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後編:これからは、ふたり

「真理せんせい、おはようございます!」

「あ……お、おはよう」

 次の日の美緒せんせいは、いつもと変わらない様子で子どもとお絵かきを楽しんでいた。彼女の絵は子どもたちに人気で、描いてとせがまれているところを何度も見てきた。

 ピアノと違い、絵どころか何かを作ること全部が子どものときから苦手だった私にとってはそれが羨ましくて、憧れだった。でもその憧れすら今ではなんだか違う感情に変わりそうで、振り払うように顔を振る。


「せんせー? どうしたのー?」

 子どもが心配そうに私のそばに寄り添ってくる。

 子どもは大人の些細な変化にもすぐに気付くものだ。きっと私の淀んだ心が、意図せずして表情に表れていたのかもしれない。

「ううん、なんでもない。えーと、私はお姉さんになればいいのかな?」

「うん! まりせんせーがおねえさんで、わたしがおかあさん!」


 喜々とした表情でおままごとの準備をいそいそと始める子どもたちを、私はぼんやりと見つめていた。

「えー、わたしもおかあさんがいいなー!」

「じゃあしーちゃんもおかあさん! わたししーちゃんとけっこんするの!」

「うん、やさしいみーちゃんすきー!」

 そう言い合って女の子同士で抱き合うその姿は、多くの人にとってはきっとなんてことのない、微笑ましさすら感じる一場面でしかないのだろう。

 でもそれは、私の心を圧迫するには十分すぎるほどだった。眩しさすら感じるその光景に思わず目を背けてしまう。


 私たちの問題は子どもたちには関係のないことだ。当然、そのことを保育に持ち込むようではまだまだ未熟だときっと叱られてしまうだろう。

 ふとテーブルの方に視線を移すと、描いた絵を子どもたちと見せ合う彼女が目に入った。明るく、それでいて温かな笑顔を子どもたちに向けるその姿からは昨日の夜男の胸に抱かれて泣いていた姿をまったく感じさせない様子だった。

 きっともう私への告白、好意を抱いていたことは彼女の中で過去になったことなのだ。

 私が彼女の告白を断って、彼女には他に寄り添う人ができて、いつものように戻って。それで、おしまい。嘆くこともまた、その結果の一つとして甘受するしかない。



 本当に、本当にそれでいいのだろうか…………



「ねえ先生、この間の告白のことだけど――――」

 情けないことだし、恥ずかしいことなのは自分でもわかっていた。

 でも今日一日保育をしていて分かった。私は自分で突き放したはずの彼女の好意を引きずっている。

 だから、できるなら正直に話してほしかった。他に付き合っている人とか好きな人がいると言ってもらって、彼女の手でこの関係を終わらせてほしかった。


 なのに彼女の口から放たれた答えは、私の身勝手な願望とは違ったものだった。

「え!? や、やだなせんせい……ほ、本気なわけないじゃないですか……せんせいはわたしなんかじゃなくて、もっとちゃんとした人があらわれますって」

 顔を逸らし、私の存在を視界から完全に消し去ったまま、彼女はそう言った。

 それは、すべてをなかったことにしようとする言葉。彼女の好意も、私の苦悩も、なにもかもをも否定するような一言に、私の心は鈍器で殴られたような感覚を抱いた。


 ああ、似ている――――あの人に――――あの時に――――もう……限界だ。


「……ええ、そうね。確かに、本気にした私がバカだった。だから、あなたが誰と付き合おうが、私にはどうだっていいのよね」

 心にもない、いや、ないものにしようと心の奥底に閉じ込めていたものを叩きつけるようにこぼす。

 その言葉にハッとした顔をし、彼女は慌てて口を開いた。

「! ……まさか、昨日の!? ち、違うんです! あれは――――」

「違うって何!? 駅で男と女が抱き合ってて、他に何があるっていうの!? ……あなたも結局、あの人と同じなのね。女同士なんて無理だってわかった上であんな思わせぶりなこと……はじめから男の恋人がいるくせに……どうせ、私を都合のいい女だって思ったんでしょ!?」

「そんな……! 振ったのはせんせいじゃないですか!? なのに……なのになんでそんなこと言われなきゃならないんですか!?」

「分からない……分からないよ! 傷つきたくなかったから突き放すつもりだったのに……今のままでいられればそれでいいと思ったのに……あなたが離れていくと思うと悲しくてたまらないの!」


 それはため込んでいた想いだった。どこまでもまっすぐな、思わず道を踏み外してしまいそうなくらい純粋な気持ちだった。

 心の箍が外れていくのを感じた。それが醜いことだと、子どもじみたわがままだと分かっていても止めることができなかった。

「……いやだ。いやだよ。先に進むのが怖い。でもこのまま何もなかったみたいに終わってしまうのが、一人がもっと怖い……」

 想いがとめどなく溢れてくる。どこに向かっていけばいいのか分からない、何も見えない想い。

 さながら親の姿を求めてあてもなく彷徨う迷子の子どもだ。探して探して探し回って、挙句歩き疲れて途方にくれたように、私はその場にしゃがみ込んでしまった。

 その姿をただ黙って見つめる彼女は、一体何を思うのだろう……



「……せんせい、子どもたちももう帰りました。私たちももう帰りませんか?」

 ただお互いが無言のまま時間が過ぎていき、薄暗い部屋で先に口を開いたのは彼女の方だった。

「……え、だって定時にはあと1時間……」

「そんなのどうにだってなります! いきましょう!」

 彼女は私の手を引いて、そのまま上司の元へ早引きの直談判をしにいった。

 彼女がどんな話術を使って2日続けて、しかも私の分まで時間休をつかみ取ったのか、遠巻きで見ていた私には分からなかった。ただキョトンとした上司の表情だけが目に映った。





 連れてこられた先はいつもの居酒屋だった。客が増える時間から少し早いからか、まだ店内はランチの雰囲気を残す落ち着いた様相だ。入り口に入るなり、そのままいつもの場所に向かい合うように座る。

「……情けないところ、見せちゃったわね」

「いいえ、いつも素敵なせんせいが泣いてるところ見たの初めてで、変な言い方ですが……綺麗だったです」

「ふふっ……」

 彼女の歯に衣着せぬ正直な気持ちに、思わず笑みがこぼれてしまう。

 泣けるだけ泣いてすっきりしたのか、憑き物が取れたように心が軽くなったのを感じた。



「実はね、女の人から告白されるの、これが2回目なの」

 だからかもしれない。今なら素直に言えるかもと、私は閉じ込めていた過去を今こそ伝えようと言葉を紡いだ。

 それは高校生のときのこと。私が初めて告白されたところから始まる昔話。



「幼馴染というものね。仲のいい友だちだった。……いいえ、少なくとも私の抱いていたものはそれ以上のものだった」

 あの人に想いを告げられるより前から、私の中の『好き』が単なる友だちとしてでないことは気づいていた。でもそれは明らかにしてはいけない感情だと心を押さえつけてきた。

「そんな時のあの人からの告白だった。はっきり言ってあんなに嬉しかったことはなかったわ。私はすぐに返事をした。その後もデートだってしたし、……キスくらいはよくしてた」

 それは夢のようなひと時だった。こんな関係が永遠に続くと、信じて疑わなかった。

 まさかあっけなく崩れてしまうとは私には、想像すらできなかったのだ。


「半年も経った頃、彼女と二人で会う時間が急に減ったの。当たり前のようにしていたキスも、指折り数えられるくらいになっていた。疑念は予感に変わり、そして私は認めざるを得なかった。あの人の心が私から離れていっているのだということに」

 所詮は誰もが経験するいくつかの恋の一つ、私はあの人と話をして、きっぱりと終わりにすればそれでいいと思っていた。悲しい気持ちはあっても、単に恋人として好きでなくなったというなら昔のように友だちに戻ればいいと、あの時の私は無知にもそう考えていた。

 でもあの人の言葉は、私の軽はずみな希望をも粉々に打ち砕いてしまった。


『えっまさか本気にしてた……とか? いやいや違うでしょ? わたし、彼氏ができたの。やっぱり本当の恋人が欲しいじゃん? 大丈夫だって、真理にもちゃんと好きになれる人ができるよ』


 本当? ちゃんとした?

 彼女への恋愛感情は偽物だったとでもいうのだろうか。

 彼女との思い出は真っ当なものでなかったとでもいうのだろうか。

 踏みにじられたと思った。これまでの恋心も、これからの誰かを愛する気持ちも、それだけじゃない私の全てを否定された気さえした。


 何もかもが崩れ去っていくのを感じた。視界は暗闇に閉ざされ、ただあの人が私を励ます空っぽな声だけが頭の中を何度も反響し続けていたことだけを覚えている。

 それ以降、あの人とはついに二度と言葉を交わすことなく卒業してしまった。

 私は思い知った。せっかく安定した関係を築けたなら、それを先に進めてはいけないのだ。より多くを望もうとしたから、元の関係まで壊れてしまったのだと。


「……だから、私はあなたの想いに応えることができなかった。またあの時見たいに裏切られるのが怖かったから。今の関係を大事にするあまり、あなたを突き放してしまった。……ごめんなさい、ただ私が弱かっただけなのに。……こんなのただの言い訳よね」



 私の話はこれでおしまい。懺悔のような、贖罪じみた話を終えて、ふと彼女の方を見る。

 私の目に映った彼女の表情は……

「――――なんで、あなたが泣くのよ……!」

 彼女は泣いていた。頬を伝い零れ落ちる涙をハンカチで拭ってもなお、その目からは涙があふれて止まらなかった。

「だって……真理せんせいがそんなに辛い思いをしたのに、わたし、全然知らなくって……なのに、自分の想いばっかり一方的に押し付けて……せんせいを苦しませてしまって……ごめんなさい、わたし……ごめんなさい……!」

 彼女に非なんてあるはずがない。それなのにまるで子どものように、彼女は何度も何度も謝った。

 それが純粋な想いでなくてなんだというのだろう。それが正直な気持ちでなくてなんだというのだろう。謝るとすれば、私だ。過去の傷を盾にとって彼女の気持ちをないがしろにして、自分だけが傷つけば丸く収まると思いこもうとしていた。


 そんなのはただの逃げだということに気づいた時には、もう手遅れだった。

 彼女の涙を人差し指ですっと掬う。なんて愛おしい……できればこんな姿、誰にも見せたくないな。そろそろ誰かお客さん来るかもな、なんてふと店の入り口の方に視線を移したときだった。

「「あっ……」」

 思わず声が漏れたのは、彼女とほぼ同時だった。どうやら同じタイミングでそれを見つけたらしい。

 二人の視線の先を見ると、入り口のすぐそばに立てかけてあるホワイトボードが目に映る。

 それは普段季節のおすすめメニューが書いてある何気ないもの。少なくとも私たちの知る限りではそれ以外の何物でもなかったはずだった。でもそこに書かれていたのは……


『毎週火曜日はレディースデー! 女性限定で生中ジョッキ1杯の値段が半額!!』


「……せんせい、知ってました?」

「いいえ、私も初めて。考えてみれば、私たちって金曜日にしかここに来てなかったから、他の日に何があるかなんて知らなかった。新しい発見……ね」

 そんなことを言って、お互いに笑いあった。

 店員が怪訝そうに私たちの方を見る。そういえばここに着いてから何も注文していないままだった。

 せっかくなので、半額だというビールを二つ頼んだ。すぐに目の前にビールが並々注がれたジョッキが置かれる。泡が立ち上っては弾けて消えていくビール。理想的な7対3の比率のそれは店の明かりに照らされて、金色に輝いていた。


「……私ね、こういうことでよかったんじゃないかなって思うの」

「こういうこと、ですか……?」

 彼女は少し落ち着いたのか、ハンカチを下におろして私の方をじっと見ていた。

 涙で潤んだ瞳もまた、キラキラと光っていて綺麗だなと思った。

「少しだけ寄り道をして、今まで知らなかったことを知ることができた。また一歩進むことができた。この一歩を少しずつ積み重ねていって、それが大きな幸せになる」

 そうだ、変わってしまうことを恐れていては前に進めない。でもだからといって、前に進み続けなきゃいけないなんてことはないんだ。

「止まってもいい。そうすることで気づくことがあるから。回り道をしてもいい。そうしないと見えない景色だってあるから。そうやって少しずつ、ゆっくりと歩いていけばいい。そしてその隣にはどうかあなたにいてほしいと思った」


 我ながら、なんて虫の良い話だとも思う。でもそれが私の想い。純粋でもなければまっすぐとも言えないけど、今私が言える真剣な気持ち。

 それを伝えられただけでいい。これでたとえいつこの関係が終わったとしても悔いはない……


「あのー……やっぱりせんせいは誤解してます。昨日のアレ、……実は兄なんです」

「…………へ?」

 せっかくのかっこいい話が台無しになるくらい、間の抜けた声が出てしまう。

 嘘、は言っていない様子だった。というより口をキュッと結んでうつむくその表情は、私の早とちりに気まずそうにするそれだった。

 なんてありがちな勘違い。あまりの恥ずかしさに腰が抜けてしまいそうになる。

「それじゃあまさか……あの時泣いていたのって……」

「はい……真理せんせいに振られたと思って兄を呼び出して泣きついてたんです。引きずったらせんせいに迷惑をかけるからこっそりと思ったんですが……まぎらわしいことしてしまいました…………」

 彼女の申し訳なさそうに思う気持ちが、縮こまる姿全身で物語っていた。その小動物のようだとさえ思う仕草に私の心は温かいもので満たされていく。



 こんなに単純なことでさえもすれ違ってしまう。なんて不器用で、なんて不安定な私たちなのだろう。これからそんな二人が同じ道を歩いていくことに、迷いはもちろんある。でも、道を歩く以上迷うことは自然なことなのだろう。

「えーと、それじゃあ改めて言ってもいいですか? 真理せんせい、わたしはあなたのことが好きです。これからも恋人として、一緒に歩いて行ってほしいです」

 涙を拭う彼女の口から放たれた、やっぱりなんの飾り気もない告白。私の手を引いてくれる、まっすぐで純粋な好意。

 こんなにも温かな手を差し伸べられて、掴まないなんて嘘でしょう?


「ええ……少しずつ、二人の道を歩んでいきましょうね」

 一人で悩んでいた前とは違う。今は隣に彼女がいてくれる。

 決して緩やかでなだらかな道のりばかりではないだろう。躓いたり、踏み外してしまいそうになることもあるかもしれない。

 それでも二人一緒ならきっと大丈夫。そのはじめの一歩を今踏み出したのだ。



「はー、気が抜けたらのど乾いちゃったなー。真理せんせい、早く飲みましょう! あ、店長生二つ追加で!! 今日は半額だからいつもの倍いけますよね!」

「ちょっと美緒せんせい、倍飲んだらいつもと値段変わらない……ていうか明日も仕事!」

「だいじょーぶです! 酔いつぶれたら真理せんせいに送ってもらいますから! あ、せっかくですし手をつなぎましょうよ! ……それとも、また新しい発見を探します?」

「新しい発見……?」

「はい、たとえば――――」


 そう言って、私の耳元に彼女は口を寄せてそっと囁いた。吐息交じりのその言葉に、私の顔がみるみる赤くなっていくのが鏡を見ずとも分かった。

 何て囁かれたのかは…………恥ずかしいから言わないでおこう。


まず始めに、最後まで読んでくださりありがとうございました。


真理と美緒、二人のこれからに期待や応援をしていただけるような作品をと思い、この話を書きました。

機会があればその後も書いてみたいなと思ったり……



色々と未熟で拙い部分もありますが、この作品を糧の一つとして、より良いものが作り出せるよう精進していきます。

どうかこれからもよろしくお願いします。


※連載中の小説『傷は抱えたままでいい』もどうぞ……

http://ncode.syosetu.com/n1092dc/

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