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最後の楚軍  作者: 赤月
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呂氏春秋

 秦に亡命した熊啓(ゆうけい)は、行く当てもなく、取り敢えず食い扶持を確保しようと、秦の相国呂不韋(りょふい)の食客となるべくその屋敷の元へ行った。とはいえ、まだ十の熊啓である。呂不韋に目通りする前に門前払いなのも目に見えていた。どうしたものかと考えながら熊啓があるいていると、市場であるものを目にした。


「良い物がありますね、秦には」


 呂不韋は自身の権勢を示す為に、三千いる食客に命じて『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』という歴史書を編纂させた。さらにそれを、天地、万物、古今のすべてを網羅したと自負し、秦都咸陽(かんよう)の市場の門に、こういった高札とともに並べたのである。この書を一字でも増やしたりけずったり出来る者には千金を与えよう、と。当時の千金といえば今では億をゆうに超す額である。一攫千金、一字千金といった“千金”はこれに由来する、ともいう。

 だが、後漢の書『呂氏春秋序』によれば、出来ないという理由ではなく、呂不韋の権勢を恐れ、文字を増やしたり削ったり出来たものはいなかったとされている。現にこの高札が掲げられてよりいままで、それをしたものはただの一人もいなかった。


 ■□


「相変わらず、か」


 呂不韋はふと、日ごろの政務の生き抜き代わりに咸陽の市場へと足を運んだ。だが、相変わらず誰も手を付けた形跡のない、ほこりをかぶった書簡の山を眺め、おもわず溜息をついた。唯一、十歳程度のわらべが一人、ひたすらに書簡を読んでいたが、よもやあのようなわらべに文字の増減が出来るとは、呂不韋でなくても思いはしない。

 呂不韋。秦国内では仲父(父に次ぐ人)と呼ばれる強国秦の相国は、生まれは商家の子である。趙の邯鄲を中心に手広く商いをしていた男であった。だがあるとき邯鄲で、人質として趙へ送られた秦の公子であり、当時の秦の太子安国君(あんこくくん)の子、子楚(しそ)を見た。

 ここで呂不韋は大ばくちに出る。

 全財産を使って、安国君の側室、趙国内、秦国内で工作をして子楚の評判を高め、安国君の跡継ぎとして認めさせた。そして、子楚が王となるとその見返りとして丞相の位と十万戸の土地を与えられた。

 そして、現秦王は子楚の子である嬴政(えいせい)である。

 嬴政の代になって、呂不韋は宰相から相国へと出世した。位人臣を極め、実質秦の実権を握っているこの男は、自分の権勢をひたすらに誇示しようとした。食客を三千も集めたことも、『呂氏春秋』を編纂したことも、このように市場にならべて千金の賞金をかけたことも、すべて、である。


 ■□


 なんという下らない人物だろうか、と熊啓は内心で溜息をつく。

 ちなみに、『呂氏春秋』が完成したのは始皇八年というから、始皇元年のこのころはまだ、市場に陳列されている『呂氏春秋』は未完である。


「ここはこの逸話よりもこれのほうがいい。これは、確か――」


 そろそろ、つまみだされるかというときになって、熊啓は筆と小刀(木簡の字を削って消すための道具)を手に取った。そして、みるみるうちに未完の『呂氏春秋』の改訂を始めたのである。呂不韋のまわりにいた食客は、子供の悪戯かと思って慌てて熊啓をつまみだそうとしていた。だが、改訂している内容を眺めているうちに、その正確さに驚き、慌てて呂不韋を呼んだ。


「貴殿、名は?」


 声をかけられても、熊啓は筆を止めなかった。相手が相国呂不韋と知らず、耳だけを傾けて無愛想に応えるのである。


「啓」


 改訂作業を続けつつ、熊啓は逆に呂不韋の身分を問うた。すると、相手がこの桁違いの高札を掲げた当の呂不韋だという。齢に似合わぬ知識を持ったこのわらべがどう返すかと、呂不韋は年甲斐もなく無邪気な好奇心を抱いて熊啓の答えを待った。


過猶(過ぎたるは猶ほ)不及也(及ばざるがごとし)


 行き過ぎは不足と大差ない、という意味である。


「貴方の権勢には(めい)はあっても実はない。三千人は囲い過ぎでしょう。私は今までにも斉の孟嘗君(もうしょうくん)、楚の春申君(しゅんしんくん)、趙の平原君へいげんくん、魏の信陵君(しんりょうくん)、といった、何千も食客を囲っていた人物を知っていますが、その三千の食客の名は、数えるほどしか知りません」

「だが、楚の説客汗明(かんめい)は、『(しゅん)ほどの聖者でも(ぎょう)に仕えるのに三年を要した。貴方が私を一時で理解したというなら、貴方は堯よりもすぐれ私は舜よりもすぐれていることになる』と春申君に言ったと聞くが、これについては貴殿はどう思うのだ?」

「かつて秦の覇者繆公(ぼくこう)百里奚(ひゃくりけい)蹇叔(けんしゅく)丕鄭(ひてい)公孫支(こうそんし)孟明視(もうめいし)西乞術(せいきつじゅつ)白乙兵(はくいつへい)。僅か七人の名臣を頭脳として、四肢として用いて覇権を握りました。こういった賢者はどの国にでも案外いるものです。一能に特化した人物を千人集めるということは、ただその国にいる賢者の存在を知らず、片っ端から石を拾ってその中に(ぎょく)を見出そうとするのと変わりません」


 十把一絡げである、と暗に言われた食客たちも、ここまで言ってその後どうなるのだろうかと冷や冷やしながらこの光景を眺めていた。商人上がりの曲者呂不韋と話している相手が、身分もしれぬ十歳ほどのわらべであるということも忘れて。

 それを聞いて、呂不韋は手を打って笑いだした。


「それで、啓殿は果たして私にどうしてほしいのですかな?」

「一字千金なら、私はすでに何万金と貰えるということになります。改訂の褒美を頂いてしばらく遊んで暮らすか、それだけの金がないというなら仕官の世話でもしていただければ幸いです」


 ■□


 こうして、熊啓は十の齢で強国秦に仕官した。わずか数年で“昌平君(しょうへいくん)”の号を与えられ、始皇九年には宰相にまで登りつめた。

ちなみに、呂氏春秋は多分未完のうちは市場で高札立てて~はやってなかったんじゃないかなとも思いましたが、こっちのほうが面白いのでこうしました

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