過去編 真梨香 1年の春 2
入学式、オリエンテーリングを経て、私は当初の予定通り、生徒会執行部に志願し、無事推薦を受けることができた。
今日は生徒会役員と執行部の初顔合わせである。
毎年桜花学園の生徒会執行部員の春の志願者は多い。しかし約半数が3か月で脱落する。各生徒会行事で先頭に立ち華々しい活躍をする役員に対し、執行部員の仕事はあくまでも裏方、雑用係だ。美男美女ぞろいの役員目当てで志願した者も、その仕事の過酷さと、お目当ての役員とそれほどは縮まらない距離に失望して辞めていく。その為、執行部員は季節が進み、行事が盛大になる時期ほど人手が不足するのだそうだ。
「葛城さん、今日の生徒会執行部の顔合わせですが、生徒会室では手狭なので、南校舎の中会議室Aで行います。場所が分からなければご案内しますけど」
「あ、初日に南校舎の場所は確認してあるので大丈夫です。篠谷君は今日は日直ですよね。少し遅れるかもしれないと伝えておきますね」
中等部で生徒会役員を歴任し、今期の生徒会でも会計職に就いている篠谷が胡散臭い笑顔で道案内を申し出てきたので丁重にお断りして一人で南校舎へ向かう。手には菅原棗の描きこみ入りパンフ。現生徒会長さまは南校舎から図書館への近道だけでなく、本校舎と南校舎の最短経路も描きこんでくれていた。非常に助かる。
先日は入り口だけ拝んで中には入らなかった南校舎に足を踏み入れ、入り口の案内を確認してから3階にある中会議室へ向かう。Aというプレートの付いた扉の前まで来たのだが、開かない。鍵がかかっているようだ。はて、篠谷は確かにここだと言っていたはずなんだが…。
首をかしげていると、階段を上がってきた女生徒に声をかけられた。その声の主に私は心当たりがあった。
「あら? あなたもしかして執行部志願者? 早いのね。今から準備するところなのよ」
落ち着いた柔らかな声音にふさわしい、おっとりとした雰囲気の美人、生徒会の役員、この時は副会長で来年監査委員長に就任する事になる、五葉松亜紀先輩だ。一応、菅原棗ルートのライバル役なのだが、ゲーム中で桃香の推理のアドバイザーになってくれたり、桃香と共に誘拐された時など桃香を庇おうとしてくれたりする、優しい先輩だった。
柔らかなダークブラウンの髪を右サイドで一つの緩い三つ編みにしてシュシュでまとめている。仕事で目を使うときなどは眼鏡をかけることもあるが普段は裸眼だ。
「はい、1年D組の葛城真梨香です。これからよろしくお願いします。あと、同じクラスで会計の篠谷君ですが、今日は日直なので少し遅れるかもしれません」
学生でも社会人でもまずは最初の挨拶が大事だ。私は先輩の方へ向き直って居住まいを正すと自己紹介をし、頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いね。2年B組の五葉松亜紀よ。生徒会では副会長を務めてます…って、もう知っているわね」
「はい」
「生徒会執行部の仕事は結構大変だけど、やりがいもあると思うから、よろしくね」
五葉松先輩はそう言って会議室の鍵を開けると中へ入れてくれた。
「全員が集まるまで少しかかるとおもうから、好きな席で待っててもらえるかしら?」
「いえ、準備するんですよね。お手伝いします」
「そう? 助かるわ」
私は先輩の指示に従い、会議室の空気を入れ替え、志願者に配る資料のコピーを取りに行ったり、配布するようにホッチキスで止めたりといった作業を行っていると、菅原棗生徒会長が来た。私たち二人が談笑しながら作業しているのを見て目を丸くしている。
「たしかお前は…入学式の日に校内探検していた1年生だな。執行部に入ってくれるのか?」
「はい、1年D組、葛城真梨香です。よろしくお願いします」
会長にも五葉松先輩と同じように挨拶する。そこへ少し遅れて、生徒会役員の残りの二人がやってきた。
「すみません、遅くなりましたわ」
「ちょっと用事を済ませてきました」
栗色の髪を緩い巻き髪にセットして、ハーフアップにした美少女が篠谷と一緒に少し息を切らせてドアから飛び込んできた。ぱっちりとした目は大きく、長いまつげに縁どられ、整った鼻梁と桜色の唇。薔薇色の頬は走ってきたことで赤みが増し、艶めいて見える。
生徒会書記、沢渡花梨。初等科から桜花学園に通う生粋のお嬢様。篠谷の幼馴染で、桃香の恋のライバル役の少女。
五葉松先輩と違うのは、篠谷ルートで彼女は桃香に嫉妬するあまり、桃香の殺害を企てる、というシナリオになっているところだ。桃香を守るため、篠谷ルートは絶対に避けたい理由の一つが、この少女の存在だ。
他のライバル役の少女たちは桃香が桜花学園に入学してきて、攻略キャラと接触するようになって初めて桃香に嫉妬するようになるのだが、篠谷ルートは桃香が5歳の時に篠谷と出会い、篠谷は桃香に初めての恋をする。
それ以来再会までずっと桃香を想い続けている篠谷に、ずっと片想いしていた沢渡は桃香と出会うよりもずっと前から嫉妬の念に苛まれてきたことになる。ひょっとすると既に桃香への敵意に芽生えているかもしれない。
「あら、あなたは…?」
「花梨、こちらは1年D組の葛城真梨香さん。執行部志願者としてさっそく手伝ってくれてるのよ」
「葛城…真梨香…?」
沢渡花梨の眼が何かを窺うように私に注がれたのち、篠谷の方に向いた。篠谷が、その視線を受けて思い出したように口を開く。
「そういえば花梨には話してましたっけ?昔池で溺れた僕を助けてくれた女の子ですよ」
すごく改竄されてますけど?! そもそも溺れる原因作ったの私なんだけど??!! 思わず口を挟もうとしたら、なぜか篠谷に視線で黙らされた。
「やっぱり…。初めまして、わたくし沢渡花梨と申します。侑李から聞いていた通り、凛々しい方でいらっしゃるのね」
笑顔で挨拶されたが、まず篠谷から聞いたという内容が普段のあいつの私への態度と一致しない。誰の話をされていたのかと問いただしたいが、今はとりあえず、挨拶だ。
「こちらこそ初めまして。葛城真梨香です。これから生徒会執行部員として頑張りますのでよろしくお願いします」
篠谷とは後で話をしよう。とりあえずは今日の顔合わせの準備手伝いに戻る。資料のホッチキス止めを再開しながら、沢渡の様子を窺う。先ほどの様子からは葛城という名前に対しての敵意は感じなかった。私が桃香じゃないから気にしていないだけかもしれないが、ひょっとしたら、篠谷との出会いイベントを邪魔したことで、篠谷の中で、桃香の存在が彼女を嫉妬させるほど大きくはなっていないという可能性もある。
来年、桃香が入学するまでに篠谷の桃香への想いがどの程度かも確認しておいた方がいいな。でも変に突いてやけぼっくいに何たらとかになっても嫌だしな…。
考えながら手を動かしているうちに資料を全員分まとめ終わった。私以外の執行部員志願者も続々と集まってきていたので、学年とクラス順で席に着くと顔合わせと説明会が始まった。
「ねえ、君確か特待生だよね?」
資料に目を通しながら菅原会長の説明に耳を傾けていると、隣の席の男子生徒に声をかけられた。説明会なんだから説明聞けよ。そう思いつつ視線だけそちらに流す。
これと言って特徴とか個性のないひょろりと痩せたその男子生徒は値踏みするような視線で私の頭から足もとまで見つめると、口の端に笑みを浮かべた。
「生徒会執行部に所属なんかして成績が落ちたら、学費を出してくれている理事会に申し訳なくなっちゃうんじゃないかい? 君のような子の仕事は生徒会運営に関わることじゃなくて、我が校の名誉のために勉強だけしていることだと思うよ」
彼の言うとおり、私は桜花学園の偏差値を底上げするだけの偏差値で以て学園からの学費その他の免除および奨学金の援助を受けている。仮に成績を著しく落とすようなことがあれば、確かに学園への背信行為かもしれない。
仮にも成績が上位30番以下に落ちるような事態になれば、の話だが。
「ご心配ありがとう。でもそんなのは杞憂だと申し上げておくわ。そんなことより説明を聞くことに集中したら? その細腕じゃ力仕事に期待はできないのだからせめて言われた指示を最低限理解できる程度の脳がないと持たないのはあなたの方よ」
「な!? なんだとこの庶民風情が!!」
思わず声を荒げた男子生徒に会長の説明が中断する。五葉松先輩の厳しい声が飛んだ。
「そこの君、説明を聞いていたの?! 聞く気がないのなら出て行ってくれても構わないわよ。」
「ち、違います、今のはこの女が邪魔をしたんです! 話を聞いていなかったのはこの女の方で…。」
「今、菅原会長は年間行事の中でも特に使用頻度の多い講堂の設備と使用可能機材、備品倉庫棟へ機材を取りに向かうときの注意事項について説明をしていて、彼が声を荒げた瞬間は倉庫棟の鍵の管理について話しておられました。」
聖徳太子とはいかなくても、2つの話くらいなら聞き分けは可能だ。特にどちらが重要な話か分かり切っているときは重要な方にだけ集中していればいいのだから。
しれっと会長の説明を聞いていたことを証明すると、男子生徒の顔が屈辱に歪む。
「1年A組、橡圭介くん、内部生でも外部生でも、特待生であっても我が桜花学園の一生徒であり、共に切磋琢磨し、協力し合う同輩ですのよ。不用意に貶める発言をするものではありませんわ」
凛とした態度で男子生徒を窘めたのは意外なことに沢渡花梨だった。ゲーム中での彼女はどちらかというとこの橡というエスカレーター組に近い思想や言動だった筈なんだけど…。
困惑する私をよそに、説明会は再開され、今度は橡という男子生徒もよそ見をすることなく説明を聞き始めている。私も説明を聞きながら、沢渡の方を見ると、彼女と目が合った。さっきは一応助けられたことになるのでぺこっと軽く頭を下げると、気にしないでというように微笑みかけられた。
うーん…。どうも私の記憶の沢渡花梨と少し違っているな…。それともあれは桃香が恋敵だったからこその態度だったのか?
釈然としない思いを抱えたまま、説明会と顔合わせは無事終了。1年生の執行部員は本格的に行事の手伝いに入るのは新入生歓迎パーティーが終わって次の行事かららしい。それまでは2年生の生徒会長と副会長、補佐として3年生の風紀委員長と監査委員長、執行部員が主力となって活動する。
解散を告げられ、配られた資料を持って席を立つ。隣の橡とやらが去り際に「あんまりいい気になるなよ!」と捨て台詞を残していったが、そもそもいい気になどなっていないので、あんまりと言われてもな。
とりあえずは篠谷を捕まえよう。あいつ過去のエピソードを改竄して人に話すとかどういう了見だ。
会議室前方で集まって話している役員メンバーに近付く。
「お話し中のところすいません、篠谷君、ちょっといいですか?」
にっこりと笑顔で声をかけると、篠谷も予測していたのか、輝くような胡散臭い笑顔を向けてくる。
「はい、少ししたら行きますので、校舎入口で待っていてもらえますか?」
言われた通り、南校舎入口で待っていると、篠谷が来るより先に、橡が数人の男子生徒と連れ立って通りがかり、私を見て顔を歪めた。
「こんなところで何をしてる? 特待生らしく急いで家に帰ってお勉強したらどうだ?」
「篠谷君を待っているだけです」
「篠谷? そうかお前庶民の癖に桜花学園に入り込んできたのは玉の輿狙いか。それにしても随分と高望みしたもんだな。篠谷の家は桜花の中でもトップクラスの家柄だ。お前のような庶民は足を踏み入れることすら許されるものじゃないぞ」
何を勘違いしたのか下卑た笑みを浮かべる橡はキイキイと小うるさく吠えた。最初に声をかけてきた時とは言葉遣いも変わっている。おそらくこっちが素なのだろう。
言ってる内容は相手をするのも馬鹿馬鹿しい下世話な妄想だ。私は無視を決め込むことにした。すると反応を返さない私に苛立ったのか、益々声を高くして絡んできた。
「ふん! 黙っているってことは図星なんだろう。生徒会入りもそれが目当てか。卑しい身分の女はこれだから困る。俺たちのような高貴な家柄の人間は分相応の相手としか付き合わないものなんだよ」
……さりげなく自分も狙われてるみたいに言うな。正直面倒くさいけど、イラっときた。私は軽く溜息をつくと、橡に向かって口角を上げ、微笑みかけてやる。
「なるほど、分をわきまえる、良いことだと思います」
「ん? あ、ああ。そうだろうそうだろう。わかったらとっとと…」
「で? 橡君はいつ分をわきまえて私の前から消えてくれるんですか?」
そもそも人付き合いの対象に値しないというなら、関わり合いにならなければいいのに、わざわざ絡んでくるなんて、とんだ暇人もいたもんだ。そんなに暇なら私も篠谷を待つ間の暇つぶしくらいは付き合ってあげようじゃないか。
「橡君の仰る通り、私と橡君では格が違うように思います。私としても分不相応の相手に無遠慮に絡まれるのは好ましくないのでお引き取り願いたいんですけど?」
ニコニコ笑って小首を傾げて見せると、一瞬頬を紅潮させてひるんだが、すぐに私の言葉が橡自身の言葉とは逆に彼を馬鹿にしていると気付いたのか怒りの形相になった。
「自分の方が格が上だとでも言いたいのか?! 学力特待生だか何だか知らんが、所詮学年上位30位以内に滑り込んだだけだろう! 俺は中等部でも学年8位だったんだ!お前みたいな庶民がちょっと足掻いたところで俺の足元にも及ばないと知るがいい!!」
中等部で学年5位か~。中々だなあとは思うけど、もうちょっと彼は現実を見た方がいいなあ。エスカレーター式の桜花学園内部進学において、初等部から中等部、中等部から高等部は進学テストはあるが、そのレベルは高くはない。対して、高等部の外部受験は学園全体の偏差値を底上げする目的で難易度が設定されているので、ちょっとしたトップクラスの進学校並の学力を要する。そして、その中でも特待生として奨学金まで与えられるという事がどういうことなのか、ちょっと考えればわかりそうなものだけど。
「……彼女は外部入試の成績は総合の次席ですよ」
私が言い返すより先に、いつの間に来たのか篠谷がブリザードスマイルを背負って口を挟んできた。あれ? なんで怒ってるんだろう?
「学力で言えば現在の高等部1年生の中でも3位以内には入るでしょうね。足元にも及ばないのはどちらか、考えた方がいいですよ」
しかも笑いながらブリザード振りまきつつ、こっちを睨むとかいう器用な真似はやめてほしい。会議の時といい、問題を起こしてるから怒ってるんだろうけど、私だって好きで絡まれている訳じゃない。文句ならそこで震えてる橡に言って欲しい。とりあえず、私は私で気になったところは指摘させてもらう。
「…受験の時の成績って学園側の守秘すべき情報じゃないんですかね?」
「入学式で入学生代表の挨拶を受験首席のものに任せるという案も出ていたので、順位を調べる必要がありまして」
「仕事上知った情報は生徒会役員の守秘義務に当たるんじゃないですか?」
「ああ、そういえばそうですね。つい。ですが、君たちも生徒会のメンバーには違いありません。今聞いたことを誰にも言わないと誓ってくれるでしょう?」
篠谷は語尾のところで橡の方へ視線を定めていたので、実質この脅し文句は彼へ向けてのものだった。橡はもう青褪めて、震えているんだか頷いてるんだかもよくわからない動きをしていた。ちょっと可哀想にも見えてくる。
「篠谷君、その位にして、場所を変えませんか?」
とりあえずもはや戦意は失われただろう橡は放置して、本来の目的に返る。篠谷が沢渡に嘘八百の思い出話をしているようだったので、内容を聞き出しておかないと心臓に悪い。篠谷も気は済んだのか、あっさり橡から視線を背け、こちらへ向き直った。
「そうですね。カフェテリアなどいかがです?」
そう言ってこちらに向けられた笑顔は、なぜか怒っているようにしか見えなかった。…やっぱ問い詰めるの止めようかな。
案内されたカフェテリアは、入学初日に剣道部女子主将の瓜生先輩と話した場所で、偶然席も同じだった。
そういえばここからの帰りに津南見と木通先輩のBLモドキを見させられたんだっけ…。ちょっと思い出に耽って天井などを眺めてしまったが、目の前の男がそれを許してくれなかった。
「まったく、どうしてああいった連中をまともに相手したりするんですか。あなたには危機感とか警戒心というものが欠けてはいませんか? 逆上して男子生徒数名で襲い掛かられたりしたらどうするつもりだったんですか。まったく」
せんせー、なんで私は今この粘着王子に意味不明の説教を喰らってるんでしょうかー? カフェテリアに入り、それぞれに飲み物を買い(篠谷が奢ると言ったが私が固辞した)、席について、私が本題を切り出すより先に始まった説教はかれこれ10分くらいになっている。いっそ本題放棄して帰りたい。
「聞いてるんですか?」
「はい。聞いてはいますけど、あそこで待つように言ったのは篠谷君で、私も別に好きこのんで相手をしていたわけでは…」
「わざわざ怒らせるように話の流れをもっていかないでくださいと言っているんです」
怒らせるつもりは…まあ、あったけど。
逆上したところであのモヤシ君と似たり寄ったりの取り巻き君たちじゃあ私の敵じゃない。そういったところで何となく火に油を注ぎそうだったので黙っておく。しばらく大人しく聞いていたら、やっと篠谷の気が済んだのか、一息ついて、冷めてしまった紅茶を口に運び始めた。
それを見て私はやっと本題に入ることができた。
「で? 篠谷君、私が聞きたいこと分かってると思うけど、沢渡さんに私と昔会った時のこと、どんなおとぎ話に仕立てたのかしら?」
「…おおむね事実とは異なっていませんよ。あなたが僕を池から助けてくれたことは事実でしょう? 突き落したのもあなただという事と、池の深さが溺れるほどではなかったという事くらいしか隠していません」
どっちかっていうとそっちの方が重大事件じゃないか? でもそれを知られてたら知られてたであのお姫様に篠谷をいじめる極悪人みたいに思われてたかもしれないので、その点は感謝すべきかも。
「……私が篠谷君を池に突き落としたそもそもの原因については? …その、旅行先で会って一緒に遊んでいたこととか…」
「突き落されたという事実を話していないのに話したりしませんよ」
篠谷の前で桃香の名前を出すのがためらわれて、婉曲に尋ねれば、気の抜ける返事が返ってきた。桃香のことはあのお姫様には話してない、ということは今のところ彼女は桃香の敵にならない可能性が高いという事になる。
思わず安堵の溜息が零れる。
「……そういえば、あなたの妹さん、僕のこと覚えてますかね」
私の様子に何を思ったのか、篠谷がそんなことを口に出し始める。桃香はあの時の事を覚えてないと告げるべきか、黙っておくか、ちょっと悩む。覚えてないと知らされ、今からでも思い出させようとかやる気になられても困る。思い出に残るような写真や品物も桃香の手元にはないので覚えていたとしても篠谷の顔や名前までは覚えてないだろうとは思うんだけど…。
「お姉さんと違って心優しい方ですから、忘れてはないと思うんですけど。なんせお姉さんの方は素知らぬふりで『初めまして』だなんて随分と薄情なことをおっしゃってましたしねえ。本当、あの一言で僕の繊細な心がどれほど傷ついたか、葛城さんはもうちょっと思いやってくださっても罰は当たらないと思いますよ?」
「…うちの妹は確かに誰より心優しい天使のごとき存在ですので、金髪の悪魔の事は記憶から抹消してあげるのがあの子の精神衛生上の為じゃないかなって今、思いました」
「……なるほど。葛城さんは本当に相手を怒らせるのがお上手です。まあ、僕は寛大なので怒りませんけれど。でも先ほどのような厄介ごとになってはいけませんからね。少し言葉選びについてご教授いたしましょうか」
またうっかり粘着王子のスイッチを入れてしまった私はお説教モードの篠谷相手に笑顔で口答えするという無限ループへと突入した。
……絶対にこいつに桃香関連の情報を与えるのはやめよう。桃香にも絶対こいつの事を思い出させないようにしよう。
カフェテリアの一角で凍り付くような笑顔同士で皮肉の応酬を演じながらそう決意したのだった。
「侑李、こんなところにいましたの? 今週末の新入生歓迎パーティーですけど…って、あら…? お邪魔でしたかしら?」
周囲でお茶を飲んでいた生徒が怯えて立ち去り、そろそろ営業妨害になるんじゃないかと思い始めたころ、沢渡花梨が現れた。正直ちょっと疲れてきた頃だったので、彼女が天使に見えたとしても私の眼は正常範囲だと思う。
「沢渡さんっ! いいところへ来てくださいました。篠谷君が小姑のように口うるさくて仕方ないので回収していってください!」
「え?! えっと…??」
「花梨、葛城さんのいう事は気にしなくて構いません。それよりどうかしましたか?」
沢渡が現れた途端、粘着王子モードから通常スマイルに戻った篠谷は彼女が持ってきた資料を受け取ると目を通す。新歓パーティーか…。結局制服で出るとは決めたものの、何が起こるかわかんないからな…。そんなことを考えながら、見た目には素晴らしく目の保養な役員二人を眺めていると、資料を見ていた彼らが揃ってこちらを見た。
「これは…」
「困りましたわね…」
え? 何? 何かよく分からないけど嫌な予感がするぞ??
「…葛城さん、これは本来明日貼り出される予定の新入生歓迎パーティーの1年生のペアの表なんですけど…」
あ、何となく察した。見たくないなーと思いつつ、差し出された表を見る。二度見しても三度見しても、私のペアの相手の名前は橡圭介と書かれている。クラス混合の総合名簿順ってもっと間にいなかったの? 木村とか加藤とか。普通いるでしょ。なんで『か』から『く』に飛んじゃうのよ。
ちなみに篠谷は沢渡とペアだ。もういっそ本当にカップルになって桃香とかかわらない世界でいちゃついてくれたらいいのに。ああもう、ついてない。桃香が同学年だったら名簿順でペアになれるのに。…今思うとだいぶ混乱した思考に陥っていたのだと思う。無言で名簿を睨みつける私に、沢渡が恐る恐る声をかけてくる。
「本来は原則名簿順は崩せないのですけれど、あんなことがあった後ですし、葛城さんのペアは調整人数のグループに入れて再編した方がよろしいかと思うのですけれどいかがでしょう?」
「調整って…?」
「毎年、1年生の内部生の中には上級生にペアを組む相手がいて、名簿順での相手の方があぶれてしまうことがあるんです。既にペア申請があってあぶれた人たちの調整はしているんですけど、名簿順のペア発表後ギリギリに申請を持ってくる人も毎年少なからずいるので、人数調整用の余剰枠を少し設けてあるんです」
「あと、1年生だけだと男女比の問題もございますから、毎年ギリギリまで人数調整が必要なんですの。今回は葛城さん達をそちらのグループに組み入れて、別の方とペアにした方がよろしいかと思いますわ」
なるほど、お気遣いはすごく助かる。あの橡とパーティーの間中一緒にいて、殴らずにいられる自信はちょっとない。
それにしても、沢渡のキャラがゲームと違いすぎて戸惑う。話し方や見た目はゲーム通りなのだが、ゲーム中での高慢な態度や選民思想、意地の悪い言動が一切ない。桃香の事も篠谷との間で話題になっていないようだし、こうして見ると普通のお嬢様だ。
「お気遣いはすごくありがたいのですが、いいんですか? そんなことして」
「組ませれば問題を起こすとわかっているペアをそのままにはできませんよ。花梨、棗会長には僕からお話ししておきます。リストの再編成はお願いできますか?」
「はい。お任せくださいませ」
そう言ってにっこりと笑って承諾した沢渡が私へも笑顔で挨拶して去っていく。美少女で性格も矯正されちゃうとただの天使だわ。桃香がいなかったらうっかり『私の嫁』って呼びそう。
「……葛城さん、何か不穏な視線を花梨に送るの止めてもらえますか」
なぜばれたし。可愛い女の子を眺めるのは個人の自由なので放っておいていただきたい。
「…可愛いなって思っただけですよ。篠谷君ともお似合いじゃないですか」
「花梨は幼馴染ですよ」
「名前で呼び合ってますよね」
「生徒会役員はほぼ初等部からの付き合いですからね。会長たちも僕らの事を呼び捨てにしていたでしょう?」
そういえばそうだったな。つまり現生徒会役員は全員初等科からずっと児童会とか生徒会で役員だったわけか。
…篠谷は可愛くてハイスペックで、なぜか性格までよくなっちゃったあのお嬢様とずっと一緒で本当に何も思わなかったのかな。いくら桃香が初恋でも、いつ会えるともわからない、約束もしていない少女の事をいつまでも想い続けられるものだろうか。身近で、一途に自分を慕ってくれる存在に心動かされはしないのだろうか。
そんなことを考え、思わず篠谷の顔をまじまじと見つめてしまう。日本人離れしたモデル体型の篠谷は私よりも頭一つ分背が高い。何故かその顔がパッと赤くなったように見え、首が折れそうな勢いでそっぽを向かれた。
嫌がりすぎだろ。悪かったよ。もうじろじろ見たりしないよ。用事も済んだし、帰ろうかな、と鞄を持ち直していたら、篠谷がなにかぼそっと言うのが聞こえた。
「…ましょうか?」
「え? 何か言いました?」
「羨ましいのでしたら今度から『真梨香』とお呼びしましょうか?」
なぜか屈まれた挙句耳元で囁かれた。少しかすれたような低くて柔らかな声音に背筋がゾクッとする。攻略キャラの篠谷侑李は好きじゃなかったけど、中の声優さんは割と好きな人だったことを思い出した。その人と同じ美声で過剰に色気を乗せて耳元で囁くとか、何てことしやがるのだ。
カッと熱くなった耳を抑えて篠谷から距離を取る。篠谷がしてやったりというような満面の笑みを浮かべている。畜生ドヤ顔はたき倒したい。
「羨ましくないので絶対に呼ばないでください!! 名前で呼んだら返事はしませんから!!!」
「おや、残念。仕方がないので今のところは葛城さんとお呼びしますね」
「今のところも先のところもありません! 絶対に!! 断固!!! 苗字にさん付け以外で呼んだら無視しますから!!!!」
ああもう、なんだか何を言っても負け犬の遠吠えみたいになってる。篠谷のニヤニヤ顔が死ぬほど腹立たしい。
「まあ、そういわずに。葛城さんも僕の事を侑李と呼んでくださって構いませんよ。昔一緒に遊んだときは『ユウ君』なんて呼んでくれていたじゃないですか」
記憶が蘇る直前までは確かに桃香と3人仲良く遊んでいた。そんな呼び方もしていた気もする。けれど、それはそれ、これはこれだ。今の私はいろんな意味であの頃の私じゃないのだ。
ひとまず呼吸を整えて、冷静さを取り戻す。このまま帰ったら何となく負けっぱなしで今日を終えてしまう。帰るにしても奴に一矢報いてからじゃないと。
さて、どうしてくれよう。篠谷のにやけ顔をしばし睨む。そうして、ふと思い出した。記憶が蘇る前の記憶。『私』じゃなかった頃の私から引き継いだ思い出。
「…『ユウ君は可愛くてお姫様みたいだから、私、騎士様の役やるね。』…って言われてましたっけねぇ。お似合いでしたよね。髪につけられたピンクの リ ボ ン 」
にま~っと笑ってリボンのところを強調しながら語って聞かせると、篠谷も思い出したのかさっと顔が青ざめた。もちろん彼をお姫様と言ったのは桃香である。初恋の女の子にお姫様扱いされていたなんて黒歴史、都合よく忘れていたんだろうけど、残念でした。
ちなみに桃香が騎士なら王子は誰かというと、私である。篠谷と会う前から、桃香は度々私を王子様役にして遊んでいたので、そこは譲れなかったらしい。できればお姫様役も譲らないでほしかった。桃香姫以外の王子になるつもりはなかったので、あの時は配役で揉めたなあ。
「…せっかくなので、万が一篠谷君が私の事を呼び捨てにしようものなら、その瞬間から篠谷君の事を『姫』って呼びますのでそのおつもりでいてくださいね」
にっこり宣言するとだいぶ溜飲も下がったので、今度こそ帰ることにする。
「それではごきげんよう。 し の や く ん 」
「…葛城さん、も…また明日…」
篠谷が若干悔しそうに私を今まで通りの呼び方で呼ぶ。その表情に私の方は上機嫌でカフェテリアを後にした。
1/19 ご指摘いただいた誤字を修正しました。ありがとうございます。