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新幹線を降りると、ムッとするような湿気と暑さに包まれた。
夏休みの自由席、急きょ切符を取って乗り込んだ車内は混んでいて、人の熱気でそれなりに暑かったのだが、それでも夏の野外よりは涼しかったのだと思い知らされる。
「あっつ……」
思わず手で扇ぎながらホームを降りると、駅構内は空調が効いているのか、少し涼しくなった。
キャリーを引きながら改札を抜けた時、目の前に意外な人物が待ち受けていた。
「真梨さん、おかえり」
「檎宇?!」
生成りの麻のシャツに濃いグレーのチノパン姿の小林檎宇がひらひらと手を振っていたのだ。
シンプルな服装なのに驚くほど絵になる。顔がいい上にモデル並みの高身長とスタイルの良さだ。道行く人、特に女子の視線が注がれまくっているが、本人は一切気にしていないらしい。
真っ直ぐこちらへ駆け寄ってくると、さっと私の手からキャリーの持ち手を取り上げる。
「どうしてここに?」
「桃ちゃんから連絡が来て、『具合が悪いのに電車で長時間揺られて余計に悪化してるかもしれないから、迎えに行って欲しい』ってさ。俺ってば信頼されてきてると思わない?」
「桃香が……」
風邪を引いたと嘘をついて帰ってきてしまった手前、申し訳ない気持ちがこみ上げる。
心配かけちゃったよね。決勝に影響していないといいけど……。
「でも思ってたより元気そうで良かった。真梨さんが桃ちゃんの応援放り出して帰ってくるなんて、よっぽどのことだと思ったから心配だったんだよ?」
少し屈むようにしてこちらの顔色を確認してくる檎宇に、まさか仮病でしたとは言いづらい。
「新幹線でずっと寝てたからかも。わざわざごめんなさいね」
「真梨さんが無事なら全然。俺としてはお迎えデートできてラッキーだし」
いつも通りのやり取りに、日常に戻ってきたと実感する。
あの旅先での出来事や、夢で見た光景が遠ざかったような気がして、ほんの少し気持ちが軽くなった。
「でも迎えだなんて大袈裟ね。ちょっと気分が悪くなって応援どころじゃなくなったけど、見てのとおりもう大丈夫よ」
素直に気分が軽くなったというのは気恥ずかしくて、そう言うと、檎宇は眉間にしわを寄せ、首をかしげてみせた。
「いや、真梨さんが桃ちゃんの応援放り出して帰ってくるって充分異常事態でしょ。見た感じ熱はなさそうだけど、外にうちの車待たせてるから家まで送るよ。ちなみに拒否ったら、今すぐ桃ちゃんに通報するから」
桃香の名前を出されると断れないのを承知で言ってるな。
的確な脅し文句に、ぐぬぬと唸ってしまうが、この場で逃げて桃香に知らされたら、返ってきた桃香に怒られるのは必定。
檎宇の言うとおりにする以外の選択肢は残されていなかった。
駅ビルの地下駐車場に行くと、黒塗りのいかにもな車が待ち受けていた。
「車って……これ?」
思わず半眼になる。
こんな車で家の前まで乗りつけられたらご近所でどんな噂が立てられるか分かったものではない。
「今普通っぽいやつ出払ってて、これしかなかったんだよ。家の前まではいかない、近所で降りて一緒に歩いて送るからさ」
申し訳なさそうに眉尻を下げる檎宇。
確かに桃香からの連絡で急遽迎えに来てくれたんだし、好意を無碍にするのは忍びない。
「そうね……ありがとう」
近所まででもこの暑さの中車で送ってもらえるのはありがたい事だ。素直にお礼を言う。
運転席から降りてきたスーツのお兄さんがキャリーをトランクへと運んでくれた。
檎宇程ではないが背が高く、がっちりとした体格、顔は強面というほどではないが、眼光は鋭く、堅気には見えない。
「ありがとうございます、お手数をおかけします」
内心恐々ではあったが、運んでもらっておいて礼を言わないのは信条に反するので、声が震え無いよう気合を入れて、お礼を言い、頭を下げる。
すると、いかつく見えていた顔がふにゃりと緩んだ。
目じりと眉尻を下げ、微笑む姿は、菩薩を彷彿とさせる。
「いえいえ、坊の大事なお嬢さんとあらば、これくらいお安い御用です」
言葉遣いも柔らかく、印象が百八十度変わってしまう勢いだ。
これがギャップ萌えという奴だろうか。大人相手に失礼だが、可愛らしいと思ってしまった。
「じゃあ真梨さん乗って、俺隣ね」
後部座席に乗り込むと、隣に檎宇が乗り込んでくる。車内は広くゆったりとしていて、空調も効いていた。
「何か飲む?」
「いえ、大丈夫よ。あ、でも檎宇はちゃんと飲みなさい。新幹線到着が少し遅れたから、改札前でずっと待ってたんでしょう?」
熱中症って怖いし。
そういうと檎宇は素直にスポーツドリンクをクーラーボックスから取り出して飲み始めた。
「……で? 何があったわけ?」
車が走り出して暫くして、檎宇が切り出した。
聞かれるだろうな、とは覚悟していたので取り乱さずには済んだ。
そもそも檎宇が駅に現れた時点で仮病は見抜かれていただろう。
運転席がちょっと気になったが、流石の黒塗り外車、運転席と後部座席の間は完全に仕切られていて会話が聞こえない仕様になっている。
「さっきも言ったけど、真梨さんが桃ちゃんの応援放り出すなんて、異常事態でしょ。…………あのお侍先輩と何かあった?」
檎宇の声は穏やかだったけれど、誤魔化すことを許さないような圧を感じた。
ただ、何から説明すればいいのか分からない。
ゲームの事も、前世の話も聞いてくれた檎宇になら話しても問題はないのかもしれないけれど、それ以上に私自身の心の整理がまだついていないのだ。
「……真梨香の、夢を見たの」
「真梨さんの?」
「ううん、私じゃなくって……ゲームの中の、葛城真梨香」
我ながらややこしいな。
「津南見と幼馴染として一緒に剣道のけいこに励んだり、桃香と津南見の距離が縮んでいくのを見守る夢」
「真梨さん、それって……」
「ゲームをプレイしてるときは基本的に桃香の視点で話が進むのに、夢の中では真梨香の視点で、ゲームでも描かれていなかった部分とか、シーンが出てくるの。まるで『お前の本来歩むべきシナリオはこうだった』って言われてるみたいで……」
今の『私』になった時に消えたと思っていた『ボク』が実はまだ生きていて、元々の自分に引き戻そうとしているんじゃないかって、不安になった。
気づくはずのない津南見の怪我に一目で気づいてしまった時、近すぎる距離感を当たり前のように受け入れそうになっていた時、自分の中に『真梨香』を感じた。
「それで、怖くなったの。もし私が私じゃなくなって、あのゲームの中の葛城真梨香になってしまったら……。いずれ桃香を……」
「真梨さん……」
「おかしな話よね。津南見と私はもう幼馴染でもなんでもないし、積み重ねた時間なんて存在しなくなってるのに、今更軌道修正なんて、できるわけがないのに……」
「それってさ、真梨さん自身が、軌道修正したもしもの世界を望んでるからじゃない?」
「え……?」
低く絞り出すような声に驚いて隣を見上げたら、檎宇が眉根を寄せて険しい顔をしていた。
突然の剣呑な雰囲気に驚いて少し身を引く。
何か気に障ることを言っただろうか?
「もしあのお侍先輩と普通に出会って、男女の幼馴染として育って、今の真梨さんのまま成長してたらあいつだってアンタを男扱いはしなかった。そういう世界で、桃ちゃんよりも先にあいつと出会っていたかったっていう願望の現れなんじゃないの?」
「ちがっ……そんな訳ないでしょう!? 私は津南見のことなんか……嫌いだって前にも言ったわ」
カッとなって叫びそうになるのを途中で抑える。
冷静に、落ち着いて、そんな筈がないと宥めるように言葉を選ぶ。
「そうやって自分に言い聞かせてるように見える。……前も、そう思った」
続いた檎宇の言葉に頭を殴られたような衝撃を受けた。
言い聞かせている。それは自分自身少なからず感じてはいた。でもそうやって指摘されると否定せずにいられなくなる。
「真梨さんは、あのお侍先輩から距離を取ろうとしてる。前世の二の舞にならないようにって、でもそれはずっと、あの先輩がいない所でもあいつのこと意識してたって事なんじゃないの?」
「違う……」
「あいつに会わないために剣道の試合をさぼるくらいなら、最初から剣道じゃない別の武道でも良かった筈だ。けど剣道の道場に入って、中学でも剣道部に入って、あいつの活躍が聞こえてくる場所で、あいつの存在を感じながらあいつを避けて……それって他の誰よりもあいつのことを気にかけてたっていう風に見える」
「違うわッ!! そんなわけない!!」
剣道は、桃香がその道に進むきっかけになるために、そして桃香を守るために……。
「好きの反対は無関心、でも真梨さんのアイツに対するそれは全然無関心なんかじゃないよ。むしろ―――っ」
「やめてっ!!」
パンっと乾いた音が車内に響いた。
掌が熱い。痛い。
それ以上に、叩いてしまった檎宇の頬が赤くなっていくのが痛々しい。
「ごめんなさい……叩くつもりは……けど」
「俺の方こそごめん。追い詰めるような言い方した。あと、半分は嫉妬だ。あいつはやたら気にされてるのに、あんたは俺とこうして二人きりでも欠片も警戒してくれないからさ~」
最期の方は茶化すように笑って見せてくれたけど、そこからは家の近くの公園まで、互いに無言のまま、気まずい空気が車内を満たしていた。
公園の前で車を降りてからも、気まずい沈黙が続いている。
うだるような暑さの中、少し距離を開けて、並んで歩く。すぐに汗が滝のように吹き出してきた。
「暑っついな~」
「……そうね」
沈黙を破るように、檎宇が声を上げる。
気を使われてるなと感じるけれど、掻き乱された心はまだ落ち着いてはくれてなくって、そっけない返事を返してしまう。
頭の中ではさっき車の中で突きつけられた言葉がぐるぐると回っている。
津南見の事をずっと避けてきた。試合で会わないように、部活の大会で遭遇しないように、出会わないように、間違っても友達になんかならないように。
けれど、檎宇の言うとおり、避けようとすることでずっと津南見の存在が頭から離れなかった。もし出会ってしまったら、ゲームの真梨香のようになってしまったらと怯えていた。
結局、自分のあずかり知らないところで遭遇してしまったりしていたのだけれど。
学園に入学してからも、避けようとすればするほど、なぜか遭遇することが増えた。弱っているところ、恥ずかしいところ、人に見られたくない泣き顔まで見られて、その度にハンカチを差し出された。
まるで逃げても無駄だと言われているみたいで、今回の遠征はそれに追い打ちをかける出来事だった。
とりとめもないことを考えているうちに家の前に着いていたらしい。
「檎宇、今日は送ってくれてありがとう。それと……」
門に手をかけ、目を伏せたままお礼と謝罪をしようとしたとき、ふいに頭を引き寄せられた。汗ばんだシャツの胸元に頬が押しつけられる。
「……」
「檎宇……ちょっと、離して……」
暑い中抱きしめられると、余計に暑い。それに此処までの道で汗をかいた自分の匂いも気になる。ドキドキと耳に響く鼓動が相手のものなのか、自分のものなのかわからなくなりかけた時、唐突に身体が離された。
「ごめん、ちょっと名残惜しくなっちゃった。それじゃあ真梨さん、来週の水着、楽しみにしてるから」
いつもと変わらない調子でニヤッと笑って見せた檎宇に、今のは何だったのか問いただそうとした言葉が喉の奥に消える。
今はこの話を蒸し返さない方がいい。
私自身心の整理がついていないし、檎宇をそれに付き合わせるのは私の我儘だ。
一度冷静になって、一人で考えないといけない。
そう思って、私は檎宇に向かって笑いかけた。
「そうね、また来週」
そう言って手を振る。
玄関に入ってドアを閉じたところで、交わした挨拶の中身を思い出す。
「来週……?」
そういえば……桃香達と生徒会の皆と、海に行く約束をしていて、水着も買ってあったのだった。
「水着……アレを……着るの……?」
先日紆余曲折の末買った水着の事も、思い出してしまった。
「ヤバ…………」
できることなら当日まで忘れていたかった。
夏の暑さで水着の事を思い出しました(私が)。