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息が切れそうになる。
もつれそうになる脚を叱咤し、全速力で廊下を駆け抜け、階段を駆け上がり、後ろを振り返る。
上手く振り切ったかに思えた刹那、階下を駆け上がってくる足音が聞こえ、身構えた。
このままでは追いつかれてしまう。
どうしたものかと考えていたら、目の前のドアが開いて、出てきたのはなんと杏一郎だった。
「きょっ……鵜飼先生?!」
まさかこんなところで出くわすとは思っていなかったので、思わず呼び間違えそうになる。
よく見ると杏一郎が出てきた部屋のドアの上には『理事長室』というプレートが付いていた。
どうやら逃げ回っているうちに南校舎まで来てしまっていたらしい。
「真梨香……? どうしてここに?」
杏一郎の驚きはもっともだと思う。南校舎の3階は職員室や目の前の理事長室のように教職員用の部屋が中心で、特に理事長室があるこの一画は学生は立ち入りが原則禁止されている。
「鵜飼先生……すみません……」
すぐに出ていきます、と言おうとして、階段の方から私を呼ぶ津南見の声が聞こえてきて立ち竦む。
夏期講座初日以来、私が津南見から逃げ回っていることは杏一郎も知っているようで、無表情ながら、眉間のしわが微かに深くなるのが見えた。
「真梨香、中に入っていろ」
手を引き寄せられたかと思うと、理事長室の中に押し込まれた。
理事長室の中は誰もおらず、杏一郎は理事の仕事が終わって、ちょうど出ていくところだったらしい。
杏一郎が部屋の外でドアを閉めたのと同時に、津南見が上がってきたらしく、声がドア越しに聞こえてきた。
「葛城、いい加減に……っ?! 鵜飼……先生?」
「三年の津南見柑治か。ここは学生は立ち入り禁止の筈だが?」
ドアの向こうで津南見と杏一郎が話す声が聞こえてくる。
杏一郎の声はいつにもまして抑揚が無く、冷たく突き放すような響きを持っている。此処からでは見えないが、声だけでもわかる。
これは相当に怒っている。
「っ……こちらに二年の葛城真梨香が来たはずです。見ませんでしたか?」
「さあ? ……まさかとは思うが葛城を校内で追い回していたのか? いったい何の用があってそこまでする必要がある?」
「先生には関係がありません。これは俺と葛城の問題です」
咎めるような杏一郎の口調に、津南見がムッとしたように言い返す。
「逃げられているということは二人の問題以前にお前の独りよがりではないのか? 葛城がお前から逃げているということは少なくとも葛城の方はお前との対話を望んでいないということだろう」
「葛城が俺から逃げている理由も含めて、俺たちは話をする必要がある。先生といえど、生徒のプライバシーにまで口を挟む権利はない筈です」
ドア越しに空気がピリついているのが伝わってくる。
津南見の苛立ちは私の所為だけれど、それにしたって、いつもなら教師相手にあそこまで反発するような物言いをするタイプじゃない。対する杏一郎も、不愛想ではあるが生徒に対しては穏やかな態度を貫いていたのに、らしくなく刺々しい声音になっている。
気にはなるが、ドアが閉まっていて、私は隠れている身である以上、隙間を開けて覗けばたちまち津南見に見つかってしまうだろう。
私にできるのは重厚なドアに耳を貼り付けて彼らの会話を盗み聞きすることだけだった。それすらも、このドアが分厚いせいで時々上手く聞き取れない。
「権利……か。これは例えばの話だが、もし俺が葛城のプライベートにも深くかかわる立場の人間だったとしたら、口を出す権利を持っているとしたら、お前は大人しく引き下がるのか?」
ドアの厚みに阻まれて、杏一郎が津南見になんて言っているのかよく聞こえなかったが、続く津南見の声は、こちら側に向かって発せられている所為か、不自然なほどはっきりと聞こえた。
「愚問です。例えどんな邪魔が入ろうと、俺はあいつを諦めたりしない。大切なものから目を逸らして失うのはもうごめんだ」
鼓動が跳ねる。頬が熱くなるのが自分でもわかった。
津南見柑治が葛城真梨香にこれほどの執着を見せる理由はわからない。
ただ、もし私が前世のことなんて思い出さずに、『ボク』のままだったなら、きっとこれを喜ばしく思ったのだろう。
ゲームの中の真梨香は、津南見に一番に望まれたいとずっとずっと思っていたのだから。
『ボク』が、彼を一番に望んでいたように。
そんな事を考えていたら、ふと、別の人間の事が脳裏に浮かんだ。
『私』でも『ボク』でも関係なく、ただひたすらに葛城真梨香を慕ってくれる人。
「『話し合う必要がある』……か。確かに、逃げてばかりもいられない、よなぁ」
今の私が一番に望むものの為にも、決着をつけなくちゃいけない。
「……今日のところは失礼します。……鵜飼先生、もし葛城に会ったら、伝えてください『明日、俺たちが初めて会った場所で待っている』と」
明日は夏期講座は休みになっている。初めて会った、というのはあの遊園地のお化け屋敷のことだろうか。
おそらく津南見は杏一郎が私を匿っていることに気付いているのだろう。
伝言の部分だけ、やたらと声を張っていて、ドアに耳をつけていなくても室内にまで響き渡るような大声だった。
しばらくして津南見が立ち去ったらしく、杏一郎がドアを開けて部屋の中に入ってきた。
「……聞こえていたか? 何があったかは知らないが、行きたくないのなら、改めて俺から……」
「鵜飼先生、匿っていただいてありがとうございました。……大丈夫です。これは、私自身の問題ですから」
杏一郎の言葉に一瞬決意がぐらついたけれど、いくら従兄とはいえ、これ以上彼に迷惑をかけるわけにはいかない。
そう思って見上げると、無表情なままなのに、しょげかえった様子の顔が目に入った。
「あ、あの! 別に鵜飼先生が頼りにならないとかそういうわけじゃなくってですね! やっぱり逃げるばっかりは私らしくないっていうか、ちゃんと戦わないと埒があかないって気づいたっていうかですね……」
あたふたと言い訳を重ねていく。
どうにも杏一郎のこのしょんぼり顔(無表情だけど!)には弱いのだ。多分それは、父さんが落ち込んだときに似てるからかもしれない。
顔立ちが似ている訳じゃないし、父さんは表情筋は柔軟過ぎるくらい表情豊かな人だったから見た目には似ていないんだけど、醸し出す空気感とか、犬耳っぽい幻覚が見える雰囲気が似ている。
流石に叔父と甥なだけはあると思う。
「きょういちろう」
「え?」
「二人の時はそう呼ぶ約束だっただろう」
「えっと……それは……」
たしかにそんな約束したこともあったけど、校内では他の生徒や教師の目もあるし、校外で会うのは断っていたから実際に履行されたことがない口先だけの約束だった筈なんだけど……。
困惑しつつも、確かにこの場には誰もいないし、落ち込んでいるらしい杏一郎がそれで少しでも元気になるんだったら、一回くらいは呼んでも、と思っていたら、両手を掴まれ、大きな手の中に包み込まれた。
「呼び捨てが嫌なら、くん付けでもいい。名前が長くて煩わしければ省略してくれて構わない」
「い、いやいやいや、ハードルどんどん上げないでください。あだ名にくん付けとか子供じゃ……あるまい……し?」
今一瞬何か思い出しかけたような……。
考え込んだのもつかの間、杏一郎が懇願するように目の前に膝をついて見上げてきたのだ。
完全に撫でられ待ちの大型犬を思わせる姿勢に、年上の人間であることを忘れそうになる。
「烏森でも、鵜飼でもない、ただの杏一郎として、俺はお前の助けになりたい」
「う……そんな大げさな……」
「大げさなんかじゃない。お前は大事な従妹だ。お前が困っているというなら、万難を排してお前を守る」
「きょっ……杏一郎さんに守ってもらう必要は、ない!……です。あの、本当に、大丈夫なんで……手を……」
「真梨香……?」
「手を離してください! あと、あんまり見ないで!」
力の緩んだ手から自分の手を引き抜くと、真っ赤になっているであろう顔を両腕で隠す。
例え恋愛対象外でも、イケメンから間近で見上げられるのは恥ずかしいし、緊張する。
これは男性に免疫が無いせいで起きる過剰反応だと自分に言い聞かせつつ、杏一郎からそっと距離を取って深呼吸をした。
杏一郎に背中を向けて気持ちを落ち着かせる。
耳まで熱いから、顔が赤くなっていることはバレバレだろうけど、杏一郎は大人だからか、その件を突っ込んでくることはなかった。
「とにかく、津南見先輩とは自分で決着をつけてきますので、うかっ……杏一郎さんは此処で大人しく待っててください!」
照れ隠しに早口でまくしたてたのがいけなかったのか、言ってしまってから言葉の意味に気付いた時には遅かった。
「此処で……そうだな。明日、ここで待っているから、終わったら必ず来い。約束だ」
嬉しそうな無表情で約束だぞ、と念を押すその顔に、在りし日の父さんの微笑みによる圧を思い出してしまったのは、気のせいだと思いたい。
次回、津南位と対決?!(真梨香が)