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蘇る記憶。

私が前世というものを思い出したのは、まさしく義母に命を奪われそうになったそのときだった。


********************************************


今生の私は、母の命を奪って生まれてきたにも関わらず、この世に生れ落ちたそのときから脆弱で、だいぶ長い間保育器から出ることができなかったと聞いている。

現在だって生まれた頃とそう変わりはなく、ほとんど寝たきりに近い。

風にあたるだけで大病を患い、ただ風邪を引くだけなら良いのだが、そこから必ずといっていいほど肺炎を併発する。気管支や肺が元々弱いのだろうと言われたけれど、結局のところ何が原因か分からない。

一度病を患えばなかなか枕が上がらず、何日も何日も寝込む。

起きていることが珍しいほどにこんこんと眠り続け、そんな状況を揶揄して使用人たちは私のことを「眠り姫」と呼ぶ。

眠り姫、そんな美しいものではないけれど。


「おや、眠り姫が今日は起きている」


ベッドヘッドに並べた大きな枕を背にして半身を起こして窓の外を眺めていると、いつの間に現れたのか高級そうなスーツを纏った優男がこちらを見て微笑んでいた。

開いた扉にもたれるようにして小さく首を傾いでいる。

男にしては細く白いうなじが何とも言えない色香を漂わせているが、整いすぎている怜悧な顔立ちが良い具合に色気を相殺しているので品位は全く損なわれていない。

ここにいるのが年端もいかない少女だけだというのは、何とももったいないことだと思う。

10人いれば、9人の女性が彼の容姿に頬を染め、一見、優しげなこの男の毒牙にかかってしまうだろうに残念ながら私はその9人には含まれない。


そもそも、私の父親の秘書を勤めているという時点で、ただの優男ではないのだ。

きっとお腹の中は真っ黒に違いない。そうでなければ、あの父親の下では働けないだろう。

だから、それを知っている私は、その相貌に騙されて心を預けるようなことはしない。


「何を考えているのかな?」


ぼんやりとその立ち姿を眺めていると、

その対象である彼、タチバナ 秋南アキナは、切れ長の瞳を更に眇めて、目線を合わせるようにすっと腰を折った。

後ろに流していた黒髪がさらりと額に零れる。


「女性の部屋を訪れるときはノックをするべきだわ」


ふい、と目を逸らしてそっけなく返すと、


「扉はいつも開いているじゃない」笑みの滲んだ声が耳元に落ちてくる。

顔を上げると、足音もなく近づいてきたその男は何のためらいもなく私のベッドに腰を落とした。

さほど大きくもないベッドで肩と肩が触れ合う。


「このベッドも君には少し小さいね。いつの間にか大きくなっちゃって。

まあ、君の年にしてはだいぶ小柄ではあるけれど・・」

そういえばいくつになったんだっけ?そう言いながら優しく目を細めて、私の頬をそっとなぞる。

私が大人の女性であったなら、口説かれていると勘違いしただろう。


「九つよ。この間、九つになった。」


すりすりと顔をすべる細い指はお構いなしに淡々と答えを返すと、男はやはり手を止めることなく、

「九つ、ね。子供らしくない言い回しだね。」ぽつりと言った。


確かに。

九歳!とか可愛らしく言うべきだっただろう。

そう思いながらもここで何かを口にすると言い訳じみたものになるような気がしたし、何よりも墓穴を掘らないとは限らない。

私はただ小さく笑みを落とすにとどまった。

そのとき、


姫紗きさ


どこかぼんやりしてしまった私を呼び戻すように橘が名前を呼んだ。

返事をしない私に少しだけ目を眇めて、口の中で転がすようにもう一度呼ばれる。


姫紗きさ


その作り物めいた冷たそうな唇を眺めながら、名前を呼ばれたのはいつぶりだろうかと考えた。


元々、私の名を呼び捨てるのは父親と義母、死んだ母だけだった。

けれど、死んだ母に関しては言わずもがな、父とは最近顔を合わせていないから呼ばれる機会さえなく、再婚して何年経っても他人からの距離が縮まない義母は私の名を呼ぶのさえ嫌なのだろう。近頃は「貴女」とか、酷いときは「それ」とか「あれ」とか、まるで物のように言い捨てられる。


そんな私の名前を、赤の他人であるこの男が連呼することに思わず胡乱な眼差しを向けると、この男にしては珍しくどこか戸惑ったような顔をして、

「そんな顔しないでよ」と笑う。


「名前を呼ばれるのは嫌い?」

そう言いながらすりすりと頬を撫でる。

けれど決して恋人同士のような甘い雰囲気なわけではなく、彼にとっては動物を愛でているのと同じ感覚に違いない。子猫の顔を撫でるのと同じ仕草だ。


「お姫様にはぴったりの名前だよね。響きも良いし、僕は好きだけど。

姫紗が嫌ならやめるよ。」


やっと私の顔から手を離したと思えば、今度は掛け布団の上で重ねていた手に移った。

力を入れていたわけではないので簡単に絡めとられてしまう。

ひんやりとした指先が気持ちいい。思わず目を細めてしまう。


「・・・嫌いじゃない。」

「え?」

「名前、呼ばれるの。」


死んだ母から与えられた唯一のものだ。例え、呼んでくれる人がいなかったとしても愛しいものには違いない。


「だけど、あまり知らない人には呼ばれたくない。」

けれど、あまりにも名を呼ばれる機会が少ないと忘れてしまいそうになる。

私が、誰なのかを。


「ふふ、そう。良かった。姫紗に嫌われるようなことはしたくないからね。」


橘は私の指を弄びながら至極嬉しそうに笑った。


この人がこんな顔をするのは本当に珍しい。私の記憶にある彼は、いつも無表情で感動を顔に表すことなど一度もなかった。

いや、冷笑を浮かべることは多々あったけれど、こんな嬉しそうな顔をするなんて意外だ。


その人間味溢れた顔を思わずまじまじと見つめていると、「何?」と小さく首を傾げてくる。

その何気ない仕草にさえ違和感を覚えた。まるで子供のように見えたのだ。

確かに彼はまだ19歳で未成年なのだけれど、少なくとも、他人の前でこんな表情をするような人間ではなかった。


「あ、それとも他に何か気になることがあった?」


そう言いながら、今度はさりげなく私を抱き上げようとしてきた。

それはさすがにやめておきたい。背後に回された手をよけようと身を捩ると、

「熱があるね。」動いたらだめだよ、と甘く耳元で囁かれた。


なぜ、こんなところで色気を発するんだろう。


軽く腰掛けていただけの半身をベッドの上に乗り上げて、恐らく軽すぎるだろうと思える私の体躯を何の苦もなく持ち上げた。

「こんなに熱がある・・・」

独り言なのか呆れたようにつぶやいて、背後から私の首に触れて体温を確認している。

顔に触れたり指を絡めたり、ついには抱き上げたり、てっきりセクハラだと思っていたのだが熱を測っていたのだろうか。

橘の日本人にしては色素の薄い琥珀色の瞳をじっと見つめてると、ふと目尻が綻んだ。甘い微笑。

なるほど。セクハラしながら、さりげなく熱を測っていたわけか。


「姫紗は放っておくとすぐ死にそうになっちゃうからね。」


橘に背中を預ける格好になった私が思わず身を竦めると、有無を言わせずお腹に回した腕に力を入れてくる。そんなに強く抱きしめられたら、私の脆弱な腹部が破裂してしまうではないか。

仕方なく力を抜いて橘に引き寄せられるままに体重を預けた。


「この間は本当にびっくりした。いや、びっくりしたというのは正しくないかな。

すごく怖かったんだよ。部屋中、血まみれで。」


ああ、そうか。あのとき私を病院まで運んでくれたのは橘だった。

今更気づいて振り返ろうとしたのだが、その強い腕がそれを制した。


そして、「本当に、怖かった」と、もう一度呟いた震える吐息が耳を掠めた。

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