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「……葛城、真梨香?」
「うめ……か伯母様」
目が合った瞬間、背筋が冷えていく。
耳に甦る金切声と、打ち据えられた痛み。桃香の泣き声。物が割れる音。
蛇に睨まれた蛙状態で立ち竦む私に、梅香伯母様の視線が突き刺さる。
「……杏一郎が珍しく取り乱していると思ったら……そういうこと」
ちらりと後ろを振り返る伯母様が理事長室から出てきた杏一郎を見て何かに納得したかのように一人頷く。
私は視線が自分から外れたのを幸いに、恐る恐る呼吸をした。なるべく深く、静かに。自分を落ち着かせるためにゆっくりと繰り返す深呼吸は、再び伯母様の視線が私に向けられたことであえなく乱される。
そこに浮かんでいるのは憎悪と侮蔑。けれど、逃げ出したくなるほどの恐怖は次の伯母様の言葉で一瞬頭から飛んだ。
「お前の母親もお前も、よくよく私のものを掠め取っていくのが好きなようね」
「それは違います!」
咄嗟に出た声は自分でも驚くほど大きく廊下に響いた。
しまった、と思ったが、言葉に出してしまった以上は最後まで言わなくてはならない。例えそれが、話が通じる相手じゃなかったとしても。
「……鵜飼先生……杏一郎さんは伯母様の所有物なんかじゃありません。杏一郎さんは、杏一郎さん自身の物です。息子だろうと、弟だろうと、物のように扱うのはやめてください」
私の言葉に梅香伯母様とその後ろで杏一郎でさえも目を見開いて驚いているのが見えた。
正直脚は震えているし、今この瞬間も伯母様から凶器の一つも投げつけられるのではないかと冷や汗が止まらないのだが、これだけは、ずっとずっとこの伯母に対して言いたかったことだったのだ。
それこそ、前世の頃から。
ゲームの中で、梅香伯母様は最愛の弟によく似た桃香に対し、優しく甘やかそうとする伯母の顔で接してくる。その一方で自分の息子と桃香の婚約を画策し、桃香を烏森の家へ、自分の領域へと誘い込み、弟の代用品として扱うのだ。
桃香の振る舞いが思い出の中の弟とずれた瞬間、彼女の狂気は桃香へと牙をむく。
『私の椿がそんなことを言うはずがないわ!』
『あの女狐の血がそうさせるのね!?』
『お前など! 椿の紛い物のくせに!!』
そんな梅香伯母様から杏一郎は幼い頃から存在価値を否定され続けて育っている。
椿の甥であり、自分の息子なのに椿に似ているところが無いと理不尽な言葉を浴びせられ、母親らしいまともな愛情は注がれることなく育ったせいで表情筋が死んでしまったのではとゲームの中では語られていた。
桃香はそんな杏一郎の感情を読むことに長けていて、どんなに無表情でも彼の気持ちにいち早く気づき、その心に寄り添って傷を癒す存在になっていった。
桃香を守るため、梅香伯母様の狂気の鎖を杏一郎が自ら断ち切り、二人で力を合わせて立ち向かっていくというのが杏一郎ルートのシナリオである。
「父さんも、杏一郎さんも、あなたとは別の人間で、あなたの思う通りに動く人形じゃないんです」
「真梨香……」
「生意気を……っ!」
ネイルが艶々と光る伯母様の手が振り上げられて、身体が竦んでいて動かない私は痛みを予測して目を閉じた。
「……?」
予測に反して訪れない痛みに目を開けると、伯母様の手を杏一郎が掴んで取り押えているのが見えた。
伯母様は振りほどこうともがいているが、力の差は歴然で、ビクともしていない。
「杏一郎! 放しなさい! お前! 私に逆らうというの!?」
「母さん、やめてくれ。真梨香の言うとおりだ。俺は……俺も椿さんも、あなたの所有物ではない」
「おだまり! こんな小娘に毒されて、お前、この小娘が何をしたか忘れたの?! こいつは私の椿を殺したのよ!! お前も懐いていた大事な椿を!!」
「あれは事故だ。真梨香に責任はない。……あの時も、こうやって止めるべきだった。こんなに簡単に、止められたのに」
杏一郎の手に力がこもったのか、伯母様が苦痛に顔を歪める。
「っ……痛っ…ぁあ!!」
母親の悲鳴に我に返った杏一郎が手を放すと、梅香伯母様はその場に崩れ落ちた。
杏一郎は私の前に回り込むとその背に私を庇って伯母様へと向き合う。
伯母様は血走った眼で杏一郎をねめつけ、その後ろにいた私に憎悪を剥き出しに毒を吐いた。
「お前が……誑かしたせいで従順だった杏一郎がおかしくなってしまった! お前がいた所為で椿は死んだ!! 全部! 全部お前が!! 許さない!! 許さないわ!!! 覚えていらっしゃい!! 生まれたことも、生きていることも、すべてを後悔させてあげるわ!!」
よろよろと立ち上がった伯母様がブツブツと怨嗟の呟きを零しながら去っていく。その間中、杏一郎は伯母様と私の間に立ち、その不気味な姿を見せまいとするように視界を塞いでいた。
ヒールの音が階下へと消えていき、脅威の気配が完全に消えたのを感じた瞬間、私の緊張は一気に緩んだ。
膝から崩れ落ち、その場に座り込んでしまう。完全に腰が抜けている。
「こ……殺されるかと思った…………」
「殺されると思うほど怖かったのなら、なぜあんな煽るような事を言った。何も言わず、やり過ごすこともできただろう」
膝をついて覗きこんでくる杏一郎の表情は相変わらずの無表情だが、その瞳に気づかわしげな感情が揺らめいているのが見えた。
「つい咄嗟に。でも、ずっと思っていたんです。杏一郎さんを、自分の子供だというだけで支配しようとするあの人が許せないって」
「真梨香……」
一瞬、杏一郎さんの表情が動いた気がした。けれど次の瞬間、彼はその顔を伏せ、床に両手をついて深々と頭を下げた。
「杏一郎さん?!」
唐突な土下座に驚いて立ち上がろうとしたけど、腰が抜けているので立てない。
あわあわと身を捩って杏一郎の正面に向き合った。
「いきなり何ですか?! 顔を上げてください!!」
「……すまなかった」
「あの! 梅香伯母様のことは私がメッセージに気付かずここまで来てしまったせいで、杏一郎さんはちゃんと忠告を送ってくれていたじゃないですか! ですから……」
「十年前のあの日、俺は母を止められなかった」
その言葉に、杏一郎が何を謝ろうとしているのかようやくわかった。
十年前、父さんの葬儀の席で梅香伯母様は私と母さんに暴言を吐き、物を投げ、殴り、蹴り飛ばし、父さんの棺を奪い去っていった。
確かあの場に高校生くらいの男の子がいた。今の杏一郎と印象がだいぶ違っているけれど、あれが杏一郎だったのならば……。
「お前が母に打ち据えられ、物を投げつけられ、血を流し、柚子さんまでもが母の暴行を受けていたのに、俺はあの時止めに入ることができなかった」
「それは……」
「俺はあの時既に母の身長を超えていた。体格的にも、体力的にも充分に母を止められたはずだった。にもかかわらず、お前たちを助けに入ることができなかった。不甲斐ない男で、すまない」
体格で勝っていたとしても、杏一郎は心の上で伯母様の支配下にあった。
あの時の狂気に満ちた母親の姿に身体が竦んで動かなかった杏一郎を責めるのは酷だと思う。
けれど、そう言ったところで杏一郎の後悔を拭えるとは思えなかった。
「今回は、助けてくれたじゃないですか」
「真梨香……?」
「今回は、ちゃんと私が殴られる前に止めてくれたじゃないですか。おかげで今、私は無傷です」
ゆるゆると顔を上げた杏一郎がそっと私の頬にかかる髪をかき上げる。
露わになった耳朶を長い指がそっとなぞった。
「……痕が……残っている」
「小さなものですし……ほとんど気付かれないんですよ」
十年前、伯母様が投げた皿だかコップだかの破片で切れた耳の傷は薄桃色の引き攣れた線になって耳朶の縁に残ってしまった。
幸い髪で隠れるし、檎宇のお家騒動で髪を切った時も、耳は隠れる長さだったので、家族以外は気づかれたことが無い。
そう言って気にしてないアピールをしたつもりだったが、杏一郎は余計に落ち込んだ雰囲気になった。
「お前が髪を伸ばしていたのは……この所為か……」
「いえ、それは……」
髪を伸ばし始めたのは前世の記憶を取り戻したあと、津南見避けの為に女らしくしようとした結果なので、傷のせいではないんだけれど、説明できる気がしない。
杏一郎は私がいい淀んでしまったのを肯定ととらえたようで、悲壮な空気を纏って耳朶を壊れ物を扱うようにそろりそろりと撫で続ける。
「昔は……耳が出るくらい短くしていた……よく似合っていたのに……」
杏一郎の言葉に頭の中にハテナが浮かぶ。
父さんの事故の頃には髪を伸ばし始めていたので、当時の私の髪は肩くらいまであった筈だ。当然耳も隠れている。
「杏一郎さん、それって……」
父さんの葬儀以前に会ったことがあっただろうかと問いただそうとした時、杏一郎の顔が急に近付いてきたかと思うと、耳に、傷跡の辺りに温かい感触がそっと触れて、離れていった。
「え……?」
状況が把握できず、呆然としていると、立ち上がった杏一郎にいきなり抱き上げられた。
膝裏と背中を抱える、所謂お姫様抱っこ状態だ。
「え?! あの?!! 杏一郎さん、今っていうか、え?!!」
「腰が抜けているんだろう? 暫く理事長室で休んでいけ」
「いえあの?! そうじゃなくって?!」
熱が灯ったような耳を抑えながら慌てふためく私をよそに杏一郎はスタスタと廊下を進み、理事長室のドアを乱雑に蹴り開けると、応接セットのソファに私を横たえた。
「何か飲むものを持ってくる。……母が戻ってくるといけないから、鍵を外から掛けていくが、すぐ戻ってくるからな」
「…………えっと、あ、はい」
もはや突っ込む気力もなくなった私はぐったりとした気分でそう答えるしかなかった。
しばらくして戻ってきた杏一郎は甘めのミルクティーを持ってきてくれて、けれど、色々ありすぎて疲れた所為で、その日は津南見との顛末を話す余裕もなく、足腰が立つようになってから杏一郎の車で家の近くまで送ってもらうことになった。
「母が今後何か仕掛けてくるかもしれない。今後烏森の人間が俺の名前で接触を図ってきたりしても無視しろ。俺が直接お前に伝えられないときは、幸樹を使う。それ以外は母の罠だと思え」
「……気をつけます」
家の前で車から降りるとき、杏一郎は警戒を怠らないようにと繰り返し、去っていった。
「……今の杏一郎の台詞……桃香が言われていたやつでは……?」
烏森家で花嫁修業と称した梅香伯母様のいじめに耐え兼ねた桃香が杏一郎と協力して烏森家を脱出した後、先ほどのような台詞を言われるのだ。
もしこれがフラグだとするなら、梅香伯母様の罠は桃香に対してではなく、私に対して発動するって事になる。
「ゲーム通りなら……対処のしようもあるわ」
いまだに伯母様の事は怖いし、対峙するだけで手も足も震えるけれど、桃香を守るためなら、そして杏一郎をあの人の闇から救うためなら、戦うしかない。
杏一郎の車が見えなくなるまで、見送りながら、私は決意を新たにした。
その日の夜は、結局ろくに眠れないまま、窓の外が白み始めるのが見えた。
時計を見ると桃香が朝練の為に起きてくる時間よりも少し早い。もう寝るのは諦めて、朝ごはんでも作るか。
そう思って起き上がった時、窓にこつんと何かが当たる音がした。
気のせいかと思ったが、二度、三度と音がするので、そっとカーテンの影から窓の外を窺うと、そこには思いがけない人物の姿があった。
「津南見先輩?!」
いったい何をしているのかと驚いたが、悪戯で後輩の家の窓に小石を投げるような人ではない。
急いで音を立てないように階下に降りる。玄関を出て駆け寄ると、振り返った津南見の顔はひどく青褪めていた。
「先輩、こんな朝からいったいどうしたんっ?!」
近付いた途端抱きしめられた。
いやまず状況を説明して欲しい。
「ちょっと先輩!? いきなり何なんですか?!」
大声を上げるわけにもいかず、小声で問い詰めながら、腕の中から逃れようともがくが、小柄ながら鍛え抜かれた津南見の腕はビクともしない。
いっそ殴って正気に戻すか、と拳を固めた時、震える声が耳朶を打った。
「……夢を……見なかった」
夢というと、津南見を長年苛んでいた真梨香と津南見のバッドエンドの夢のことだろうか。見なかったというのは良い事だと思うけれど、津南見の様子はどう見ても喜びを報告しに来たようには見えなかった。
「先輩?」
「お前は……お前の方に夢が移ってしまったんじゃないのか?! お前が……お前を苦しめるために打ち明けたわけじゃないのに……俺は……っ!」
取り乱した様子の津南見の言葉で、やっと彼が何でここへ来たのかわかった。
津南見が夢を見なくなった代わりに私が悪夢を見たんじゃないかと心配してここまで来たのだ。
私が「返せ」なんて言ったから、本当に夢が私の方に移ったのかもしれないと。
「……先輩、私なら大丈夫です。夢は見ませんでしたよ」
実際は寝てもいないから夢をみる余地もなかったのだが、それは今は言うべきではないだろう。
津南見は少し腕の力を緩め、探るように顔を覗き込んでくる。
「本当か? 無理をしてはいないか? 顔色がなんだかよくない気がするぞ」
頬を包む手は汗ばんでいて、呼吸も荒く、Tシャツは汗でびっしょりと濡れて色が変わっている。
「顔色悪いのは先輩の方ですよ。まさかここまで走ってきたんですか?」
少しでも安心させようと笑って見せると、またもや抱きしめられた。正直力任せに抱き潰されると、同じぐらいの体格とはいえ、少し、いやかなり痛い。
やっぱり一回殴った方がいいだろうか。
「先輩、見てのとおり私は大丈夫ですから。ちょっと、いい加減放してくださいって」
「……良かった……」
心の底からホッとしたというように深く溜息を吐かれて、暫く抵抗を諦めて津南見が落ち着くのを待とうかと拳を降ろした時、玄関のドアが開く音がした。
「真梨香ったら朝っぱらから何して……るの?」
「げ……」
寝ぼけ眼を擦りながら出てきた母さんが、門前で抱き合っている(ように見える)私たちを見て目を見開く。
母の驚きの悲鳴がご近所に響いてしまうのを止めることはできなかったし、結果として母の声で桃香も起きてしまった。
「朝から騒がせてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「こちらこそ大きな声を上げちゃってごめんなさいね? ほら、顔を上げて頂戴」
数分後、リビングで床に手をついて深々と頭を下げる津南見に、母さんが淹れたてのコーヒーを差し出しながら宥めるという光景が展開されていた。
「お姉ちゃん、どういうことなのか、説明して欲しいんだけど」
桃香の方は少し不機嫌な顔でこちらをジト目で睨んでくる。
不機嫌な顔も可愛いのであまり迫力はないんだけど。
まあ桃香にしてみれば、津南見の賞状を言付かってきたときに色々と気を揉ませてしまっていたのだから、ことの経緯を知らないまま、私と津南見が早朝から家の前で抱き合っていたなどという事態を見せられれば、混乱もするだろう。
実際のところ抱き合っていたわけではなく、一方的に抱きしめられていたのだが、それをこの場で言ってしまうと津南見1人が悪者みたいになってしまうので、黙っておいた方がいいだろう。
津南見はあくまでも私を心配してきてくれたわけだし。
「それにしても、津南見、柑治くん……だったかしら? たしか真梨香が以前にチョコレートブラウニーを作ってあげてた子よね?」
無駄に記憶力の良さを発揮する母は好奇心で目を輝かせている。
とてつもなく厄介なことになってしまった。
「はい、とても美味しく頂きました」
「あらぁ~やっぱりそうなのね」
「母さん、違うから。母さんが想像しているようなのとは違うから」
絶対におかしな誤解をしている母さんを窘める。
そもそもあの時のブラウニーだって津南見だけに作ったわけじゃない。生徒会の皆にも作って持って行ったのだ。
津南見だけ剣道部にいるから別に包むことになっただけで。
「あら、母さんまだ何も言ってないわよ? 生徒会の子たちに上げる分は特に悩んでもいなかったのに、津南見君に上げる包みだけ可愛い顔を赤くして悩みに悩んでいたっていうだけで、なぁんにも、言ってないわよ?」
「充分に余計なこと言いすぎてるから! あと赤い顔とかしてないから! 記憶を捏造するの止めて!!」
母さんは学生時代に父さんと大恋愛の末駆け落ちして結ばれた所為か、顔に似合わずロマンチストだ。
私や桃香が桜花学園で素敵な恋をして欲しいと常日頃から言っているし、その流れで父さんとのロマンスなれそめ惚気話に突入すると長い。
そんな母さんにとって、好きな人もいないし恋の予定もないと豪語していた長女が玄関先で男子と抱き合っていたというのはめでたい事のように受け止めているらしい。
「桃香の先輩って事は……あら? 真梨香あなた以前にデートに行ったのは後輩だって言ってなかった?」
「デートじゃないし、檎宇もそういうんじゃないったら!」
「檎宇……小林檎宇、か?」
何故だろう、檎宇の名前を口にする津南見の空気が一瞬冴え冴えとしていたような……。
振り返ってみても、津南見は穏やかな笑みを浮かべている。無駄に落ち着き払った様子は高校生には見えない貫禄があった。
その貫禄のある笑みが、ほんの少しだけ悪戯っぽく歪んだのが見える。
「葛城のお母さん、残念ながら俺はまだ葛城……真梨香さんとデートをするような間柄ではありません」
「あ、あらそうなの……でも『まだ』……? ということは?」
「はい、現在は鋭意お嬢さんを口説かせていただいています。葛城を守り、幸せにし、幸福に天寿を全うさせるべく精進しているところです」
「いやだから、重い! 重すぎるから!!」
見なさい、桃香がドン引きしてるじゃない! ちょっと怯えて私にしがみついてきてる事に関してはグッジョブだけど。
津南見の重たすぎる告白に桃香や私が引いている横で、母さんは目を輝かせて身を乗り出していた。
「あらそうなのね。おばさん柑治くん気に入っちゃった。応援するからまた遊びに来て頂戴ね!」
「母さんは軽率に応援しないで!」
「ありがとうございます。次に伺う時は正式にご挨拶できるよう整えてまいります」
「先輩は暫く出禁です!!」
「……と、言われてしまったので、まずは出禁解除できるよう努めます」
はははと余裕綽々で笑う津南見は益々母さんに気に入られ、ぜひ朝食も食べて行けと引き留められたが、朝練までに帰って着替えて登校しなければならないと言って帰っていった。
母さんに押し出されるように玄関の外まで見送りに出た私は、半眼で津南見を睨み付けた。
「母さんは真に受けやすいんですから、あまりおかしなことを言わないでください」
「俺は本音しか言ってないぞ」
「その件はお断りした筈です。私は桃香の幸せを一番に考えたいって」
そう、断った筈だ。津南見はそうかと言って受け入れてくれたものだと思っていたのに。
「ああ、お前はお前で妹の幸せのために動くといいと思ってるぞ。俺はそれも全力で応援する。……その上で、俺は俺でお前の幸せのために尽くそう。お互いに、全力で」
「いえ、ですからそんなにされても私は何も返せないって」
「お前は妹から見返りを求めているのか?」
「そんな訳ないじゃないですか!」
「俺もだ。お前が幸せになることが至上。その過程でお前を幸せにするのが俺であったら、それは俺にとっての最上だと思っている。お前が困っていたら助けたいし、お前が泣いていたらハンカチを差し出したい。まあ、すべて俺が勝手にしたいと思ってやることだ。お前が嫌だったり、迷惑になるようなら控えるさ」
そうまで言われると言い返しにくい。
「それにお前は何かとトラブルに巻き込まれやすいからな。俺の手でも、助けになれるならいつでも頼ってくれ。ただの先輩としてでも、友としてでも、もちろんそれ以上の相手としてでも、俺はいつでもお前を助けにいくから」
「せめてその重々しい言動だけでも控えてください」
「お前が言うなら善処しよう」
真っ赤になった顔を見られたくなくて俯いたまま、門の外へ津南見を追い出す。こういう時、身長差が少ないと顔を伏せても見られてしまうのはいただけない。津南見がクスクスと笑う気配がする。絶対気付かれてるな、これ。
「じゃあな、葛城。また、学校で」
「もう校内鬼ごっこはしませんからね?」
「ああ、あれも結構楽しかったんだがな。今後は俺が行っても逃げないでくれると嬉しいな」
「逃げません」
そういうと津南見は嬉しそうに笑って、私の頭をくしゃりと撫でた。
「じゃあな、登校時間までまだある。少しでもいいからちゃんと寝ろよ」
そう言って去っていく津南見の背中を、くしゃくしゃにされた髪を整えながら見送る。
「……そういうこと言うから……ずるいんだよ」
寝てないことにいつ気付かれたのか、熱を帯びた頬をペチペチと落ち着かせながら、私は部屋へと戻った。
その日、二度寝した結果、講習には遅刻しそうになったが、頭と心は幾分かすっきりとしていた。