前編:いつだって、ひとり
考えてみれば、子どもは家か自分が普段通う場所か、その限られた範囲が世界の全てだ。
だからこそ、子どもはいつだって純粋で、いつだって真剣で、そしていつだってまっすぐ。
ただ前だけを見て進み続ける。それが子どもの存在意義であり、強さ。
私はその姿が眩しくて羨ましいと思う。“好き”という気持ちを何にも囚われることなく、時には性別の壁すら軽々と貫いて相手に届けてしまえるのだから。
『せんせー! おんなのことおんなのこってけっこんできるよね!!』
今思えばその言葉は、きっと私の心を敏感に感じ取って放たれた一言だったのだろう。
「真理せんせい、わたし、せんせいのことが好きです」
彼女の口から放たれた、なんの飾り気もない告白。まっすぐで、純粋な好意。
それは取り立ててお洒落というわけでもない、いたって普通の居酒屋で発せられた。
あまりに直接的な言葉過ぎて、飲もうと持ち上げたビールのジョッキに口もつけぬまま、機械的な動作で静かにテーブルの上に置いてしまう。
ほのかなオレンジ色の、食事をおいしく見せようとする工夫が凝らされた照明の下に置かれたテーブル。そこに私たちは向かい合って座っている。
周囲には私たちと同じように、一日の仕事の疲れを癒そうとする大人で賑わっていた。それは昼間子どもたちに囲まれた職場と年齢は違えど、童心に返るという意味では同じようなものかもしれない。それでも女同士二人きりというのは私たちくらいで、周りは男ばかりだ。
そんな中での告白は正直ムードとしてどうなのだろうと、思わなかったと言えばうそになる。
「えーと……それは先輩として、という意味かしら?」
だから少し意地悪なことを聞いてやろうと思った。彼女が単に尊敬だとか頼りにしているだとか、そんな気持ちだけで話しているのではないことは表情で分かっていたが、なんとなくそう言ったときの反応が見たかったのだ。
「いいえ、わたしは、真理せんせいのことをずっと想っていたんです。その長くてきれいな黒髪も、すらっと伸びた身長も、楽しいピアノを弾く指も、全部……。せんせいとずっと一緒にいたい。職場の仲間としてだけじゃなくて、……それ以上の関係としても、ずっと」
果たして予想通り、いやそれ以上の答え。それ以上軽口を言えなかったのは、彼女が懸命だったからだ。たどたどしくも私を射抜こうとする直線的な想いが見て取れた。彼女の真剣な眼差しが、私に焦点の当てられた熱っぽい視線が、何よりもそれを物語っていた。
かわいい子だな、と素直に思った。体の奥底から湧き上がってくる暑さは、きっとアルコールのせいではないだろう。初々しさがどこかくすぐったく感じて、思わず体をくねらせる。
私はできるだけ優しく彼女を見つめた。目が合った彼女は、赤くしていた頬をさらに紅潮させて目を逸らす。髪を耳にかける、その何気ない仕草に愛おしさすら覚える。
率直に言って嬉しかった。私の余裕ぶった振る舞いの奥には、言葉では言い表せないくらい熱く湧き上がるものを感じていた。
でも、いやだからこそ私は彼女の想いを受け止めることができない。
……いや受け止めてはいけない。それ以上踏み込んではいけないのだと、私の心が警鐘を鳴らす。
「少し……考える時間をちょうだい?」
言うべき答えは既に決定している。だが期待に満ちた彼女の表情を曇らせることができなかった私は、悩むふりをして少し時間をおいてから答えるという逃げの一手に思わず出てしまった。
私の言葉を聞いた彼女は少し驚いたような表情をして、意外にも柔らかい笑顔を見せて言った。
「返事、待ってますから。……ありがとうございます」
そう話す彼女の無垢な笑顔を見ていると胸がいくらか痛んだ。どんなに待ち望んでも、私には彼女の欲する答えを示すことができない。
結局その後はとりとめのない会話をするに留まり、そのまま私と彼女はお互いの家路についた。
夕方過ぎから降り始めた雨のせいかどこか肌寒い、5月の金曜日の夜の出来事だった。
彼女――――美緒せんせいは私と同じ幼稚園で働く、いわば仕事仲間だ。年は二つ下、でも四年制の大学を卒業した私と違って、短大を卒業してすぐ就職した美緒せんせいは、私と同期になる。
周りが10年以上のベテラン先生の中、美緒せんせいは唯一歳が近く、趣味も似通っていてとても気が合った。職場でだけじゃなく、金曜日には仕事のあと駅の近くの居酒屋で慰労会なんて言って飲んだりするのがいつもの日課みたいなものだった。
色んなことを話した。お互いの仕事の愚痴、悩み、他にも色々。
初めて職場に勤めたときから、お互いを励まし合って仕事を頑張ってきた。慣れない環境で子どもに振り回される日々。行事に追われて周りが見えなくなっていて心細くって……そんなとき美緒せんせいとの会話だけが救いだった。
私とは対照的な明るい栗色の髪。内側にふわりとカールした毛先は、彼女が軽やかに動くたびに羽が舞うように靡いて素敵だなといつも思っていた。笑顔の苦手な私と違って、彼女の笑顔は太陽のように子どもたちを照らしていた。そして、それは同時に私にも光を届けてくれた。
単に仕事上の仲間というだけではない好意を抱いていたのは、きっと私も同じだったのだろう。でもまさかそんな彼女から告白をされる日が来るとは夢にも思わなかった。
でも、それ以上の関係になることはありえない。仕事仲間としての関係、それだけで私は充分だ。
週末、土日の二日間たっぷり時間を使わせてもらった。このくらい時間を空けてからなら、それが悩んで悩んで悩み抜いて出した答えだと納得はせずとも受け入れてはくれるだろう。
ベッドの中でまどろみながらそう思う日曜日の深夜。どこか憂鬱なのは明日が月曜日だからだ、と繰り返し自分に言い聞かせて眠りについた。
「ごめんなさい、私、美緒せんせいの気持ちには応えられない」
そして次の日、子どもたちがみんな帰ったあとの夕暮れの光が差す部屋でそう告げた。
日中は子どもたちの明るい喧騒で満ちている空間も、二人きりだとどこか虚しいほどの静寂に包まれている。
その中で私の言葉はまるで漂うようにじわりと部屋に響き渡る。
「……分かりました。それがわたしのために考えてくれた返事なら……それでいいです」
私の答えと、それに応じる自分の答えをゆっくりと噛みしめるように、私の出した薄っぺらな答えを彼女は静かに受け止めた。
もちろんその表情は決して明るくなどない。失恋したものの反応としてごく当たり前のものだ。
その陰った瞳を見ると後悔の念がちらつく。私の答えに対する彼女の様子は充分予測できたものだったはずなのに、実際に目の当たりにすると本当に正しかったのかと思わずにいられない。
「……明日からまた仕事仲間としてよろしくお願いします」
そう言って彼女は足早に部屋を出て行ってしまった。あっ、と思い、手を伸ばしそうになる。引き止めそうになる。でもその伸ばしかけた手を思考ごともう片方の手で抑え込む。
たとえそうしたいという欲求にかられたって。今すぐに謝って、彼女を抱きしめたいと思ったって。それをしてはいけないのだ。
彼女だって言っていた。明日からまた仕事仲間、私がどんな返事をしたってそれだけは変わらない。
もう少し時間が経てば、このことだって良い思い出になってくれる。これ以上の関係にならなくたって、私と彼女の関係は今のまま変わらず続いていくのだから。
彼女にとって、そして私にとってこれが一番いいのだと、そう自分に何度も言い聞かせながら。私は小さくなって消えていく彼女の背中を見つめていた。
「えっ……もう帰ったんですか?」
「そうなのよー子どもたちもみんな帰ったし、1時間の時間休をもらって帰ったわよ」
できるだけ彼女から離れようと少し時間をおいて職員室に戻った時には、すでに彼女の姿はなかった。急な用事が入ったといって急いで荷物をまとめて帰っていったらしい。
「真理せんせい、美緒せんせいから何か聞いてない?」
「……いえ、特に何も」
上司にはそう返すが、心当たりがあるとすればおそらくさっきのことなのだろう。
彼女をきっぱりと振っておいて、あの影が差した後ろ姿を見て、何も知らないとは言えない。だが、それを上司に伝えることはできるはずもなく…………
結局彼女から遅れること1時間、私も保育所を後にして家路についた。
保育所から駅へと向かう道をぼんやりと歩いていく。それ自体はいつもの帰り道なのだが、どこか気持ちが落ち着かない。
……分かっていた。隣に彼女がいないからだ。お互い最寄りの駅が同じ路線の二つしか離れていないから、保育所から駅までの道はいつも一緒に帰っている。週末の居酒屋ほど長い時間でもないけれど、それも仕事後の心安らぐひと時だった。
でも今日は彼女が先に帰ったから、滅多にない一人ぼっちの帰り道になる。
辺りはもう夜といっていい時間。太陽は沈み、そこかしこに町明かりが灯っている。ビルの間を吹き抜ける風が、初夏の季節なのに肌に突き刺さるようだ。
「………………ふう」
寂しい、なんて思ってはいけない。
彼女を突き放したのは私なのに、隣に彼女がいないことを嘆く資格なんて私にあるはずがない。
大丈夫、明日になればきっと元通り。彼女から告白されるより前の、お互いを仕事の面で支え合ってたあの関係に戻れる。帰り道も明日から、また一緒だ。
どうしてだろう、なんでそんな根拠のない希望を夢見てしまったのだろう。
一度壊れてしまったものは決してもとに戻らないことを、他ならない私が知っていたはずなのに。
「あ…………」
乗っていた電車が止まった。私が下りる駅の二つ前。
いつも彼女が下りている駅だった。住宅が立ち並ぶ、今の時間は私と同じように家へと帰っていく乗客が行き交う駅。偶然、人波の中に彼女の姿を見つけた。でもそこにいたのは一人ではなかった。
彼女は抱きしめられていた。相手は見知らぬ男、その胸の中に顔をうずめていたのだ。
後からでもはっきりと彼女だと分かる栗色のカールした髪。そこに手を回し、身体を優しく包み込む男。……そこまでしか、私はその光景を見ることができなかった。
電車が出発してしまったから? 違う、その前に私が顔を逸らしていたからだ。
揺れる電車の手すりに身体を預け、胸を服越しに強く抑えつける。握りしめられた服が熱を帯びてもなお、張り裂けそうなものを内へと押し込もうと指により強く力を込めた。
「なんで……なんで、こんなに苦しいの……?」
何をうろたえているんだ私は。彼女は安心したかっただけなのだというのに。だから私に告白したのだし、私がそれに応えなかったから違う人にそれを求めた。たったそれだけのことじゃないか。
だからあの光景を見た私がすべきなのは暖かく見守ることだけであって、悲しんだり、怒ったり、取り乱したりすることなんかじゃないはずだ。
…………違う。安心したかったのは私の方だ。あの時のように裏切られるのが怖くて、今ある関係を失いたくなくて。でもどんな関係だって、そのまま続くはずがない。今同じ職場で働いているからといって、これからもずっと同じでいられるとは限らないのだ。
きっとどちらかが離れていく日がくる。転機が訪れて仕事を辞めるかもしれない。彼女だって、いつ結婚してもいい年齢なのだから寿退社のようなことだってあり得る。
その時になって、無くなったものを無くなったと嘆いたって遅いのだ。差し出された手を掴まなかったものに、何を得ることもできないのだから。
過去を恐れて後ろを振り返り続けても、前には進めない。私はいつまで経っても、一人だ。
気づきたくなかった、気づくべきだった、いつか気づく日がくると思っていたこと。
それがまさかこの瞬間訪れるなんて……分かっていたこととはいえ、恋とはなんて無慈悲な感情なのだろう。
レールの上を駆ける電車の規則的なリズムは、さながら底の見えない階段を降りるそれのようだ。
目まぐるしく移り変わる車窓の景色をぼんやりと見つめながら、そんなことを考えていた。