誕生日のあなたへ
この作品はサイトからの転載です。
初夏の日差しはもう肌が痛くなるほど強かった。歩いているとじっとりと汗が滲んできたけれど、これから起こることを考えると胸が弾んだ。
まだちょっと早いかな、と思いながら私は隆志の住んでいるマンションに足を踏み入れた。驚かせてやろうと電話もせずに誕生日のプレゼントをバッグに入れて、買ったばかりの水色のシフォンのスーツに身を包んで。今日こそは朝までいようと心に決めていた。部屋のドアを開けた時、目に飛び込んできたのは女物の白いミュールだった。耳障りな心臓の鼓動が全身を覆い始める。サンダルを脱ぎ捨て、短い廊下を通ってキッチンに入った時、そこにいたのは会社の同僚の章子だった。
同僚といっても課が違うし、少しばかり美人なのを鼻にかけているのが気に入らないので、あまり口もきいたこともなかった。
その章子が、まるでここは私の家よとでも言っているかのように、レースのついた花柄のエプロンをつけてキッチンに立っていた。ノースリーブの淡いピンクのワンピースの裾が動くたびに媚びたように揺れる。
「隆志はいないわよ。あんた、何しに来たのよ?」
「章子さん、何でここにいるの?」
私の声が上擦っているのに気が付いたのだろう。章子は口元にうっすらと笑みを浮かべて言った。
「あんた、私が隆志と婚約してること知らなかったの? まあ、会社の人達にはまだあまり話していないから無理もないけど」
「嘘よ。だって隆志は私と結婚するって言ってくれたのよ!」
知らなかった。何度もこの部屋に来てはいるが、他に女がいることにはまったく気が付かなかった。それはたぶん、隆志以外は何も見えなくなっていたからだ。
隆志はいつも優しく私を愛してくれた。本当に愛されてると思っていた。
隆志とのデートはいつも映画を見るとか、それほど高級ではないレストランで食事をするとかその程度だった。
私はそういうことよりも、彼の部屋に来て料理を作ったりするほうが好きだった。
そして、一緒に食事をして愛しあう。でも考えてみれば一度もふたりで朝を迎えたことはなかった。どんなに愛しあっていても、午後九時を過ぎると隆志はそわそわし始める。
早く帰ったほうがいい。夜道は危険だから。
そう言うと、隆志はいつも私を駅まで送ってくれた。馬鹿な私はそれを優しさと勘違いしていた。きっと私のあとに章子が来ることになっていたから、私がいたらまずかったのね。それだけのこと。
でも、私はあの頃ほんとうに幸せだったの。だから、隆志がベッドのなかで結婚しようって囁いた時は天にも昇る気持ちだったのに。
「隆志が結婚? あんたと? 笑わせないでよ。隆志があんたに何を言ったか知らないけどそんなのはただの冗談よ。本気にするほうがどうかしてるわ」
章子は蔑んだような目で私を見ながら、吐き捨てるように言った。
「私達、今年の秋に結婚するのよ。分かった? 分かったらさっさと出てってよ。ああ嫌だ。あんたの顔、見てるだけで吐き気がしてくるわ」
背を向けて居間に入っていった章子を追いかけていく時、私は流しに置いてあった包丁を無意識に掴んでいた。
驚いたように振り向いた章子の体を何度も何度も突き刺した。赤いぼろきれのようになって横たわった章子めがけて、私はまた包丁を振り下ろした。
ようやく落ち着きを取り戻したとき、私は部屋中が血だらけなのに気が付いた。とりあえず、そのまま浴室へ行くと服を脱いでシャワーを浴びた。バスタオルを巻いて、クロゼットの中の衣装ケースから隆志のトランクスとTシャツとジーンズを取り出して身につけた。真っ赤に染まった服とバスタオルをビニール袋に入れ、包丁をきれいに洗い、タオルで拭いて流しに戻した。
タオルもビニール袋に放り込み、キッチンにあった紙袋にビニール袋を入れると、バッグを持って玄関に戻った。
ドアノブをそっと握って回した瞬間、いきなりチャイムの音が響き渡り心臓が止まりそうになった。ドアを開けてみるとそこにいたのは宅配便の配達員だった。
「宅配便です。ハンコをお願いします」
出来るだけ平静を装いながら居間に戻ると、背の低いチェストの引出しを開けてみた。
あった。いくらかほっとして印鑑を取り出すと急いで玄関に戻った。
配達員が帰った後、ドアを閉め、荷物の送り主の名になにげなく目をやった。
桂木薫? 薫って……。確か章子と同じ課にいる今年の春に入社したばかりの娘だ。荷物の包装紙を破リ捨てて中を見た。ネクタイとハンカチのセットに添えられたカードにはこう書かれていた。
「お誕生日おめでとう。あなたの愛する薫より」
隆志の奴、薫とも付き合っていたんだ。何て馬鹿馬鹿しい。こんな男のせいで人を殺してしまうなんて。
あいつはホラー映画もまともに見れないし、遊園地のおばけ屋敷の入り口に立っただけでガタガタ足が震える。異常なほどの臆病者だ。腕力だって私のほうが強い。それでも女を何人も引っ掛けるだけの度胸はあったってことだろうか。悔しい。悔しいけれど今は何も出来ない。
ああ、これから私はどうすればいいんだろう。このまま何処か遠くへ逃げてしまおうか。
でも、どんなに逃げても無駄だろう。いずれは逮捕されて、そしておそらくは何年もの間、刑務所暮らしをすることになる。嫌だ。それだけは絶対に嫌だ。
そうだ。逃げるのは後にしてもう少し考えてみようか。これからどうすることが私にとって一番いいことなのかを。
私は印鑑をハンカチで丁寧に拭くと、章子の右手に軽く握らせて指紋をつけた。
印鑑をチェストに戻そうとした時、引出しの中にあるものを見つけた。
これから自分が成すべきこと。それが一瞬のうちに頭の中で組み立てられた。
隆志は、休みの日でひとりの時は大抵パチンコに行っている。今日もそうだろうし、おそらく夕方までは帰ってこないだろう。
キッチンに戻り、冷蔵庫を開けて中を見た。大丈夫。これだけあれば十分だ。
荒れ性の私は食器を洗う為の使い捨てのポリエチレンの手袋を流しの下の引き出しに置いていた。それを引出しから取り出して手にはめると、再び包丁を手に取った。
ーーーーーーー* * *ーーーーーーー
四時間後、隆志が帰ってきた。あたりは既に暗くなっていた。
隆志は、キッチンに私が立っているのを見て驚いたようだ。
「お帰りなさい。何処へ行ってたの?」
私は満面に笑みを湛えながら隆志に話しかけた。
「あ、ああ、来てたんだね。ごめん、今日来るとは思ってなかったからパチンコに行ってたんだ」
「ちょうどよかった。今、ちょうどおかずが出来たところなの。それとも先にお風呂にする?」
どうかしら? 私のこの陳腐なドラマの奥様然としたセリフは? 隆志はかなり動揺しているようだ。
「え、ああ先に食べるよ。あの……」
何か言いたげな隆志は、きょろきょろと落ち着きなくあたりを見回している。
「どうしたの? 何か探しているの?」
「あ、いや」
そう言いながら居間に入って行こうとした隆志を、私は乱暴に腕を掴んで引き戻した。
「そっちは散らかってるから、まだ入らないで」
「そう? でも何で真っ暗なんだ?」
居間のドアは内側に半開きになっているが、中は暗くて何も見えない。
「誰もいないのに灯りをつけてるなんて、電気の無駄遣いでしょ? さあとにかく座って。今日はあなたの誕生日だから腕によりをかけたのよ」
私はテーブルの上に、まだじゅうじゅうと音をたてているレアステーキと茶碗蒸しを並べた。
「なんか変わった組み合わせだね」
「それ、いいお肉でしょう? さあ、早く食べてみて」
隆志はステーキを少し切り取って口に運んだ。血の色をした肉汁がフォークから滴り落ちる。ぽとり、ぽとり。
「おいしい?」
「おいしいよ。でもちょっと硬いな」
そうね、硬いでしょうね。だって新鮮なお肉だもの。当然よ。
「茶碗蒸しも食べてみて」
隆志は茶碗蒸しをスプーンで掬ったが、急に手を止め、茶碗の中をまじまじと見詰めている。
「あ、あの……この丸くて白いものは何?」
「うん、もう少し食べてみて。すぐに分かる筈よ」
隆志はスプーンを握ったまま、私の顔をじっと見ている。そうよ。もっとよく見て。そして考えて。あなたの章子さんは何処に行ってしまったのかしら?
「俺、今日あんまり食欲ないんだ。あの、タバコ買いに行ってもいいかな」
そう言って、隆志は立ち上がった。ふふ、どうしたの? ずいぶん顔色が悪いわよ。
「あら、タバコなんて体によくないわ。だったらお風呂に入ったら?」
「でも、今風呂なんて入りたくな……」
隆志は言葉を飲み込んだ。ようやく私が握っている物に気付いたようだ。刃がボロボロになった包丁に。
私は小さな子供に言い聞かせるような口調で優しく囁いてあげた。
「さあ、わがまま言わないで。いい子だからお風呂に入ってね」
洗面所のドアのところまで隆志を追い詰めると、にっこりと笑いながら言った。
「さあ、ドアを開けて」
そのドアの向こう、洗面所の右側に浴室の入り口がある。その入り口は開けたままにしてあった。
隆志はしばらく躊躇っていたが、半透明の小さな窓のついたドアを開けて暗い洗面所へ足を踏み入れた。
私は急いでドアを閉めると、外側にあるスイッチを押して浴室の灯りをつけた。
引き攣ったような隆志の悲鳴。私は包丁を廊下に放り投げ紙袋とバッグを掴むと、急いで玄関から外へ飛び出した。以前、隆志に貰った合鍵を使って鍵を掛け、背中でドアを押さえた。
案の定、洗面所から飛び出してきた隆志がドアを開けようとして叫びながらガチャガチャやっている。だが開かないので諦めたらしく、居間の方に走っていく足音が聞こえた。
一瞬ののち、何か重い物が落ちるような音と大きな悲鳴が聞こえ、やがて何も聞こえなくなった。
ーーーーーーー* * *ーーーーーーー
翌日、私は自宅のソファーで寛ぎながらニュースを見ていた。
ああ、やっぱりね。私の思ったとおりに事は運んでいる。
テレビでは、「婚約者を殺したと思われる男が精神錯乱状態で逮捕されました」と言っている。
隆志はあの後、包丁を持って放心状態で外を歩いていて通報されたらしい。
何を聞かれても意味不明なことを呟いている男の自宅を調べたら、遺体が発見されたってわけ。
よかった。ちょっと心配なのは宅配便のおじさんだけど私と章子はよく似た髪型で、背格好も同じくらいだから心配ない。きっと応対したのは章子だと思ってくれるわ。
そうよ。私はあの時、隆志に罪をなすりつけようって考えた。
だから使い捨ての手袋をはめて服を脱いで、浴室で章子の首を切断したの。包丁ではちょっと無理だと思ったから鋸を使った。隆志は高校生の頃に椅子やテーブルを手作りするのに凝っていたみたいで、鋸とか金槌とか一通りのものを持っていたから本当に助かった。
備えあれば憂いなしってこのことよね。
胴体の方は浴槽に入れて、水を体が半分隠れるくらい張っておいた。水が真っ赤に染まって、ちょっとシュールな光景だったけど見た目のインパクトはかなり強烈だったと思うわ。
それからチェストの中にあった黒の油性のマジックペンで、章子の閉じた左目の上をまあるく黒く塗りつぶしたの。あとから見たらパンダみたいですっごく可笑しかったけど、隆志を騙すには十分だと思った。
居間は暗かったし、キッチンの照明だけでははっきりとは見えないもの。
首は洗い桶に入れて、居間のドアを半開きにして上に乗せておいたの。
不安定だから、いつ落っこちてくるか気が気じゃなかったけれどうまくいったわ。
学校でよくやる悪戯と同じね。ふふふ、隆志の顔、見てみたかったな。
あの時、落ちてきた首を見て、隆志が瞬間的に食事のことを思い出すことは目に見えていた。
ああ、もちろんお肉は冷蔵庫にあった牛のステーキ用の肉だし、茶碗蒸しの中に入れたのはゆで卵。
でも、きっと隆志は別のものを想像したのよ。
そして彼自身がその想像に耐えきれなかったってことかな。
ああ、可笑しい。食べてもいないのに章子さんを食べたと思って狂っちゃうなんて、ほんとにバカみたい。
隆志にはちょっと気の毒だけど、結局は自業自得。
女を馬鹿にしているとどんな目にあうか、もうきっと分かりすぎるほど分かったわよね。
残念なのは、本人がそれを自覚出来ないってこと。
そう、おそらくは永久にね。