第1章ー11
結局、特別会である第58回帝国議会が終了するのは、1930年6月になってからという話になった。
その間、衆議院でも貴族院でも、濱口雄幸首相以下、濱口内閣の面々は、ロンドン海軍軍縮会議に伴う軍縮条約の内容とその説明について、野党議員が行う質疑討論に対し、大汗をかく羽目になった。
そんな大騒動が終わった頃に、ロンドンから若槻元首相以下、軍縮会議の出席していた面々は帰国してきていた。
その中には、当然、土方勇志伯爵もいた。
「えらい目に遭いました」
土方伯爵は、立場上、帰国した後、速やかに林忠崇侯爵の下を訪問したのだが、林侯爵の顔を見るや否や開口一番にそう言っていた。
林侯爵は、帝国議会が終わったことから、木更津の本宅に引き上げており、土方伯爵は、木更津まで赴く羽目にもなっていた。
「たまに、そういう苦労をするのもいいだろう。わしも世界大戦後にヴェルサイユ条約の場に出席させられたものだ。わしの方が、もっと酷い理由だった。通訳が要るから、通訳として出席してくれ、だったな」
林侯爵は、土方伯爵の愚痴に、軽口で答えた。
「かないませんな」
そう答えながら、土方伯爵は思いを巡らせた。
どうも、いかん。
林侯爵に掛かっては、最後には、自分は赤子の手をひねるように、言いくるめられてしまう。
人生経験の差が出てしまうのだろうか。
土方伯爵は、そんなことをふと思った。
「ロンドンでの詳しい話をしてくれないか。わしも、軍事参議官会議に呼ばれている身でな。ロンドンでの海軍軍縮会議の雰囲気を把握しておきたい」
林侯爵に促され、土方伯爵は、ロンドン海軍軍縮会議の話を始めることにした。
「ロンドンで、仏伊の代表団は海軍軍縮会議の途中で、会議から抜け出しましたが、どうもお互いに相手国と対等と言うのが我慢ならなかったみたいです」
「仏伊の海軍は、お互いに地中海の制海権を争う身だからな。それに長年、国が統一された歴史のある仏に対し、明治維新とほぼ同じ頃に国の統一がなされた伊だ。そういった絡みから、対等でどうでしょう、という提案をお互いに呑めないのだろう」
「あながち間違っていない気がしますね」
土方伯爵は、林侯爵の半ば放言に近い意見に肯かざるを得なかった。
「それにしても、何で、英米は、日本に金剛級戦艦1隻の練習戦艦化を求めたのだ」
林侯爵の質問に対し、土方伯爵は単刀直入に答えた。
「英米ともに、自国の国内世論対策ですよ」
「そういうことか」
林侯爵は、すとんと胸に落ちたような顔をした。
「何しろ、対中戦争を考えると、日本に空母1隻の更なる保有を認めざるを得ない。かといって、日本に単純な軍拡を認めると、国内世論がうるさい、という訳です。何故、日本だけは軍拡するのだ、と」
「それで、金剛級戦艦1隻を練習戦艦にしてくれ、という訳か。日本が戦艦1隻を練習戦艦にする代償として、空母の保有を認めることにした、と国内向けに言いたいわけだ。英米両国政府は」
「そう言う理由です」
土方伯爵と林侯爵は会話した。
「厄介な話だが、納得のいく話でもあるな。空母と戦艦では、どう見ても戦艦の方が高い価値がある。戦艦1隻を練習戦艦にして、空母1隻、それも1万2000トン級の小型空母1隻の保有を認められた方が、日本海軍の軍縮になるのは、否定できない話だ」
林侯爵は半ば唸りながら言った。
「重巡洋艦の保有制限等も同じ理由か」
「同じ理由と見て間違いないです」
林侯爵の問いかけに、土方伯爵は肯定した。
「日英同盟もあるし、日本と米国は肩を並べて、世界大戦等で戦った仲だ。それなのに、日英米間の戦争は夢物語だからな」
林侯爵は独り言を言った後で続けた。
「軍縮条約を締結するのが妥当だな」
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