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最後の楚軍  作者: 赤月
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熊啓の悪戯

 項燕(こうえん)は楚の名将である。最も、日本でも中国でも彼の孫である項羽のほうがよほど有名であろうが、春秋戦国という時代を切り取って見れば、戦国末期に楚の大将軍であった項燕は、ともすれば弱国の王侯よりは有名であろう。趙末期の名将李牧にならび、中国統一間近の秦の猛攻を、一度とはいえ防ぎ、逆に秦を負かせた将軍である。

 項氏は代々楚の名家であり、項燕自身は実質楚の最後の王負芻(ふすう)の先々代、考烈王の代より仕えた大将軍である。

 考烈王の頃の楚の人物といえば、やはり一番有名なのは春申君(しゅんしんくん)であろう。春申君とは号であり、本名は黄歇(こうあつ)という。


 ■□


 黄歇は考烈王の父、頃襄王に仕え、使者として秦に赴いた。その滞在中、秦の将、白起が韓、魏を伴って楚を攻めるという話を聞いた。だが幸いにも、まだ白起は出陣していない。そこで黄歇はすぐに秦王に書簡をしたためた。

 過去に秦が韓、魏に行った所業ゆえ、二国が秦に心服していないという事実。秦、楚という大陸の二強が、どちらかの滅亡を終点として争い合った場合、勝ち残った国も弱体化するという事実。それらを説いて命令を取り消させ、逆に楚秦同盟をまとめてしまったのである。

 この同盟の結果、楚の太子(かん)は人質として秦に送られることになった。これがのちの考烈王である。黄歇もその供として再び共に秦に赴いた。太子完が秦で暮らし始めてしばらくしたころ、頃襄王が病にかかったという噂が秦に入った。黄歇はこれを聞くと、太子完に即座に帰国することを勧めた。そうせねば他の公子が即位してしまうから、ということである。

 だが太子完の身分は秦ではあくまで人質。おいそれと帰国が許されるはずはない。そこで黄歇は一計を案じた。平時に太子完とねんごろにしていた秦の宰相、范雎(はんしょ)に説き、太子完が秦から脱出する際の力添えを約束させた。太子完は農民に身をやつして独り秦を脱出させ、その数日後に黄歇は出頭した。

 ちなみにこの黄歇の出頭は范雎と打ち合わせ済みのことである。

 秦王、昭襄王は烈火のごとく怒った。当然である。同盟の約束を一方的に破棄したのであるから、それもしかたがない。これを、范雎が諫めた。これも筋書き通りである。范雎は昭襄王の信任厚く、また他国の一説客から一国の宰相にまで登りつめた男である。黄歇を殺すことで秦が被る不利益、黄歇を許すことで秦に生まれる益、これらを説いて昭襄王の意見を返させることなどたやすいことであった。

 こうして許された黄歇は楚に帰った。帰国後、即位した考烈王――太子完――は黄歇に位と号を与えた。こうして誕生したのが宰相春申君である。


 ■□


「気に食わぬ」


 項燕は平然とそう言い放った。春申君は、すぐれた人物であることは疑いようのない事実である。だが、彼は社稷の臣だと褒める人物を見れば、それは違うであろうと思わざるを得ないのだ。

 社稷の臣とは、国家の安危、存亡を一身に負う臣のことを言う。それを踏まえれば、確かに所管一つで国家を救い、身をとして太子を即位させたころの黄歇は紛れもなく社稷の臣であったのだろう。だが、宰相となってからの春申君はどうだ。自らの威を示すために三千の食客を集め、兵を起こして魯を滅ぼし、都を寿春(じゅしゅん)に移して自ら政治を取り仕切った。


「この国の王は完様か、それとも春申君か、わかったものではありませんね」


 楚の公子であり、項燕とも良好な関係の熊啓(ゆうけい)は、項燕にすすめられた酒を断りつつ返す。公子は王族といっても、考烈王の妾の子、負芻(ふすう)の子である。この当時考烈王には子がなかったとあるが、同時に春申君が何人も側室を考烈王に進めたともある。よって実際のところは、“春申君と繋がりのある女性との間に”子がなかった、であろう。

 彼はまだ(よわい)十である。にも関わらず、既に大将軍の項燕と互角に酒を酌み交わしている。いくら相手が王族とはいえ、位は項燕のほうが上。つまり、その程度には項燕は目の前の齢十の熊啓を認めているのだ。


「ここ数年、楚の“飛虎(ひこ)”が翼を休めているのもそれが原因ですか?」


 “飛虎”とは項燕の異名である。翼の生えた虎のごとく、神出鬼没の用兵が持ち味の名将である。項燕が戦場に出れば、たとえ本陣があろうとも、“項”の旗があろうとも、そこに項燕がいることの確証にはならない、と言われている。

 だがこの数年、飛虎の活動はぴたりと止んでしまった。熊啓の言うように、その原因として春申君の専横があることには違いない。揚子法言(ようしほうげん)という前漢の思想書にこんな問答がある。


信陵君(しんりょうくん)平原君(へいげんくん)孟嘗君(もうしょうくん)、春申君らは国家に対して功績があったのでしょうか?』

『上に立つ者が正しい政治の道を失い、腹黒い家臣どもがかってに国権を乱用している。功績があったなどと、どうして言えよう』


 と。上に記された人物は戦国四君と称される四人に優れた人物であるが、後世の人々にとってはそれもただの専横と大差ないというのである。無論、歴史は過去の人物の批評を楽しむものであろうが、これもまた一つの事実であることには違いないでのはないかと思う。


「確かに宰相は楚のためになることをしています。が、少しばかり思い上がりが過ぎるのも事実」


 そこで、と前置きして熊啓は言う。にやりと口元を歪め、項燕に誘いかける彼を、項燕はとても十歳のわらべとは思えなかった。


「面白いことを、少ししてみましょう。なに、春申君に、頃襄王のころ、とまでは言わずともいささかの忠誠心があれば何の問題もないただの悪戯(いたずら)です」


 その内容は、とても楚の公子の提案とは思えなかった。無論熊啓が言ったように、春申君に一かけらの忠誠心が残っていれば何の問題もなく、表沙汰になることもない提案であるが、項燕には春申君の中にその一かけらの忠誠心があることすら信じられなかった。


「なに、“飛虎”将軍には絶対に迷惑はかかりませんよ」


 こんなときだけ、年相応の笑顔でほほ笑んでくる熊啓を眺めつつ、項燕はそれが逆におそろしかった。負芻の子、ということはおそらく永久に王になることはないであろう。だがそれは、あくまで春申君専横の今の楚では、だ。もしこの悪戯がうまくいけば、負芻が王たることも十分あり得る。そうなれば、その子である熊啓にも。


(あるいは、そこまで考えてこの計画を? そうだとすれば)


 末恐ろしい少年だと、ただそうとしか思わなかった。

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