蘇る記憶。 2
※血の表現があります。
吐いた血が真っ白なシーツに赤い染みを作っていく。
喘ぐ呼吸は、酸素を取り込むことを忘れてしまったようで、狂ったように吐き出すばかりだ。
息が吸えない。
ぱくぱくと唇が空を食む間にもごぼごぼと血が溢れる。
苦しい。苦しくて仕方ない。いっそ呼吸を止めてしまいたいほどに。
霞む視界には、子供部屋としては広くも狭くもない室内が映っている。そのところどころが赤くなっている。
苦しみのあまりベッドから転げ落ちてしまったものだから、先日変えたばかりの真新しい絨毯さえも血に染まってしまったようだ。
一人分とは思えないほど大量に吐血しているのが分かる。貧弱なこの体にも、他人と同じだけの血液が流れていたのかと思うといっそ感動さえ覚えた。
ぐらりと視界が大きく揺らぎ、
とうとう力尽きて体を起こせなくなった。
―――――私、死ぬんだ。
小刻みに震える指先がそれを物語っていた。
先ほどから続いている耳鳴りが鼓膜を突き破りそうな音を立てて目の前が白く染まっていく。
死というのはもっと恐ろしいものだと思っていたけれど、人生が形を失っていく様は緞帳が下がっていくように淡々としているのだと漠然と思う。
例え劇的な結末だったとしても、最後の最後は同じなのだ。たくさんの登場人物ときらびやかな舞台は暗闇に消え、緞帳が完全に舞台を覆ったそのときに終幕を告げる。
ゆっくりと、だけど、やけにあっさりと。
ふと、思う。
良い人生だったと言えるのだろうか。
私のあまりに短すぎる人生は。
そうして私の意識は暗闇に落ちていった、
*
*
*
―――――はずだった。
けれど、消失するはずだった意識は今もまだ確かにココにあった。
死ぬ前にはそれまでの人生が走馬灯のように流れると聞いていたけれど、目前に現れた光景はそれではなく、そしてそれこそが、私に、終わりではなく始まりを示していた。
まるでフラッシュがたかれるように、バシ、バシ、と音をたてながら一人の少女が様々な場面に登場しては消えていく。
完成したパズルをどこかに叩きつけて、バラバラに崩してしまったかのような光景に、なぜか、ここにはないはずの胸がミシリと痛んだ。
初めて見る場面ばかりだ。
けれど、私は確かにそれらを知っていた。
それぞれに繋がりがあるようには見えないし、空白さえあるのに、全てをより集めて正しく並べると私が真に求めている景色にたどり着く。
それが何か重大な事実を知らせようとしているのだとどこかで激しく警鐘が鳴っている。
散らばった写真を集めるように、移り行く光景に目を凝らす。
誰かが、誰かの一生を追っているような、第三者が誰からの人生を外側から眺めている。そんな感じだった。
けれどそれは、私こと「九条 姫紗」の人生ではない。
だって私は、まだ九つだ。
けれど、今眺めている少女は九つをとっくに通り越して、元気に小学校に通い、中学校、高校と順調に年を重ねていく。
それに何より、今更だが、顔立ちが全く違うことに気づく。
その人は、よく笑い、よく泣き、よく怒る、ごくごく普通の優しい面立ちの人で、その豊かな感情が私との違いをはっきりと示していた。
そしてそれに見惚れているうちに、彼女はやがて、妙齢の女性となった。
パチリ、とシャッターを切るような音がして、無尽蔵に現れては消えていた画面がピタリと止まる。
四角い画面の中に白いワンピースの女性が背中を向けて佇んでいるのが見えた。
遠くで誰かが彼女の名を呼んでいる。初めて聞いたはずなのに、なぜかその名を知っていた。
にこりと笑ってこちらを振り返る。
どこから飛んできたのか桜の花びらが舞って、彼女の長い髪をさらい、
そして、そこで唐突に映像が終わった。
******************
「―――――大丈夫、大丈夫だよ、姫紗。」
誰かが私を抱きしめている。
ぽんぽんと背中を叩くその手はどこまでも優しい。
戻ってきた、そんな感覚にぼんやりと意識を取り戻すけれどまぶたを開くことができない。
大丈夫?
いいえ、大丈夫じゃない。
長い長い夢を見ていたような、壮大な映画を鑑賞していたような、そんな爽快感と疲労感の混じった妙な気分で、今しがた得たばかりの膨大な情報をゆっくりと処理していく。
それは酷く憂鬱な行為だった。
慰めるように動く誰かの優しいその手さえいまいましく感じる。
振り払おうと身じろぎするけれど、鉛のように重くなった両手は僅かにも動かすことができない。
思い出した。
全て思い出したのだ。
―――――あれは、私の前世の記憶で間違いない。
誰かに教えてもらったわけでもないのに、なぜかはっきりと確信していた。
―――――そして、ここは、私が前世で読みふけっていた恋愛小説「君のひかり」の世界だ
全てを知った瞬間に、この世界の矛盾を唐突に突きつけられたような気がした。
私のこの脆弱すぎるほどの体とか、世界に名を轟かすほどの実業家で資産家な父親とか、早くに死んだ母親とか、私を、文字通り殺したいほどに憎んでいる義母とか、容姿端麗な父親の秘書とか、血のつながらない弟とか、なぜこんなにも私は、この世界で一人きりなのだとか、
ずっとそれらを不思議に思っていたけれど、これら全ての出来事が、多くの矛盾を孕んでいて、それでいて一つも間違っていないことを知った。
だって、ここは恋愛小説の世界で、全てはシナリオ通りに進んでいくのだから。
そのシナリオの中で、私は、主人公を陥れようとする「悪役」
全ては、これから数年の後に始まる本編のためのプロローグで、これまでの私の人生に起こった出来事全てが、そのための布石に過ぎなかったのだ。
だから、だからこそ、私はこんなにも独りきりだったのだ―――――
それは、何て、
何て、悲しい。
何て、おぞましい。
何て滑稽で、何て愚かで、何て、何て、
「・・・ぅ、あ、ひゅっ、」
突然頭の中に蘇った膨大な記憶に全身が侵されていくような気がした。
逃れようと身をよじるけれど、指先にさえ力が入らず、結局弱弱しく頭を振るだけに留まった。
「姫紗―――――!姫紗!息をして!」
締め付けるように抱きしめられて、強く背中を叩かれる。
強い衝撃に、ごぼり、と喉の奥から液体がこぼれた。
それと同時に激しい咳が出て、おのずと、その一瞬前まで呼吸が止まっていたことを知る。
血の塊が器官を塞いでいたのだ。
「げほっ、た、たち、ばな・・?」
私の頬に触れている大きな手の平に意識を向けると、その手がビクリと大きく震えた。
「姫紗、ゆっくり、ゆっくり息をして、息を止めないで・・・!」
懇願するように落とされた声音が、幼い子供の泣き声みたいに聞こえる。
怯えていて、怖がっているのがよく分かる。
「もうすぐ病院だからね。そしたら、もう大丈夫だから。」
ぼんやりとした視界で見上げると、橘が今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ていた。
その背後では、高級車の静かなエンジン音が微かに響いている。
恐らく、車で病院に運ばれているところなのだろう。
揺れる車内には沈黙が落ちて、橘の指が焦ったように何度も私の唇を往復する。
あんなに血を吐いたというのに、それでもまだ吐き足りないのか口の端から血液が零れていくのが分かった。
「何で、こんな・・・っ」
蒼白、という言葉を顔に映したような橘が、思わず、と言った感じでそんな言葉を落とす。
色を失った形の良い唇を眺めていると、私よりもずっと、橘のほうが息を止めてしまいに思えた。
「大丈夫、大丈夫、だから、姫紗、お願いだから、」
祈りにも似た様子で私に何度も大丈夫、と繰り返しては、何かを悔いるように唇を噛み締め、縋るような眼差しで私の顔を覗き込む。
もはや返事をする気力もなく、ただ小さく頷くと、橘はまた一つ「大丈夫」と呟いた。
―――――大丈夫なんかじゃない。
頭の中で何度も繰り返している言葉が口から零れそうになる。
実際、意識を取り戻したとは言ってもかなり朦朧としていて、一度目をつぶってしまえば、瞬く間に暗闇に捕らわれてしまう気がした。
ぜえぜえと胸は苦しそうな音をたてるのに、段々と苦痛さえ感じなくなってきていることが、この脆弱な肉体の危機的状況を示しているようだ。
「姫紗、姫紗、姫紗」
そんな私の様子に気づいているのだろう。
橘は、何度も私の名を呼んで、体を支える両腕に力をこめた。
その力強さに少なからず驚きを覚えて、翳んだ視界の向こうにいる橘の顔を見つめ返す。
そのあまりにも必死な形相に、目を閉じることができなかった。
そんなとき、
「くそ!!」
おもむろに、運転席の男が声を上げた。
そちらに目を向けると、どこか見覚えのある背中が、イラついた様子でハンドルを何度も殴りつけるのが見えた。
「こんなときに渋滞にはまるなんて・・!!」
そう叫んだ声は、実に焦燥感の募るものだった。
「橘さん、今からでも救急車を呼びましょう!このままじゃ手遅れになります―――――!」
ついにしびれを切らしたのか、運転手が、後部座席で私の体を抱きかかえる橘にそう言い放った。
普段は絶対に声など発しない男が、丁寧に視線までこちらに向けて声を上げている。
そんな状況に私は少なくとも驚いていたのだけれど、橘は私の顔を見つめたまま、
「・・・分かってる!
そんなの、分かってるに決まってるだろう!!」
運転手にも勝る勢いで怒鳴り付けた。
ドスをきかせたわけでもないのに、美声のせいなのか、空気を振るわせるような迫力がある。
運転手はその声にひゅっと息をのんで、いかつい顔に不安の色を乗せた。
冷静すぎるほどに冷静な男という評価を得ている橘が声を抑えられないほどに動揺しているのだ。
それだけで、この状況が異常事態なのだということを物語っている。
大声を出すことに慣れていないのだろうか、橘は肩で息をしていて、その振動のせいで私の息まで詰まりそうな気がする。
けれど、次の瞬間には、取り乱したことなどなかったかのようにいつもと同じように澄ました声で、
「お嬢様の診察は扇先生が一任されている。それ以外に任せることは許されない。」
ただ、そう言った。
橘のその言葉に、しんとした沈黙だけが車内を満たす。
―――――許されない。
許さない?誰が?
そんなことは口に出さなくても分かっていた。
私も、運転手も。
だから、結局、口を噤むしかなかったのだろう。
やがて運転手は私の視線から逃れるようにして、ゆっくりとした動作で前に向き直った。
その背中が震えているような気がするのは気のせいだ。
だからきっと、
橘の、その指先が温度を失って小刻みに震えているのも気のせいに違いない。