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暑くなってきましたね。皆さま水分補給はしっかりと、寝不足には気を付けてくださいね~。
篠谷の言葉は団結の方向へとまとまりかけていた空気に水を差すには充分なものだった。
真っ先に反応したのは眉間にしわをよせ、顔を盛大にしかめた一之宮先輩だった。
「信じない、と言ったな? それは葛城が抱いている危機感をも否定する、と、そういう意味で言っているのか?」
「……そうですね。いくら何でも理事長が学園を巻き込んでまで、葛城さん個人への復讐を企てているというのはいささか荒唐無稽ではないかと思います。家庭内の事情であれば、ご家族で話し合われるべきですし、問題が深刻だと仰るのであれば、然るべき機関に相談するのが筋ではないかと思いますよ」
冷静に、淡々と告げられた内容はまさしく正論で、常識に則って非の打ちどころのないものだった。
篠谷の言うことは間違っていない。
それなのに、なぜかどうしようもなく胸が痛んだ。
桃香の提案を受けて、ゲームのこと、前世の事を皆に明かして梅香伯母様への対抗策に協力してもらうと決めた時、元々知っていた檎宇や、津南見はともかく、そのほかの皆の中で、なぜか篠谷だけはすんなり信じてくれるのではないかと心のどこかで思っていたのかもしれない。
父の死と、私の後悔を知ってもただ頭を撫でてくれた篠谷なら、私の真実を知りたいと真正面から言ってくれた篠谷なら、このおかしな話も、受け入れてくれるんじゃないかと思っていた。
なんて身勝手なことを思っていたんだろうかと自嘲する。
篠谷を信じないで、話をすることを拒んでいたのは自分の方なのに。
いざ自分が拒まれたことに傷ついている。
「カイチョー、でもさ、あのオバサンが真梨さんと揉めて、そのあとすぐに生徒会に外部見学会の運営を押しつけて来たっていうのは偶然にしちゃ出来過ぎてる。家同士で話し合うとか悠長なこと言ってて、真梨さんに何かあったらどうすんの?」
檎宇が見学会の資料を指でトントンと叩きながら探るように篠谷に尋ねる。
一之宮先輩のように苛立っている様子はなく、じっと篠谷の表情を観察しているようにも見える。
「運営が生徒会に依頼されたとはいえ、行事の、いえ、それどころか学園内で不祥事が起きればそれは即ち理事長にとっての不利益になります。だとするならば余計に学園内で事を起こそうとするのは理屈に合わないのではないでしょうか?」
「そこは多分ゲーム補正が……いえ、その、あるんじゃないかな~なんて……」
篠谷の推察に口を挟もうとした苺ちゃんがエメラルドグリーンの双眸に見つめ返されて段々と声が小さくなる。
「もし、あなた方の言うように、理事長がこの外部見学会の中で葛城さんを害そうと考えているなら、それを防ぐ手立ては簡単です」
「どうすんの?」
「葛城さんが、この業務から外れればいいんです」
そう言って微笑んだ篠谷の顔は、再会してすぐの頃の、似非王子に戻ってしまったかのようだった。
「まったく話にならんな! 何なんだあの態度は!!」
一之宮先輩が苛々と小石を蹴る。
罪のない小石は勢いよく転がり、沿道の草むらへと入って見えなくなった。
あの後、話し合いは平行線をたどったが、最終的には明日、篠谷が『私抜きでの』業務分担の計画表を作ってくるということで解散となってしまった。
桃香は頬を膨らませて怒っていたけれど、生徒会のメンバーではないこともあって、その意見は篠谷によって黙殺された。
生徒会メンバーではない菅原先輩や苺ちゃん、津南見も同様で、あの笑顔のまま生徒会室から締め出されていた。
その後の強制解散のあと、部活に行かなければならない桃香を宥めて送り出し、一之宮先輩が家まで送ると言ってついてきたので、二人で歩いているというわけだ。
檎宇は用があると言って梧桐君とどこかへ行ってしまった。
普段運転手付きの車で通学している御曹司が普通に隣を歩いている光景は、以前なら違和感を覚えただろうが、今は少しだけホッとしている。
「篠谷君が言うように、私が運営から外れれば、伯母様の標的は少なくとも今回の行事中はいなくなるんですよね……」
篠谷のことだから寸分の無駄も無い人員配置表を作ってくるだろうことは確実で、そこに私がいる必要性が無いと全員が納得させられてしまえば、私は今回の外部見学会の運営からは外されることになるだろう。
「葛城、お前もそんなにあっさりと引き下がる必要はなかっただろう! 生徒会副会長が生徒会主催行事から外されるなど、前代未聞だぞ。そうでなくともお前は……」
「不祥事が多い副会長と影で言われているのに、ですか?」
言いよどんだ一之宮先輩の言葉尻を引き継いで聞き返せば、先輩の眉間のしわがより深くなるのが見えた。
「お前が事件を引き起こしたわけじゃない。どちらかと言えばお前は常に被害を受けてきた方だろう」
「トラブルの中心にいるという意味では、傍から見れば迷惑な存在なのかもしれませんよ」
それこそ篠谷の言うとおり、『私がいなければ』事件は起きない。
いくら事件の方が私に向かってやってくるのだとしても、巻き込まれた側にとっては、加害者も私も関係なく迷惑で、忌避すべき存在なのかもしれない。
「思えば篠谷君は私の周りで起きたことほとんど全部の被害を被っているんですよね」
一番の被害は冬の池に蹴り落とされたことかもしれないが。あれは確実に私が加害者で、篠谷は純粋に被害者だ。
その上幼馴染が事件を起こし、自身も醜聞の的になって評判を落としそうになったりもした。体育祭では直接の被害はなかったにせよ、彼の生徒会長としての経歴には似つかわしくない不祥事として記録されてしまっている。
普通に考えて、これ以上私に関わりたくないと考えても仕方ないと言える。
無意識に溜息が零れた。
不意に肩を掴まれ、隣を見上げると、一之宮先輩がどこか緊張をはらんだ表情でこちらを見下ろしていた。
「……葛城。これを言うのは何度目かとも思うが、代議会に来い。篠谷がお前を不要などと切り捨てるなら、俺のところへ来い。俺なら……」
「一之宮先輩……」
掴まれた肩からじわじわと伝わってくる熱に、戸惑いを覚える。
思わず後退れば、先輩も一歩前へ出る。
そうしてブロック塀に追い詰められた。
「あいつのことは多少認めた気でいたが、今日のあの態度を見て確信した。あいつでは駄目だ。俺の手を取れ、葛城。俺が絶対に守ってやる」
怒りと苛立ちに彩られた荒々しい口調なのに、その声音はどこか甘さを滲ませていた。
それに気づいた途端、身体が勝手に動いていた。
眼前に迫った一之宮先輩の顎に掌底がまっすぐに叩きつけられる。よろけた隙に塀と先輩の隙間から抜け出した。
「先輩すいません! ここまでで結構です! それじゃあ失礼します!!」
痛みに呻いている先輩に頭を下げて、一目散にその場から逃げ出したのだった。