第2章ー3
1929年8月、昭和金融恐慌の結果、鈴木財閥のトップを務めることになった高畑誠一は、多忙を極める中で、金解禁に備えた準備を色々と進めていた。
1929年7月に成立した当時の濱口雄幸内閣は、内閣発足早々に、金解禁を断行するという声明を出しており、井上準之助蔵相は着々とその準備を進めていたからである。
だが、その準備を進める中で入ってくる情報を検討していく内に、高畑自身は、金解禁の断行には賛成だが、しかし、という想いを高めざるを得なかった。
高畑は、神戸高商の同期生であり、鈴木財閥で共に働いてきて、今では自らの腹心の部下ともいえる存在になった永井幸太郎と、金解禁について腹を割って話し合うことにした。
高畑と永井は、神戸高商以来の縁もあり、お互いに呼び捨てで呼び合う仲である。
「近々、日本でも金解禁が行われるようだが、永井、率直に言って、どう考える」
「高畑、自分の考えとしては、新平価で金解禁をすべきだ」
鈴木商店の社長室で、永井は高畑に直言した。
「やはり、そう思うか」
永井のその言葉を聞いた高畑は、我が意を得た、との思いを高めた。
永井の言葉は続いた。
「日本経済はガタガタだ。金解禁を断行して、国際競争の嵐に日本経済を投げ込み、企業の再編制を強行させる。必ずしも、間違ってはいない。我らが鈴木にしても、金子直吉さんが長年、積極経営を推し進めていたおかげで、不良企業の山が出来ている。こういった不良企業は、早々に整理しないと、日本経済の重荷になり続けて、日本の不況を長引かせるだけだ。金解禁を断行することによって、不良企業を潰すのは妥当な話だ。だからといって、旧平価で金解禁をしては、風邪で微熱を出している患者に、冷水をぶっかけるようなものだ。却って日本経済を破綻させかねないぞ」
永井の長広舌を、高畑は肯きながら聞いた。
さて、旧平価と新平価という言葉が出てきた。
今では平価といっても、すぐに分かる人が少なくなってしまったが、この時代での意味は、自国の通貨の価値を幾らの金と定めるか、ということである。
この1929年当時、1円は0.75グラムの金と同価値(つまり、1円は0.75グラムの金と兌換される)に、貨幣法で定められていたが、金解禁がなされていない以上、実際には円が金に兌換されることは無いので、実質的には無意味な状態になっていた。
そして、旧平価で金解禁を行うということは、1円は0.75グラムの金と同価値という法律のままで、金解禁を行うことだった。
だが、これは、日本経済に大打撃を絶対に与えるという話だった。
1917年に日本が金輸出を禁止して以来、日本と外貨との為替相場は不安定になっており、基本的に円安に振れるようになっていた。
旧平価に基づく円・ドルの為替相場は、旧平価だと100円が49.85ドルと定まっていたのだが、この1929年当時は、大よそ100円が46.46ドルの価値しかない状態になっていた。
つまり、旧平価での金解禁は、100円が46.46ドルの価値しかない状態だったのを、実体経済を無視して、100円は49.85ドルの価値に定めることになる。
そうなると、7パーセントの円高を急に断行し、しかも、その数字で、為替相場を人為的に固定させることになるのだ。
たかが、7パーセント円高になるだけではないか、という反論があるだろうが、急に7パーセントもの円高が引き起こされては、企業努力で何とかするにも限界があり、日本からの輸出は停滞し、逆に日本への輸入が急増するのは目に見えていた。
だから、永井は声高に旧平価の金解禁に対する反対論を唱えることになり、これに高畑も同意することになったのである。
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