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「おはよう、葛城さん」
「おはよう梧桐君」
夏期講座の講義がある教室に入ると、梧桐君がとことこと駆け寄ってきた。
相変わらずビーバーみたいでほっこりとする。
小粒な丸い目をくりくりとさせながら私の顔を覗き込んでいた梧桐君は、やがて何か納得したように頷いてにっこりと笑った。
「始業時間までまだあるのに教室に来たって事は、津南見先輩との追いかけっこはもうしなくて良くなったのかな?」
ほんわかな見た目に似合わず発言は鋭いんだけどね。
流石に私と津南見の事情の内容までは知らないだろうけれど、夏期講座初日の騒動以降、今日まで何も言わなかったのは、私が津南見と向き合うことを見越していたんじゃないだろうかと言う気配が感じられる。
「もう大丈夫よ。……心配かけてごめんなさい」
梧桐君はいつも始業ギリギリに教室に滑り込んでくる私の為に、席や教材を確保して置いてくれていたのだ。感謝してもしきれない。
「いやいや、僕なんかじゃ心配くらいしかできないからさ。あ、でも解決しちゃったんなら、余計なことしちゃったかも」
「え?」
「いや、初日の様子から、状況くらいは伝えておいた方がいいかなって、つい」
にこにこ笑っている顔にはあまり反省とか申し訳なさが感じられないのはどうしてだろうか。
「伝えたって……誰に?」
梧桐君がここ数日の話を伝えそうな相手と言えば……。
「……心配して予定を切り上げて帰って来てみれば……ずいぶんと呑気そうなご様子ですね?」
背後から迫りくるこの寒気を伴う美声は……。
恐る恐る振り返ってみると、麗しの生徒会長様こと篠谷侑李が真夏の空気も凍らせるツンドラ気候を背負って立っていた。
何で再会していきなり不機嫌なの。
「あ、あら篠谷君、たしかご家族とお爺様のいらっしゃるフランスにご旅行で戻るのは新学期直前だった筈では?」
「ええ、一応そのつもりだったんですけどねぇ。宗太から誰かさんがまたも三年の先輩とのトラブルを起こしていると伺いまして」
「また、ってそんな始終先輩とトラブルを起こしているように……」
「言われても仕方がないという自覚、無いんですか?」
「……あるわ。ありますからそれ以上背負ったツンドラの気温下げないで!」
真夏なのに風邪でも引いたらどうしてくれる。
腕に立った鳥肌をさすりながら訴えると、篠谷は深く溜息を吐いた。
「……本当に、心配したんですよ?」
ツカツカと歩み寄ってきた篠谷がこちらへと手を伸ばしてきた。その手が頬に触れるより早く、後ろから誰かの腕に引っ張られ、篠谷の手は空を掴んだ。
「足労をかけて悪いが、もう心配は無用になった。せっかくの家族団欒だったんだろう? 何だったらまたフランスにとんぼ返りしてくれて構わないぞ?」
「津南見先輩?!」
気配もなく後ろに近付いてきていた津南見ががっちりと私の肩を抱いて引き寄せていたのだ。
「見てのとおり、雨降って地固まるという奴でな。俺と葛城はもう大丈夫だ。今後はもう気にしないでくれて構わないぞ」
なんだろう、見た目だけなら屈託のない真っ正直な笑顔にしか見えないのに、威圧感がこもっている気がする。
篠谷と梧桐君もそれは感じたのか、息を呑む気配がした。
「つい先日まで恥も外聞もなくうちの副会長を追いかけ回していたと伺ったんですが、嫌がる婦女子をそのように抱き寄せるのはセクハラって言うんですよ?」
一瞬なりをひそめたかに見えた篠谷のツンドラ気候が復活している。
空調もかかっていない筈なのに、寒気が止まらない。
「葛城が嫌がっているように見えるなら慧眼と噂の生徒会長の眼も噂と違って節穴だな。葛城が本気で嫌がっていたら今頃俺の顎は裏拳で砕かれている」
流石にそこまではしない。嫌だったら殴るのは確かだろうけれど。
「……先輩、殴りはしませんが、放して欲しいとは思っています」
だいたいなんでこんな一触即発の空気になってるんだ。肩にかかった津南見の手を引き剥がしながらジト目で傍らに立つ男を睨む。
が、目の前の男は意に介した様子もなく、ニコニコと笑っている。逆に篠谷の方はどんどん険しい表情になっていっている。
これではどちらが桜花学園の微笑み王子だかわからない。
「後輩をからかって遊ぶような男を過去にも現在にも親友に持った覚えはないんですけど?」
さっきから津南見の纏う空気に敵意の欠片も感じられない。
完全に篠谷達の反応を見て面白がっているのが伝わってくる。
「反応が青々しくてつい、な」
心底楽しそうに人の悪い笑みを浮かべる津南見なんて、本来なら解釈違いも甚だしいのだが、不思議と不快感は感じない。
「はいはい、おじいちゃん、悪ふざけはその位にして、教室に戻ったらどうです? 三年の1限は時間に厳しい数学の小糠先生じゃなかったです?」
「それが小糠先生が腰を痛めて1限が自習になってしまってな。せっかくだから葛城の顔を見に来た」
「なにがせっかくですか」
「いやなに、あの後ちゃんと眠れたのか気になっていてな。……うん、顔色が良くなっているな。良かった」
「わざわざ誤解を招く言い回しをしないでください!」
絶対わざとやっているとしか思えない津南見の言葉に思わず肩に乗った彼の手をつねる。かなりの力で捻ったのに全然痛そうにしないところが腹が立つなと思っていたら、ベリッと音がしそうな勢いで津南見から引き剥がされた。
「真梨さんに馴れ馴れしく触るの止めてくれる? すっげ~不愉快なんだけど?」
いつ来たのか、檎宇が津南見の首根っこを掴んで立っていた。
その後ろに桃香もいる。
「津南見先輩は暫く出禁ですってお姉ちゃんに言われたでしょう! 離れてください!!」
津南見から引き剥がされた私にコアラよろしくしがみついてくる可愛い妹を抱きしめ返す。
今日もうちの妹は世界一可愛い。
桃香の抱き付き型ぬいぐるみとかあったら売れるんじゃないかしら。私が買い占めるけど。
「ここは葛城の家じゃないから出禁の適用外だな」
「お姉ちゃんの周りに『出没禁止』の『出禁』です!!」
「なるほど、上手いことを言う。葛城妹はそうしているとまるでコアラみたいだな」
「違いますぅ~! お姉ちゃんを不逞の輩から守るナイトなんです~!」
「それは強敵だな。今日のところは退散するか」
「明日も明後日も、出禁は出禁です!! 出没禁止!!」
桃香と津南見の応酬に廊下を行く生徒たちが何事かとこちらを見ている。
「こらこら、君たち廊下で騒いじゃいけませんよ」
見かねたというよりは、通り道で行きあたってしまったという様子で困ったように眉尻を下げて声をかけてきたのは檎宇と桃香の担任の栗山幸樹先生だった。
去年の私と篠谷の担任でもあり、杏一郎の親友でもある。
「小林君と葛城桃香さんは僕より先に教室に入らないと遅刻扱いにしますよ」
「侍先輩は1限自習だからってこんなところでサボってんだから、まずそっちを注意してよ~!」
檎宇が不満げに袖をバタバタと振り回す。
「津南見くんも、自習といえ、始業時間までに教室に入らないと、僕の方から小糠先生に報告させていただきますよ」
「侍先輩ざまぁ。こっからじゃ三年の教室に始業までに着くの無理でしょ?」
「なんだ、俺でも間に合う距離を走破できないとは、小林のその長く見える脚は飾りだったのか?」
「は? 何なら今すぐコンパスの差思い知らせてやろうか?」
「こ~ば~や~し~く~ん~、君が走っていくのは三年の教室じゃなくて、僕が教える、一年の教室でしょ~?? 葛城桃香さんはもう先に行っちゃってるよ」
「あ~! 桃ちゃんずりぃ!!」
「檎宇くんごめんね~遅刻なんかしたらお姉ちゃんに嫌われちゃうから~」
遠ざかる桃香の声に、心の中で遅刻ごときで嫌ったりしないと声援を送る。
「え、まじで? 真梨さん遅刻する奴嫌い?」
「そうねぇ。自習だろうが何だろうが、授業を蔑ろにする人は好きじゃないわね」
言うが早いか、檎宇は桃香を追って駆けだしていた。
「それじゃあ俺も葛城に嫌われないように急ぐか」
そう言って津南見先輩も韋駄天の如き速さで三年の教室の方へ走り去っていった。
「はっや! 津南見先輩って剣道が強いだけでなく足も速いんだね」
「運動全般、苦手なものは殆どなかった筈よ」
ゲームの中の津南見のプロフィールによれば、だが。
おそらく今の津南見はゲームの彼よりも色々な方面で鍛えられているから、ゲームよりも運動能力が劣るということはないだろう。
「……よく知ってるみたいに話すんだね」
「う……昔から有名な選手だったから……」
鋭い梧桐君のツッコミと訝しげな篠谷の視線を誤魔化しながら、教室に入ろうとして、ふと気になって振り返った。
「そういえば、篠谷君は家族旅行で夏期講座には出ないって言っていたのに、どうしてここにいるの?」
まさか本気で私と津南見が揉めているのを心配して、大事な家族旅行を切り上げてきたわけじゃあるまい。そう思って尋ねた途端、梧桐君は盛大に吹き出して笑い転げ始め、篠谷は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……そうですね。授業には出ませんが、放課後、生徒会室に来てください。宗太も」
「僕も? お邪魔じゃないかな?」
「れっきとした生徒会の会合を行うんですよ。桑と香川さんにも連絡を入れておきます」
「ずいぶん急な話ね。何かあったかしら?」
新学期すぐに生徒会が主催する行事と言えば、二学期中ごろの学園祭だが、準備は新学期が始まってからの筈だ。
「理事会からの要請で、来年度の受験生やそのほか学園への出資者を招いての学内見学会を生徒会主体で運営進行をして欲しいと言われてしまいました。開催は9月中旬、新学期始まってから学園祭の準備と並行していたのでは間に合わないので、本日とりあえず基本的な骨組みを話し合いたいと思います」
「理事会からの要請……」
面倒ごとを押しつけられたという様子の篠谷を見ながら、私は無意識に右の耳を手で覆っていた。
久々のいつメン。ホッとする。