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「鵜飼先生、いったい何があったんですか?」
梧桐君が立ち尽くしていた杏一郎に声をかける。ちらりと家庭科室の方を見ると、顔を出していた女生徒は慌てたように引っ込んだが、おそらく室内で扉に隠れて耳をそばだてているだろう。
此処での受け答え如何で、どんな噂話に仕立てられるかが決まってしまう。
杏一郎が上手く受け答えできるだろうかと顔を伺ってみて、絶望する。
「(駄目だ。無表情だけど、落ち着いている訳じゃなくて、上手い誤魔化しが思いつかなくて狼狽えてる顔だ。あれは……)」
元々杏一郎は器用に要領よく立ち回れるタイプではない。こんな状況で、咄嗟に嘘がつける性格ではないのだ。
けれどこのままでは杏一郎の立場も危ういし、桃香だって無責任な噂話でどんなふうに言われるか分かったものではない。
仕方なく、私は一歩前に出ると、不自然ではない程度に声を張った。
「だから言ったのよ。杏にいの事を知ったら桃香は怒るだろうって」
家庭科室の方からざわめきと共に椅子が倒れるような音がした。どんな体勢で聞き耳を立てているのか知らないが、大丈夫だろうか。怪我をしていないといいが。
横目で見ると梧桐君たちも目を丸くして固まっている。
この場に檎宇がいたら、事情を察してノッてくれるんだろうが、生憎今日の会議は生徒会の役員だけで行っていたので、檎宇は参加していない。
仕方なしに、杏一郎へ視線だけで少し黙っていてほしいと訴えつつ、小芝居を続けた。
「いくら母さんに頼まれたからって、学校での様子をこっそり監視されて報告されていたなんて、怒らない方が変だわ」
その言葉で杏一郎はこちらの意図に気付いたようで、微かに頷いた後、重々しく見える表情で溜息を吐いて見せた。
「だが……柚子姉さんの頼みは断れなくてな……」
「葛城さん、鵜飼先生と葛城さんって……」
まるで桃香との諍いの原因を知っているかのように親しげな風にやり取りをする私たちに梧桐君が問いかけてくる。その後ろに立つ篠谷はどうにも渋い顔をしているが、嘘がばれている訳ではなさそうだ。
「ああ、親戚なの」
「親戚っていうと……理事の……」
「この学校の理事長は父方の親戚。杏にいは母方の遠縁なの。父は結婚のときに実家と縁を切って母の籍に入ったから、理事の人とは会ったこともないわ」
嘘を上手くつくときは、真実を適度に混ぜた方がいい。
杏一郎が親戚なのは本当だが、彼が理事長の関係者であることは彼自身が伏せたいと思っているので、それならば母方の遠縁ということにした方が無難だ。
親戚としてそれなりの付き合いがあったと思わせられれば、杏一郎が桃香を呼び捨てにしたのも家族ぐるみの付き合いの上だと思わせられる。
杏一郎もそれに気づいて、母さんへの呼び方を少し親しげに変えて話を合わせてくれた。
「葛城さんは鵜飼先生のこと『杏にい』って呼ぶんだね」
「学校では先生と生徒だし、あまり大っぴらにすることでもないから人前ではちゃんと鵜飼先生って呼ぶようにしてるんだけどね」
杏一郎の『桃香』呼びをかき消すには呼び捨てくらい当たり前の間柄なのだと印象付ける必要がある。
こころなしか篠谷の表情が険しくなった気がするが、今は家庭科室の女生徒がちゃんとこちらの話を盗み聞きしてくれているかの方が大事だ。
なるべく自然に、呼び慣れているかのように、私は杏一郎の事を『杏にい』と繰り返した。
「杏にいは母さんに頼まれて、私や桃香が学校でどう過ごしてるか、事細かに報告してたらしいの。私もそれを知った時は文句を言ったものだけど、桃香は気づいていなかったみたいだから、ちゃんと杏にいから正直に言って謝った方がいいよ、とは話していたんだけどね……」
「ああ、それで桃香ちゃんはあんなに怒ってたのか」
実際には桃香がなぜ怒っていたのかは今は分からないので、帰ってから本人に訊かないといけないのだけど。今この場で杏一郎に訊くわけにもいかないし。
「桃香には私から言って聞かせておくけれど、多分暫くは機嫌が直らないと思うから、杏にいは暫くはあの子をそっとしておいて頂戴」
「ああ、分かった。…………真梨香、何から何まで、すまない」
ああ、耳を垂らしてしょげる犬の幻影が見える。
思わずいい年こいた大人の男性の頭を撫でそうになる衝動をこらえつつ、家庭科室の方を振り返る。
数人の女生徒と目が合った。
「そういうわけだから、私たちの事は内密にしてくれると嬉しいわ」
できるだけ穏やかな優等生スマイルを作って笑いかけると、女生徒達の頬が真っ赤に染まり、コクコクと頷きながら引っ込んだ。
「……いいんですか? あれでは」
「言っても言わなくても、噂になるのは止められないでしょうね」
加賀谷が心配そうに口をはさんでくるのを溜息と共に受け止める。
先刻の騒ぎが起きてしまった時点で、杏一郎と桃香の関係については噂になるのは避けられない。原因をうやむやにすればするほど憶測が妄想を呼び、どんどん望まざる方へと情報が捻じ曲げられていく。噂とはそういうものだ。
それならば、隠そうとすることで、今しがたの嘘が真実であると思い込んでくれた方がマシである。少なくとも、桃香と杏一郎の仲を邪推されるよりは。
「それじゃあ、鵜飼先生、また明日」
「ああ、気を付けて帰りなさい」
最後は白々しい程普通の生徒と教師らしく挨拶をしてその場を後にしたが、帰ってからの桃香からの事情説明如何によってはもう一度杏一郎とは話し合いをしなければいけないかもしれない。
桃香が杏一郎に対して怒る理由……か。
その想像は当たらずとも遠からずなのだろうと思うと、溜息が零れた。
家に帰ると、珍しく母さんが帰宅していた。
「定時に帰ってくるなんて珍しいね」
「昨日やっと大きな取引が一段落したからね。でもまた明日から忙しくなるから、今日くらいは早く帰れって部長に言われたの。それよりも、桃香が帰って来てからずっと部屋に籠りっぱなしで、何かあったの?」
学園の生徒たちを誤魔化すためとはいえ、杏一郎についての嘘に母さんの名前を使ってしまったのだから、一応説明しておいた方がいいだろう。
「何があったかはこれから桃香に訊こうと思っているんだけれど、その前に、ちょっといいかな?」
「なあに? 改まって」
「鵜飼……じゃなかった、烏森杏一郎、母さんは知ってるよね」
その名前を出した途端、母さんの表情が凍り付いた。
「烏森………」
「杏一郎。梅香伯母様の子供で、今は桜花学園の先生兼理事会役員してる」
どうやら母さんは杏一郎が学園で教師をしていたことまでは知らなかったようで、こわばった表情のまま深く溜息を吐いた。
「……詳しく聞きたいわ。リビングで話しましょう。……申し訳ないんだけど、今夜は店屋物でいいかしら?」
「ええ」
二人でリビングへ移動して、母さんが淹れたコーヒーを少しずつ飲みながら、杏一郎の事を話した。
杏一郎が烏森の家を離れ、鵜飼杏一郎として学園で教鞭を取っている事、去年、私が入学して間もない頃から、私と杏一郎の間ではそれなりの交流を持っていた事、体育祭で私の父が学園の理事長の一族の出であると暴露された事、今日の桃香と杏一郎の一件。
すべてを話し終えた後、母さんは暫く無言だった。
父さんと母さんは桜花学園で出会い、恋に落ち、周囲の大反対の中駆け落ち同然に父さんが家を捨てて結ばれたと聞いている。
それまでの紆余曲折の中には、一度梅香伯母様の執拗な嫌がらせによって別れさせられたこともあったと。その上で伯母様は父さんの葬儀の席で大暴れして父さんの亡骸を奪って行ったのだ。
そんな事をされた母さんにしてみれば、坊主憎けりゃ袈裟までの気持ちで杏一郎を嫌っていてもおかしくない。
「母さん。言っておくけど、杏一郎さんは伯母様とは違う、別の人間よ」
「わかってるわよ」
思っていたよりもきっぱりと返事が返ってきて、顔を上げた母さんの表情は穏やかで、拍子抜けしてしまった。
「……椿さんから杏くんのことは聞いていたもの。蛇がチワワを産んだだの、サソリがウサギを産んだだのと言っていたわ。実際に会ったこともあるけど、母親に似ず、優しい子に見えたわ」
「ウサギかチワワで言うなら間違いなくチワワだと思うわ」
父さんの例えの所為で、今後杏一郎を見るたびにチワワの幻影を見てしまいそうだ。
「桜花学園にいるとは知らなかったけど、椿さんが生きていたら、きっとあなたたちと仲良くするよう言っていたでしょうね。真梨香は杏くんに懐いてるって言っていたし」
「え?」
母さんの言葉に驚いていると、母さんは訝しげな顔をした。
「アンタまさか覚えてないの? 昔一回だけ杏くんと遊んだって椿さんから聞いたわよ。私と桃香が留守にしてる時に杏くんが来て、真梨香がおやつを分けてあげて、とてもはしゃいでいたって……」
「え……えっと……え? あ?! えぇ?!」
言われてぼんやりとだが思い出した。そう言えばそんなような事があった気がする。
あれは私が前世の記憶を取り戻すよりも前、まだボクだけの意識しかなかった頃……。
「キョウくん……?」
前髪で目元が隠れた背の高いお兄さん。ボクの戦隊談義を頷きながら聞いてくれて、桜もちをはんぶんこして……。
「キョウくんが杏一郎……?!!」
どおりで髪が短い頃の私の事を知っている様子だったわけだ。
あの頃の私は坊主とまではいかないけれど、耳も額もまる出しのベリーベリーショートだったのだ。
「そのあと杏くんはすぐに海外に留学していて、椿さんの葬儀の時、緊急で帰国したのよ。あの場にもいたわ」
「うん……私はあの時のこともよくは覚えてなかったんだけど、謝られた。土下座で」
梅香伯母様の暴挙を止められなかったことを、杏一郎はずっと気に病んでいたと言っていた。
「もしかしたら、杏くん、桃香にもそのことで謝ろうとしたんじゃないかしら」
母さんの言葉にハッとする。
あの葬儀の席でのことは桃香にはショックが大きすぎたのか、あの後桃香は熱を出し、それが下がる頃には父さんの葬儀の前後の記憶が無くなっていた。
桃香が夏期講習直前に杏一郎を苦手だと言っていたのは、深層意識の中で杏一郎の顔とあの時の記憶が結びついていたせいなのかもしれない。
そうとは知らない杏一郎から謝られて、あの時の事を思い出してしまったのだとしたら……。
「……桃香を呼んでくる。あの子が怒っているとしたら、きっと杏一郎にって言うより、自分に怒ってる気がするから」
「そうね。連れていらっしゃい」
そう言って母さんはもう一つカップを温め始めた。
部屋へ呼びに行くと、桃香は案外すんなりと部屋を出てきた。
目元が赤く、少し腫れているのを不憫に思いながら、手を引いてリビングへと連れて行く。
母さんが桃香に淹れたのは、コーヒーじゃなく、甘い香りのするハーブティーだった。
父さんが昔淹れようとすると、恐ろしく苦くなるそのお茶は、母さんが淹れると、柔らかな香りと程よい苦みと甘みの、極上のお茶になる。
仕上げに蜂蜜をひと垂らし。湯気の立つカップを、桃香は黙って受け取った。
「真梨香から聞いたわ。烏森、杏一郎君に会ったんですって?」
「……」
無言でお茶の香りを吸い込んでいた桃香が、ゆっくりと頷く。
「何を言われたの?」
「……自分は、お父さんの甥で、私たちの従兄だって……それで……昔父さんの葬儀で会ったことがあるって言われて……私、思い出しちゃったの……」
「それで……?」
ゆっくりと、先を促す母さんに、桃香が震える声で応える。
「あの人が……お父さんのお葬式で暴れていた怖いおばさんの後ろに立っていた……でも、助けてくれなかった……お姉ちゃんが、お母さんが、叩かれたり、蹴られたり、……なのに、なにも……してくれなくて………何もできなくて……助けてほしかったのに……」
ティーカップを持つ手が震えて、今にもお茶を零しそうだったので、そっと桃香の手からティーカップを取り上げる。
「杏一郎君は、何て?」
「謝ってた……でも……でも私許せなくて……っ……だってあの人は大きくて、力もあって……それなのに……私は何もできなくて……っ」
桃香の眼からぽろぽろと涙が零れる。
私と母さんは、両側から同時に桃香を抱きしめた。
「ごめんなさい……ごめん……なさい……っ……なにも……できなくて……助けられなくてごめんなさい……あの人を責める資格なんて……私にはないのに……っ」
「何もしてなくはないよ。桃香は助けてくれたよ」
「うん、桃香が助けてくれた」
泣きじゃくる桃香を二人がかりでぎゅうぎゅうに抱きしめる。
実際、桃香がいなければ、私は全てを諦めて、伯母様に引き取られる道を選び、今頃生きてはいなかっただろう。
母さんだって、桃香がいたから、父さんの死から立ち直って今、元気に生きている。
そう言ったら、母さんから、
「真梨香と桃香、両方いたから、私は生きて来られたのよ。二人ともが私を救ってくれたのよ」
と小突かれた。
「……桃香、すべてを思い出した桃香が苦しかったように、ずっと覚えていた杏くんもきっとずっと自分の事を責めて来たんだと思う。だから桃香に謝ろうとしたんじゃないかな」
「そんなの……わかってるけど……でも」
「杏一郎さんを許せとまでは言わないけどさ、あの人が心から悔いていることは分かってあげてくれないかな」
桃香の頭を撫でながらそう言ったら、なぜか桃香は頬を膨らませた。
「お姉ちゃん、去年からあの人と会って話してたって、本当だったんだ」
「ん? ああ、そうね。ちょっとどうしても頼みたいことがあって……」
「私の知らないところでお姉ちゃんといつのまにか和解して、仲良くなって……」
ぷっくりとむくれる桃香が可愛すぎてちょっと意味が分からない。
こんなかわいい生き物がこの世に存在していいのかな。いいのか。だって桃香だもんね。
「桃香は覚えていないだろうから、折を見て話そうかと思っていたのよ。別に仲間外れにしようとしたわけじゃないのよ?」
「別にそんなことで怒ってるんじゃないんだから。……ちょっとムっとしちゃっただけで」
それは怒ってるっていうのよ、桃香、と思ったけれど、耳まで真っ赤になって恥ずかしそうに頬を膨らませて唇を尖らせる桃香が可愛すぎて、語彙力が消滅していたので言わなかった。
そのかわり、母さんと二人で揉みくちゃになるまで桃香を抱きしめ倒した。
母さん特製ハーブティーは、冷めても美味しかった。