第1章ー13
斎藤實枢密院顧問官は、枢密院のロンドン海軍軍縮会議の審査の場において、沈黙をひたすら守ることにしていた。
自分としては、ロンドン海軍軍縮条約締結に賛成の立場で、賛成投票以外にも、賛成の演説も枢密院の場でするつもりだったのだが、海兵隊の大先輩の林忠崇侯爵に、予め釘を刺されてしまった。
「斎藤、悪いが、今回の件については、一切、沈黙を守ってくれ」
先日、林侯爵は、斎藤の私宅をいきなり訪問してきた。
斎藤が慌てて、林侯爵を応接間に招じ入れると、開口一番に、斎藤相手に林侯爵は、そう切り出してきたのである。
斎藤は、幾ら大先輩の言葉とはいえ、と不快感をまずは覚えた。
「私は、今は退役した身です。何故、沈黙を守らねばならないのです」
斎藤は、林侯爵に反論した。
「後々の事があるのだ」
林侯爵は頭を下げながら言った。
「実はな、海相については、退役海軍軍人でも構わない、という改正がなされる予定なのだ。その経験を踏まえた上で、陸相にもそれを広める予定だ」
林侯爵は、声を心持ち潜めながら言った。
「まさか」
斎藤は、その一言で、察してしまった。
「そうだ。君に海相に復帰してもらいたいのだ。そして、加藤軍令部長と財部彪海相を、共に海相として予備役編入処分にしてもらいたい」
林侯爵は、言葉をつなげた後で、更に言った。
「このことは、山本権兵衛元首相も了承済みだ」
「娘婿を斬るというのですか」
斎藤は呆然とする思いに駆られた。
「西園寺公望公に立会人になってもらってな。わしと山本元首相は、話し合った。海軍本体内の亀裂を修復せねばならん。どうするのが、最善かとな」
林侯爵は、半ば独り言を言っていた。
「喧嘩両成敗と言う形にするしかない、ということになった。娘婿可愛さから、山本元首相はかなり躊躇われたが、私の一言に肯かれた。泣いて馬謖を斬るべきです、とのな」
「確かにそれが最善かもしれませんが」
斎藤も、半ば独り言を言っていた。
「何故、それを私がするのです」
「簡単なことだ。君が海軍本体ではなく、海兵隊出身だからだ」
林侯爵は、言葉を返した。
「海軍本体の誰が二人の首を斬っても、海軍本体内に恨みが残る。海兵隊が二人の首を斬るのが最善だ。一応は、外部の人間が首を斬ったことになるからな。それに、君ほどの人間が首斬り役を務めたら、大抵の人間が口を挟めなくなるだろう」
「そうですな」
林侯爵の言葉に、斎藤は肯かざるを得なかった。
かつて、シーメンス疑獄の際に、斎藤は海相として粛軍を行った。
そのお蔭で、海軍の傷は最小限で食い止められ、山本元首相は元老になれたのだ。
再度、粛軍を自分が行うと言えば、反対論者の声はかなり小さくなるだろう。
斎藤は、そう想いを巡らせた。
「分かりました。その大役を引き受けましょう」
斎藤は、林侯爵の提案を受け入れることにした。
沈黙をひたすら保つ斎藤の目の前で、伊東巳代治枢密院顧問官らは、ロンドン海軍軍縮条約締結に疑念を呈していた。
さすがに、軍事参議会で圧倒的多数で締結相当となったロンドン海軍軍縮条約締結に表立っての反対は、伊東らはしなかった。
「この件、ロンドン海軍軍縮条約締結は、軍令部が反対する以上は、天皇陛下の統帥権干犯と言うことにならないだろうか」
だが、伊東がいった一言には、斎藤は沈黙を保てなかった。
「その言葉、日露戦争時に、桂太郎首相が陸海軍の作戦内容に介入できるようになった際に、伊藤博文公にあなたは言われたのですか。首相は陸海軍の作戦内容にさえ介入できると、憲法解釈が決まっています。兵力量は言わずもがなでしょうに」
斎藤の一言に対して、伊東は沈黙した。
こうして、枢密院は終にロンドン海軍軍縮条約締結に同意した。
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