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道場の裏庭は程よく木陰になっていて、時折風が吹き抜けていく。
話している間、津南見がただまっすぐにこちらを見つめてくるものだから、ひどく落ち着かない気持ちにさせられた。
「……そういうわけで、私は前世でプレイしていたゲームの中で先輩の言うところの夢の結末を知っていましたし、それを回避するために、そしてそれ以外の桃香の悲劇も回避するために先輩やみんなの恋愛フラグを折りまくってました」
本人のあずかり知らないところで勝手にヒロインとの恋路の邪魔をされていたのだから、津南見は私に怒る権利がある。
それとも、悲劇の運命を知っていた津南見にとっては、真梨香と出会わなくて助かったと思われてしまうのだろうか。もしそうだったら、ゲームの中の真梨香はとことん報われない存在だったことになってしまうけれど。
そんなことを思いながら津南見の反応を窺う。
「葛城、一つ聞いてもいいか?」
「……何ですか?」
何を言われるのだろうか。余計な真似をしたと怒られるだろうか。それとも……。
「お前は前世でゲームとして俺たちの物語を見ていたと言ったな?」
「はい」
「そのゲームの中で、バッドエンドというのは具体的に映像で出てくるのか?」
そう言った津南見の表情は、恐れよりも心配の表情がありありと浮かんでいて、彼が何をそんなに心配しているのか分かってしまった。
「……ゲーム画面では、ただ、背景イラストにモノローグで『二人の行方は分からないまま、卒業の時を迎えた。私はもう二度と、彼らに会うことはできないのだと、校門の桜の木の下でひとり涙を流し続けた』って語られるだけです。エンディングのラストに遺書が見つかったかのような演出が挟まれるので、津南見柑治と葛城真梨香は死んだんだろうって、プレイヤーが察するように演出されていましたが、詳細な描写はありません」
「そうか……」
「……先輩の夢では……その……最期って……」
「いや、俺の方も最後は曖昧な感じで二人で心中したんだなって何となく思わせるだけだったから、もしかしたらお前の方では詳しい事が分かるのかと思っただけだ」
笑顔で嘘を吐く津南見をじっとりと睨み付ける。
津南見が気まずげに目を逸らした。
「……実際には俺もお前も今生きているんだ。気にする必要はないだろう?」
「先輩は……何回、私たちの死ぬ場面を見せられたんですか?」
津南見は頑なに首を振って応えてはくれなかったけれど、その態度こそが答えだと思った。
何千回、何万回も繰り返し見せられた悪夢を、私に背負わせまいと、津南見は嘘をついている。
「真梨香が、自身の最期を知りたいと望んでも?」
「たとえお前自身でも、起こらなかった悲劇の結末まで背負い込む必要はない」
「先輩は独りでずっと背負っていたのに?」
「ああ、これは俺が俺一人で背負うべき業だ。俺だけの、思い出だ。お前にもやらん」
最後は茶化すように言って笑う。
老獪にも見える笑みは歳不相応に過ぎて、夢が津南見をどれほど責め苛んできたのか、胸が痛くなる。
「しかしそうか……。お前はそうやって、俺との出会いを避け、妹を守ってきたんだな」
「守った……って言えるのかは微妙ですけど……桃香は私なんかいなくても困難を乗り越える強い子だから」
「俺はそうは思わないな。お前の妹が強くなったのは、お前がいたからだ。葛城真梨香が隣にいたからこそ、あいつは困難を乗り越えられるほど強くなったんだ」
津南見の言葉は優しくて、優し過ぎて、どんどん胸が痛くなる。
彼が親友と出会わなかったのは、彼が可愛い後輩と恋に落ちなかったのは、全部私の所為なのに。
「……津南見先輩は……馬鹿です」
「いきなり辛辣だな」
「私を責めて、詰っていいのに、ニコニコヘラヘラ笑って、許そうとするなんて、お人よしの大馬鹿野郎です。私は先輩から親友を奪って、恋を奪って、幸せになる人生の可能性を奪って、重荷だけ背負わせて自分はのうのうと妹と幸せになろうとしてるんですよ? 怒るべきです」
「怒るも何も、俺はお前に幸せを奪われたとは思ってないからな。確かに唯一無二の親友と呼べるほどの友は今はいないが、頼りになる兄弟子も、俺を主将と慕ってくれる後輩にも恵まれている。物語のハッピーエンドだけが幸せの可能性じゃないだろう?」
津南見が身を乗り出してきたと思ったら、武骨な手が頬を包んだ。
毎日竹刀を握る手の皮は厚く、少しガサガサしている。硬くなった親指の腹で目尻を撫でられ、自分が涙を零していたことに気付いた。
「生憎とハンカチが品切れでな。俺の手で勘弁してくれ」
そう言って涙を拭われる。硬い指先は、壊れ物を扱うようにそろりと肌を撫で、頬に触れる掌は、余計に泣きたくなるほど温かだった。
「お前は案外よく泣くな」
「そんなの……先輩の前だけ……でもないですけど」
篠谷や檎宇の前でも泣いたことあったな。そう言えば。
津南見の言葉も否定できないな、などと考えていたら。頬を包んでいた筈の手が、そのままむぎゅっと抓ってきた。痛くはないが、津南見の視線が痛い。
「ちなみにどこの誰がお前を泣かせたのか、訊いてもいいか?」
「そんな殺気満ち溢れた顔で訊かれたら答えられませんよ」
あまりの迫力に涙も泊まる勢いだ。
そもそも泣かされたというより、あれは私が一方的に感情的になって迷惑をかけた状況だ。篠谷も檎宇もいい迷惑だっただろう。
「先輩は、もっと自分のことで怒るべきです」
涙は止まった筈なのに、津南見の手は離れていかない。それどころか鼻先三寸の距離でアーモンド形の瞳に見据えられた。
「俺のことより、お前はどうだ? 今、幸せか? 俺を避けるためとはいえあんなに好きだった剣道を辞めたこと、後悔はしていないか? 生徒会に入ったことで俺とは別の苦労を背負いこんでは危険な目にもあっているだろう?」
どこまでもこちらを気遣う津南見にまた涙が零れた。
彼の気遣いの中には、真梨香への想いが溢れていたから。それが恋とは呼べない友愛の情であったとしても、それは確かに唯一無二の、親友だけにに向けられた深い想いだったから。
この想いに最初から気付いていれば、きっとゲームの中の真梨香も暴走はしなかっただろう。
「私は……幸せです。剣道はやめましたけど、身体を動かすことは好きですし、勉強も好きです。生徒会活動はやりがいがあるし、忙しくても充実しています。それに……私には桃香がいますから……あの子がいて、笑ってくれることが私にとっての幸せなんです」
津南見の手をそっと払って、自分の手で涙を拭う。
「津南見先輩、私は、前世でゲームの中のあなたを見ていた時、あなたの事が嫌いでした」
「……」
「自分のことしか見えていなくて、真梨香の気持ちを無視して、その所為で桃香が苦労したり、危険な目に遭ったり、こんな男に振り回されている真梨香も桃香も可哀想だ、そう思っていました」
酷い言葉を投げかけられているというのに、津南見の瞳は何処までも静かに凪いでいる。
「……でも、自分がこうして生まれ変わって、葛城真梨香として生きて、少しわかったんです。自分のことしか見えていなかったのは、真梨香も、桃香も同じなんだって。私たちだけじゃなくて、誰だって、本当に見えてるのなんて自分のことの、更にほんの一部でしかなくて、だからこそ相手のことを思って、想像して、模索しながら関係を築いていくしかないんだって」
前世を思い出してからずっと、葛城真梨香になってから、色んな人と出会って、仲良くなって、時に裏切られ、時に傷つけ合って、今に至っている。
私に見えていたもの、沢渡花梨に見えていたもの、甜瓜薔子に見えていたもの、篠谷侑李に、小林檎宇に、一之宮石榴や吉嶺橘平に見えていたもの。
全部違う何かが見えていて、何もかもは見えてはいない。
「葛城真梨香は津南見柑治の表側しか見ていなかった。見ようとはしていなかった。友情を手放すことに怯えて、それなのに恋情を諦めることもできなかった。津南見の気持ちを想像したり、自分の本当の気持ちを伝える努力を放棄していた。だから、真梨香は、道を踏み外してしまった」
目を伏せて、自分の心に問いかける。私の中の葛城真梨香に。
津南見に恋をしていた。津南見に焦がれていた。桃香を羨ましいと思い、それでも桃香のように素直になることもできなかった、幼い心の『ボク』の気持ちが、今ならわかる気がした。
「―――ボクの罪は、ボクだけのものだよ、柑治。勝手に1人で持って行こうなんて、ずるいじゃないか。返せよ、それはボクの最期でもあるんだから」
「葛城……いや、まこ、か?」
初めて少し驚いたような声を出した津南見に、葛城真梨香は笑ってその頭を引き寄せた。腕の中に抱え込んだ頭を抱き寄せ、その頭を思いっきりぐしゃぐしゃに撫でてやる。
ゲームの中で描かれたことはない。津南見の夢ではどうだったのかはわからない。けれどそのじゃれ合いのような触れ合いは、確かに親友であった津南見と真梨香の間に在ったものだ。
厳しい練習の後、シャワーを浴びて部室に戻ってきた互いの髪が濡れっぱなしだとタオルを手に軽口を叩きながら髪を拭き合ったこともあった。
部活の居残り練習で遅くなった帰り道、コンビニであんまんはつぶ派かこしあん派かで言い争い、二つ買って半分ずつ分け合ったこともあった。
津南見が桃香と付き合い始めて、二人で居残ることも、一緒に帰ることもなくなった放課後、部室で津南見の防具を磨いていた真梨香に、津南見が笑って引退したら防具を譲ると言ってきたことも―――。
二人での逃避行、最期には精神の均衡を完全に失った真梨香を連れて崖の上へ進む津南見。
すべてが鮮明な映像で浮かんでは消えた。
腕の中の男が少しだけ震える声で何度も謝るのを聞きながら、シャツの胸に沁みこんでくる雫に気付かないふりをした。
「……見苦しいところを見せたな。忘れてくれ」
しばらくたって頭が冷えたらしい津南見が目尻を赤く染めた顔でそっと私から離れた。
私の目尻も同じようになっているんだろうなと思ったら、深く突っ込まない方がお互いの為だと思い、無言で頷く。
「葛城、夢の中の俺はまこに対して、最後まで恋心は抱けなかった」
「……知ってるよ」
津南見が真梨香と共に死を選んだのは、同情と、罪悪感。あの津南見なりの罪滅ぼしだったのかもしれない。
今となってはそんな最期を迎えることはもうないのだろうけど。
何となく肩の荷が下りた気になっていると、津南見が急に居住まいを正した。つられて私もハンカチの上に正座する。
その顔には強い決意が現れていた。
「今の俺は、お前に幸せになって欲しい。そして願わくば、俺がお前をこの世で一番幸せにしたいと思っている」
「大げさすぎでは?」
「これでもだいぶ軽く言ってるつもりだ。お前が幸せに天寿を全うできるまで見守りたいとすら思っている」
「ひえ」
どうも津南見は悲惨な二人の最期を繰り返し見せられすぎて私の人生に対する責任を重々しく背負う気満々になってしまっているらしい。
「いやでもその責任の取り方は流石に重いというか、……あ、ほら、私はもう『私』になってしまったので『ボク』への責任を取る必要はないんじゃないかと……」
「お前は……今の自分を葛城真梨香とは別人と考えているのか?」
不思議そうに問わないでほしい。
前世の私の記憶が戻ったとき、元の葛城真梨香の人格は何処に行ってしまったんだろうかという件については結構悩んだのだ。
結論としては……。
「俺にはお前は葛城真梨香本人以外の何ものにも見えないぞ」
「……何でそう思われるんです? 喋り方も、髪型や服装の趣味だって、元の真梨香の面影は無いでしょう?」
「だが、それらは全部意識的にそうなろうとしてしてやっている事だろう?」
津南見の言葉に反論してみたものの、津南見は全く迷うことなく、胸を張って言い返してきた。
「お前が話し方や容姿を変えたところで、魂の本質は変わらない。前世の記憶を持ったとしても、それが同じ魂なら、それはやっぱり同一人物なんだと俺は思う」
唖然として津南見を見返してしまう。
私が悩みに悩んで、時間をかけて無理矢理自分を納得させるために付けた結論に、一瞬でたどり着いた挙句、こうもきっぱりと言い切るなんて。
「俺から見るとお前は確かに悲劇を回避するために慎重になったし、女らしく振舞って俺を遠ざけようと行動し、話し方を変え、髪を伸ばし、剣道からも距離を置いた。だが、前と変わらず無鉄砲で向こう見ず、正義感が強く、お化けが嫌い、人との関係に臆病で、傷つきやすく……何より妹思いで、誰よりも優しい、俺の知る葛城真梨香だ」
「妹……思い…………」
ゲームの中の真梨香は自分の恋の為に桃香を害そうとしたのに。
それでも、妹を思う気持ちがあった事、妹に幸せになって欲しいと思っていたことを、よりにもよって津南見に肯定されるなんて思わなかった。
「俺はお前が葛城真梨香以外の何ものにも見えたことはない」
そう言って笑う津南見は、ゲームの中の津南見よりもしっかりしていて、揺るがない強さを感じさせたけど、それでも私の目にも、彼は津南見柑治以外の何ものでもなかった。
「津南見先輩は……私の中に真梨香がいるって思ってくれてるんですか?」
「いる……というか、お前は、お前だと思っている」
そうか、私はボクでも良かったのか。
ずっと……私はボクを押しのけて、なり替わってしまったような気がして、ボクの頃の記憶を自分が持っている事や、父さんや母さんを自分の両親だと感じて違和感を感じないことに罪悪感すら抱いていたけど、元々同じ魂であったなら……ボクは……。
視界が滲む。
津南見がまた身を乗り出す気配を感じて、私は手を前に出して制止した。
「先輩、ハンカチ、持ってますよね?」
「俺のハンカチはお前が今尻に敷いてるが?」
「私のハンカチ、持ってるはずです」
さっきはうっかりしていたけれど、津南見は私がメッセージを書いたハンカチを持っていた筈だ。
「ばれたか。いや、さっきは本当に存在を忘れて咄嗟に手が動いたんだぞ」
「じゃあ今は?」
「お前に触れられるなら、無かったことにしておこうかと思った」
悪びれもせずに言う老獪な笑顔に手刀を叩きこんで、渡されたハンカチで涙を拭う。
なんだか、今の津南見は油断も隙も無い気がする。
「そうだな……お前に触れられないのは残念だが、これから先お前が泣いていたら、ハンカチを差し出すのは俺だけでありたい。その為なら予備のハンカチも常備しておこう」
「……そういうところですよ」
ハンカチで顔が隠れていて助かった。熱くなった頬を見られまいと俯きながら、深呼吸を繰り返す。
津南見の正直さに、自分も正直に応えるべきだ。
此処に来る前に、ずっと考えていた、私なりの結論。
「……先輩、むかしのボクだったら、きっと先輩のさっきの言葉、喜んだんだろうと思います。正直、今の私でも嬉しいと思ってしまいました」
誰かに依存して、幸せにしてほしいと願うだけだった過去の真梨香。
「でも、今のわたしには、誰よりも大切で、私が幸せにしたい相手がいます。そしてそれはもう、先輩じゃないんです」
葛城真梨香の唯一無二は津南見柑治だった。それは過去の事実。変えがたく、今でも自分の中の一部として大きな位置を占めるその感情は、今は少し形を変えてしまったけれど。
「私は桃香に誰よりも幸せになって欲しい。願わくば、私が桃香を幸せにする存在でありたいんです」
前世の記憶がよみがえる前も、前世を思い出した後も、変わることなく私を姉と慕ってくれる桃香を、守りたい。慈しみたい。全力で推していきたい。
「だから今は桃香以上に心を傾けられる存在は無いと思っています」
「……そうか」
すっきりした気分で宣言する私に、津南見は何故かひどく嬉しそうに笑った。
その日の帰り、なんとなくスマホを見ると、杏一郎からの通知が10件を超えていた。
「あ…………」
そういえば、帰りに行くって約束をしていたことを思い出した。
幸い家への帰り道から学園は近い。
走って裏門に辿りつき、守衛さんに昨日のうちに杏一郎から渡されていた休日の入場許可証を見せて校内に入る。
メッセージは午後を少し過ぎた頃に始まって、『大丈夫か?』『話は無事に終わりそうか?』『今何処にいる?』『迎えに行こうか?』など、過保護な父親のような状態になっていて、とても心配をかけてしまったのが伝わってくる。
急いで南館の階段を駆け上がりながら手早く『もうすぐ着きます』とだけ送った。
階段を上がっている間、何度かスマホが震えるのを感じたけれど、急いでいた私はそのまま理事長室があるフロアへと上がった。
それでも震えるスマホに視線を落としてメッセージを見たのと、正面のドアノブがガチャリと音を立てたのはほぼ同時だった。
『今は来るな』
『すぐに戻れ』
『暫く2階で隠れていろ』
「……え?!」
メッセージを見て驚きに顔を上げたとき、ドアが無情にも開いて私は杏一郎の警告の意味を知った。
「……葛城、真梨香?」
「うめ……か伯母様」
私を見て驚きに目を見開いていたのは杏一郎の母親で、私の伯母、そしてこの世の中で誰よりも私の事を恨み、憎んでいるであろう烏森梅香その人だった。