幕間1ー2
主に、この世界における第一次世界大戦の東部戦線の説明になります。
ちなみにタンネンベルクの戦いが史実と違うのは、日露戦争の奉天の戦いが史実と異なり、日本陸軍大勝利に終わったバタフライ効果によるものです。
1914年の世界大戦勃発直後、東部戦線の独墺の同盟軍は、タンネンベルク、レンベルクと露軍の攻勢の前に苦戦を強いられる羽目になったが、西部戦線からの増援が駆け付けると共に徐々に盛り返していき、1915年には劣勢となった露軍はワルシャワ等を放棄して大撤退し、戦線の整理を図る状態となった。
このまま膠着状態を続け、独墺の国力が尽きるのを待つというのが、1916年初めの時点での露政府・軍の基本的な考えだったが、西部戦線の独軍のヴェルダン攻勢がその思惑を吹き飛ばした。
大苦戦を強いられた仏政府は、英露に救援を求め、1916年の初夏に英はソンムで攻勢を取り、露はいわゆるブルシーロフ攻勢を発動することになった。
そして、ブルシーロフ攻勢は表面上は露軍に一時的な大戦果を挙げさせたが、100万人以上の露軍兵士を戦死させることにもなり、準備不足のルーマニアの連合国側への参戦を招き、逆に露の負担を増やすことにもなり、と露革命の導火線の一つにもなった。
そして、1917年、終に露二月革命が勃発、この後、露側のケレンスキー攻勢が行われるものの独墺の反攻の前に、更に露では十月革命が起こった。
十月革命により、新しく露に成立したレーニン率いるボリシェビキ政権は、紆余曲折の末に1918年3月に独墺との単独講和を行うブレスト=リトフスク条約を締結し、ここに東部戦線は一時終結するのだが、世界大戦の余波は、これだけで収まりはしなかった。
ブレスト=リトフスク条約後、露ではボリシェビキと反ボリシェビキとの内戦が激化した。
また、ウクライナ等では露からの分離独立を求める反乱が起こり、フィンランドやバルト三国は実際に独立を果たした。
そして、1918年11月、世界大戦は独の講和受諾により終結、ポーランドやチェコ、ハンガリー等は独墺からの独立を宣言した。
こうして、ある意味では、世界大戦の続きともいえる戦乱が、東欧では巻き起こった。
1918年11月18日、レーニン率いるボリシェビキ政権は、ペラルーシ、ウクライナ、ポーランド方面から撤退する独墺軍の後を追うように赤軍を進撃させ、東欧から中欧を赤い嵐で襲おうとする計画を発動した。
この当時、この方面にいた独墺軍は独軍80万人を中心とする兵力だったが、これだけでは、この方面にいた親ボリシェビキ勢力を抑え込むことは困難であり、順調に勢力を伸ばしていた。
赤軍はこういった親ボリシェビキ勢力を糾合し、ワルシャワやブタペストを「解放」、更にベルリンやウィーンに赤旗を翻らせることを夢見た。
こういった事態に、英仏はポーランド等を支援し、ボリシェビキ勢力の進撃を阻止しようと試みた。
1919年2月には、英仏は正式に数百名規模の軍事顧問団をポーランドに派遣する等の支援を行ったこともあり、同年秋には、質はともかくとして、ポーランド軍は50万名を超える規模を持つようになった。
さらに事態を複雑化させたのは、新生ポーランド政府の指導者の多くが、かつてのポーランド分割以前、ポーランド・リトアニア共和国の復活を夢見た事である。
多民族共存、諸民族平等の理念を高く掲げる新生ポーランド政府は、ボリシェビキ勢力から変わった新ソヴィエト連邦政府にしてみれば、反革命の宿敵に他ならなかった。
1919年中は、ロシア内戦にソ連政府が傾注したこともあり、ポーランドとソ連との戦争は小規模なものに止まった。
前述したように、ポーランドはまずは軍事力の整備を進めねばならないという状況にあった。
ソ連も反革命の白軍やウクライナ独立軍との戦闘に赤軍の主力をつぎ込んでいた。
だが、1920年に、ポーランドとソ連との戦争は激化する。
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