汰され、日本経済の効率化が進み、日本経済は復活するはずだった。
だが、それ以上に国内消費の落ち込みが大きかったために、1930年の前半には、日本経済はおかしくなりだした。
この状況下、濱口内閣が頼みの綱としたのが、海外市場だった。
実際、例えば、1929年10月下旬の大暴落が嘘のように、1930年1月から3月にかけて表面上は米国経済は回復していた。
ニューヨーク株式市場は、大暴落で下がった株価が元の株価の半分まで順調に回復してきていた。
このまま、米国経済が立ち直れば、そして、他の海外市場も景気が良くなれば。
新平価により、意図的に円安にした為替相場により、日本経済の輸出は増大し、日本経済は無事に立ち直れるはずだ。
濱口内閣は、そのように強気な予測をしていた。
皮肉なことに、この予測は当時の米国政府等の予測と完全に一致していたものでもあった。
1930年3月、フーバー大統領自身も声明を出した。
「米国内から失業者の群れは、60日以内に消え去るだろう」
だが、歴史は皮肉な結果を生む。
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