幕間1ー3
あれ、「ヴィスワ河の奇跡」が起きていないの?という突っ込みはナシでお願いします。
この世界のポーランドとソ連の戦争は、こういう流れを辿ったということで。
1920年4月、ポーランド軍はソ連赤軍に対する攻勢を開始したが、当時、ポーランド軍を主に指導していた英仏の軍事顧問団は、世界大戦の西部戦線の経験から機動戦についての理解を欠いており、騎兵の活用についても理解をしていなかった。
後に、ポーランドを救うことになるドイツ義勇兵の総指揮官となるホフマン将軍に言わせれば、
「西部戦線だけ見て、他の戦線を見ていなかった。馬鹿の一つ覚えの戦術だ」
と酷評される戦術だったのである。
一方、ソ連赤軍の方は、トハチェフスキー以下、ロシア内戦で鍛え上げられた優秀な将帥に率いられており、実戦経験も充分に積んでいた。
このためにソ連赤軍の反撃の前に、ポーランド軍は大敗、一時はキエフ近くまで進軍していたポーランド軍は退却を余儀なくされるようになった。
この時、対ポーランド戦線に投入されていたソ連赤軍は、対ポーランド軍とのパルチザン戦に勤しんでいた友軍ともいえるペラルーシ、ウクライナ義勇軍を併せると100万人近くに達していた。
一方、ポーランド軍は今なお80万人を数えたが、実戦経験に欠けた兵が多く、大敗からの退却と言うことで、兵の士気も低下していた。
また、こういった戦況を見て、独国内で共産系の労働運動も活発化し、その妨害によって、英仏からポーランドへ送られる筈の軍事物資が大量に独国内で滞留する事態も起きた。
こうした状況を見たホフマン将軍らは、元ドイツ軍の将兵に対し、いざという場合に備えて、ポーランドを救うための義勇兵と言う名目で、兵を募った。
当初は、1919年1月に起きたスパルタクス団蜂起に対する鎮圧行動のような事態を考えていたが、ソ連赤軍の進撃が急であり、1920年7月、ソ連赤軍の支援の下、ポーランド共産党政府が樹立されたとの一報が飛び込んだことから、ホフマン将軍らは、このドイツ義勇兵を率いて、実際にポーランドを救うために参戦することを決断した。
ソ連赤軍の急進撃と、独国内の共産主義系の労働運動の活発化により、実際に祖国ドイツが赤く染まるのではないか、という危機感を覚えた元ドイツ軍の将兵は多く、ホフマン将軍の下に、たちまち10万人を超える将兵が、最終的には30万近くの将兵が集った。
そして、彼らは、ポーランドを救った。
1920年8月、ソ連赤軍の大攻勢の前にワルシャワ、リヴィウが終に失陥。
ポーランド政府はクラクフに退避し、最後の抵抗を試みる有様にあった。
ポーランド政府の望みは、まだポーランド軍の将兵、60万人余りがいたことだったが、多くの兵の士気は低下しており、実戦経験に欠けた兵は頼りにならず、中核とすべき精強な兵が必要だった。
そこに、ホフマン将軍率いる10万人以上のドイツ義勇軍が駆け付けたのである。
ドイツ義勇軍とポーランド連合軍は、ワールシュタットの戦いでプジョンヌイ将軍率いるソ連赤軍の第1騎兵軍を包囲殲滅したのを皮切りに、逆襲に転じた。
ソ連赤軍の北西正面軍と南西正面軍の仲が悪いことに目を付けたホフマン将軍は、南西正面軍をまず撃破し、北西正面軍を撃破するという各個撃破作戦を機動力を駆使して遂行し、ポーランド・ドイツ連合軍は7日間に200キロという快進撃を行った。
1920年9月末にはワルシャワ、リヴィウの奪還にポーランド・ドイツ連合軍は成功し、ソ連に対する本格的な反攻を開始する。
反攻を行う新生ポーランド軍の背骨に、世界大戦の経験を積み重ねていたドイツ義勇兵はなった。
そして、1920年12月には、ミンスクがポーランドの支配下に戻り、キエフ前面までポーランド軍が迫るという状況となったことから、ソ連は講和を受諾、ソ連・ポーランド戦争は終結した。
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