幕間1ー4
1921年初頭、ポーランド・ソ連戦争に参戦したドイツ義勇軍の将兵は絶頂にあった。
祖国ドイツが赤く染まるのを防げたとして、彼らは誇りに満ちていた。
また、ポーランドの政府の上層部から庶民にまで、ポーランドの恩人として、彼らは敬愛に満ちた眼差しを送られていた。
だが、好事魔多し、彼らは足元をすくわれ、祖国ドイツから追われる身となる。
ポーランド政府から多額の恩賞を送られ、彼らの多くは、祖国ドイツに凱旋した。
彼らの一部は、ポーランド政府から、ポーランドの軍人として残らないかと打診されており、ポーランドに残る者もそれなりにいた。
だが、こうして祖国に帰国した将兵は、戦後の混乱に苦しむ周囲から嫉妬を浴びることにもなった。
表だっては、そう口に出されないものの、外国に出て行き、いい暮らしをしやがって、というやっかみを彼らは周囲の多くの人間から受けたのである。
大戦の敗北から失業者が溢れ、混乱したドイツ社会の中で、彼らは浮いた存在になった。
一方、ソ連政府にとって、ドイツ義勇軍の将兵は、恨み骨髄に徹する悪の存在だった。
彼らのお蔭で、中東欧に共産主義国家を樹立するという野望が挫かれたのである。
彼ら全員を犯罪者として死刑にしないと、ソ連政府の指導者の多くの気が晴れなかった。
1922年4月、ラパッロ条約が、ドイツとソ連との間で締結された。
その中の秘密協定の一節の中で、お互いに相手国にいる自国の犯罪者を、相手国に引き渡すという条項が入れられた。
ドイツ義勇軍の将兵は、ソ連政府によって全員が戦争犯罪の容疑者とされ、速やかなソ連政府への引き渡しが求められた。
そして、周囲から嫉視されていたドイツ義勇軍の将兵は、ドイツ政府により、ソ連政府への引き渡しが決められた。
さすがに、一部のドイツ政府、軍関係者によって内報がされたので、ほとんどのドイツ義勇軍の将兵が捕まる前に国外への亡命を決断、実行したために、ソ連政府に引き渡されることを免れたが、それでも全員が国外亡命を良しとせずに、ドイツに残った者もいた。
だが、ドイツに残っていたドイツ義勇兵全ては、ソ連政府に引き渡され、凄まじい拷問の末に戦争犯罪を自認せざるをえなくなり、死刑に処せられた。
ちなみに、ソ連政府は崩壊する時まで、こういった行為を全面否定し、ドイツ義勇兵に対する拷問等の行為は一切無かったとしている。
そして、国外への亡命を決断、実行したドイツ義勇軍の将兵が目指したのが、地続きで亡命がしやすく、彼らへの恩義を忘れていなかったポーランドだった。
実際、ポーランド政府は、彼らを暖かく迎え入れ、彼らは政治的亡命者であるとして、彼らを戦争犯罪者として自国に引き渡すように求める独ソ両政府の要求を毅然と拒んだ。
以前、マンシュタインと名乗っていたレヴィンスキー少佐も、ドイツ義勇軍の一員として、ある時は歩兵中隊長、ある時はホフマン将軍の幕僚として、ポーランド・ソ連戦争を戦い抜いた一人だった。
そして、ドイツ義勇軍を辞めた後、一時、祖国ドイツに凱旋するものの、結局は、ポーランドに国外亡命して、ポーランド軍に奉職するようになった一人だった。
そもそも、レヴィンスキー少佐は、ドイツの英雄ヒンデンブルク大将の縁者でもあり、ヒンデンブルク大将は、レヴィンスキー少佐を、ソ連に引き渡さないように運動するつもりがあったのだが、レヴィンスキー少佐の方が、祖国ドイツに愛想を尽かして、ポーランドに亡命してしまった。
ヒンデンブルク大将は、亡くなるまで、レヴィンスキー少佐が、ポーランドに行ったことを惜しんだ。
「あの若者は、我がドイツにとって、プリンツ・オイゲンのような存在になるだろう」
ここで言う戦争犯罪とは、ソ連領においてドイツ義勇軍によるソ連民間人に対する虐殺行為等があったというものです。
戦場の中で絶無とは言いにくいうえ、この当時のソ連領内では親ソ連の民間人が多数おり、ドイツ義勇兵にしてみれば、親ソ連の民間人を、ゲリラとして撃たなければ逆に殺される現状がありました。
それを逆手にとって、親ソ連民間人を撃ったことを民間人虐殺行為の戦争犯罪とソ連政府は言い、ドイツ政府もソ連政府に味方したわけです。
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