春申君老いたり
熊啓は、李園という人物を連れて来た。この男は氏素性がしれず、利に弱く情にうすい。ゆえに好都合と、熊啓はこの人物を今回の計画に用いることを決めた。
熊啓が指図した手順はこうである。まずは春申君の屋敷へ大量の持参金を持たせて仕えさせ、趙人と身分を偽らせて仕えさせた。趙は美人の多い国であったといい、これも仕掛けの一つである。そうしてしばらくのち、妹に縁談がある、という名目で一月の暇を貰うように言い含め、わざとその期日に遅れさせた。
「妹を寄こせと斉王が使者を遣わしました。その使者と話していたゆえ、期日におくれたのです」
と言った。この時点で、一つ目の救済措置がおかれた。この発言を春申君がとりとめもないことと聞き逃す、もしくは余計な色欲をおさえていればよかった。だが、そうはいかなかったのである。春申君はまだ結納はすんでいないと聞くと、李園に命じて妹を連れて来させ、一目ぼれし、側室として溺愛した。
この妹というのも、当然李園の実の妹ではない。公子が用意した美女である。
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「第一段階は終わりましたよ。次ですね、問題は」
熊啓は、相変わらず齢不相応の顔を浮かべて笑いながら言う。次こそが本命。この悪戯の目的であり、春申君を測るという意味において最大の関門だ。
「賭けでもしてみたいところですが、おそらく無理でしょうね」
何故ならば。
「私と“飛虎”将軍では、賭けにならぬでしょうからね。どちらの意見も同じなのですから」
すでに矢は放たれた。とうに、項燕にも熊啓にも修正を加えることの出来ないところにまで計画は進んでいるのだ。
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李園の妹、ということで側室となった美女が春申君の子を身ごもった。女は、それを知ると、熊啓に指図されたとおりに春申君に進言した。
「私が身ごもったことはまだ誰も知らない。そこで考えました。貴方が宰相となって二十余年、貴方は権力を思いのままに振るってこられました。ですが楚王に子がない今、楚王が死ねば楚王の御兄弟が跡を継ぐでしょう。貴方はこの二十余年、他の公子様の気をわるくなさったことは一度や二度ではありますまい。もし楚王の御兄弟が即位し、その側近が取り立てられると、貴方は今までどおり宰相のままであることが出来ますでしょうか?」
と。見当はずれの意見でないだけに、春申君は震えた。背筋に嫌な汗が流れ、一瞬めまいのようなものにもおそわれた。思えば、春申君はいままで考烈王の死後のことなど考えたこともなかった。あるいは、無理やりに考えないようにしていたのかもしれない。
美女は続けてこう言う。
「私の懐妊はまだ誰も知りません。貴方が私を王の側室へお上げなさっていただき、運よく男子が生まれればその子が次期楚王です。測りしれぬ罪に陥れられるか、どちらがよろしいですか?」
美女の言葉は確実に春申君の心を揺さぶっていった。今までにも他の場で何度も書いた。古代中国では重く用いられた名宰相、名将が、王が変わったとたんにあらぬ罪で誅殺、ということは決して珍しくないのだ。呉の伍子胥、楚の呉起、秦の商鞅などである。
だが同時に、自分を重く用いる王が没する前に官を辞して隠居した賢者もいる。越の范蠡、その前例に倣った秦の范雎などである。
自決を命じらて死体は馬の革袋にいれられて長江にすてられる。体が冷え、動くことのなくなった後ろ盾にすがって針ねずみにされる。亡命しようにも過去の怨みから拒まれ自国へ送り返され、四肢を馬車につながれて引き裂かれる。
そうなった自分を想像して、春申君はおもわず身をすくめた。それと同時に、まるで天啓にうたれたように、今まで見えていなかった万里の彼方への道が開けたように感じた。
「分かった」
もし春申君が本当に誅殺を免れたいだけであれば、范雎や范蠡のように病気であるとかなんとか理由をつけてさっさと隠居でもしてしまえばそれで済む話なのだ。
権力を一度手にすればどれだけ清廉な人間でもその座を捨てるのが惜しくなるというが、春申君の場合はそれが特に顕著であった。王家の血に自分の子を混ぜる、などといった行為は、場合によれば直接主家を裏切った三晋(韓、魏、趙の総称。三国の始祖はすべて元晋という国の大臣)、田斉を上回る背信行為であるかもしれない。
こうして、建前は李園の妹である美女は考烈王の側室に上げられ、春申君の子である男子を産んだ。考烈王はこれをたいへん喜び、この子を太子としたのである。
「そういえば、この悪戯はどこで止めるのですか」
「李園が春申君を殺し、即位した奸臣の子を私が殺して我が父を楚王に立てるまで、ですよ」
李園が春申君を殺す、というのは項燕は初耳であった。これも春申君が李園に言い含めた悪戯の内容の一つだろうかと思ったが、どうやらそうではないようだ。
「李園は利に聡く薄汚い人物です。妹が太子を生んだということで重く取りたてられた李園は、これ幸いと、考烈王が死ぬまでにますます自分の権力を強めることでしょう。そうなれば春申君とも当然対立致します。そうなれば、おそらく春申君は李園に殺されることでしょう」
熊啓は、あらかじめそこまで見越して李園をこの悪戯の仕掛人に任じたのである。 ところが、
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「私は秦に亡命します」
そう言って、熊啓が項燕の屋敷に別れを告げに来たのは、前二四七年の暮れのことであった。齢十の亡命者というのも気にはなったが、何よりも亡命の理由が思い当たらなかった。
「私が、秦への人質というはずれくじを引かされそうになったからですよ」
項燕の耳にもちらりとそういった噂は耳にしたが、どうやらそれは真実であったようだ。
「悪戯のことは、最後までこの目で見れぬのは残念ですが、まぁ別にいいです」
「秦に行ってどうするのですか? 何か当ては」
「ん、まぁなんとかしますよ。国を捨てるのも王になれぬのも一向に構いませんが、人質などというつまらない死に方だけは絶対に御免ですからね」
それだけいうと、熊啓は平然と祖国を捨てて秦へその足を向けた。つくづく読めない御方だと、駄馬一匹だけを連れて去りゆく楚国公子の背を眺め、項燕は呟いた。
「楚は大賢を失ったか」
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考烈王二十五年。考烈王が病にかかり、その容体は日に日に悪化していった。項燕は、李園はひそかに刺客を集めて春申君を討つ準備をしているという情報を秘密裏に得たが、春申君が李園に対して備えているという情報は得られなかった。
唯一、朱英という食客が李園陣営の情報を掴んで春申君に告げたが、春申君は取り越し苦労だといって取り合わなかった。こののち、朱英は春申君の元を去っている。
まもなく、考烈王が没した。李園はまっさきに宮殿に乗り込み、遅れて宮殿に来た春申君を殺し、兵を差し向けてその一族郎党も皆殺しにしたのである。
史記春申君列伝で司馬遷は「春申君老いたり」と記している。