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「葛城さん、久しぶり~!」
突然肩を叩かれて振り返ると、女子剣道部OGの瓜生舞先輩だった。
学園を卒業し、今は女子大に通っている筈だ。以前に会った時よりも少し髪が伸び、雰囲気も大人っぽくなっている。
「瓜生先輩、お久しぶりです。お元気そうで何よりです。今日は後輩たちの応援ですか?」
「ええ、あなたは妹さん? それとも柑治の応援かしら?」
「妹の応援です」
悪い人ではないのだが、なぜかいつもこうして私と津南見を近付かせようとしてくるのが難点だ。
「そうなの? 残念。あの子もなかなか報われないわね」
「津南見先輩は私なんかの応援は必要ないと思いますよ」
それにもしもゲームの通りなら、津南見は……。
もちろん、勝負に勝つことだけが大切なわけではないけれど、あの結末を知ったまま津南見と顔を合わせるのは気まずい。
「瓜生先輩がいらっしゃるということは木通先輩もいらしてるんですか?」
「ああ、あの人ね、『俺もうあいつらのコーチみたいなもんだし、柑治は弟弟子でもあるからな』って張り切っちゃって、大会中は男子部のサイドに付くつもりみたいよ。今もあそこでシェリムくんにアドバイスしてるわよ」
瓜生先輩の指し示した方を見れば桜花学園の男子部員が集まっているのが見えた。その中で飛び抜けて高い身長の男性が、銀髪に浅黒い肌の青年に何かのノートを見せながら話しかけている。
その傍らに立っていた小柄な男子がふとこちらへと顔を上げた。
「っ?!」
こちらから避けていた筈の津南見といきなり目が合ってしまい。咄嗟に逸らす。不自然な動きに瓜生先輩がじっとこちらを見つめてきているのが分かって背筋を汗が伝う。
「……ねぇ、柑治と何かあったの?」
「それは……」
何もない。あるわけがない。そう全否定したいが、1学期の間に在った出来事が次々に頭に浮かんで、否定するには不自然な間が開いてしまった。瓜生先輩の目が好奇心に光る。
「え? 何?! 本当に何かあったの?! 柑治ったら、教えてくれればいいのに~!」
何やかはしゃいでいる先輩には申し訳ないが、何かあったと言っても、津南見と私の間の溝は深まる一方だったという内容でしかないので、喜ばれるようなことは何もない。……ない筈だ。
「……で? 何があったの??」
「何も……何もないです」
私が津南見は女性恐怖症だと思い込んでいたことが間違いだったこと、学園に入るまで津南見に出会わないよう画策していたのに自分に覚えのないところで出会ってしまっていたこと、誰にも教えていない私の弱点を知られてしまった事くらいだが、もちろんそんな話を彼女にするわけにはいかない。
少し強めの口調で否定すれば、瓜生先輩は暫く疑り深い視線を送ってきていたが、溜息を吐いて諦めてくれた。
「まあいいわ。お節介になってもいけないし。それより葛城さんはどこに泊まっているの? 折角だから夜ご飯一緒にどう? 由孝も一緒だし、奢るわよ?」
節約旅行の高校生の身としてはありがたい申し出だが、遠慮させていただいた。
木通先輩と瓜生先輩の二人の食事にお邪魔するなど、文字通りのお邪魔虫だ。
「せっかくのお二人での旅行なんですから、私なんかに気を使わないでください」
「そっ……そういうわけじゃ……ないけどっ……!」
ちょっとした仕返しのつもりで含みを持たせて言ってみると、瓜生先輩の頬がパッと赤く染まった。照れまくる様子は可愛らしく、恋する乙女そのものだ。
今度は私の方が先輩を追及する番だった。
桃香の試合時間が迫ってきたので瓜生先輩と別れて2階の応援席へ移動する。先輩は一緒に観戦しようと誘ってくれたのだが、津南見の話を蒸し返されても困ってしまうので丁重にお断りさせていただいた。
一人になって、桃香のいる試合会場を見下ろす。さっき激励に行ったときはリラックスした様子だった桃香も、緊張した様子で監督の指示を聞いていた。
ゲームではひとつひとつの試合の描写はあまり詳しくなくて、予選に至ってはざっくり勝ち負けがモノローグで語られるだけだったけれど、こうして実際の試合を見ていると、どの試合も白熱していて、桃香が打ちこまれそうになるたびにハラハラしてしまう。
「桃香……っ! 頑張って……!!」
心の中で声援を送る。剣道では試合中の声援は禁じられているからだ。
小柄な身体から気合のこもった剣が繰り出される。体格は相手の方が上、見たところ膂力もありそうだ。
一本を先取され、追い詰められる。思わず握りしめた手に力がこもった。けれどそこから桃香はスピードを活かした本来の動きで相手選手を翻弄しはじめた。
そうして相手のわずかな隙を逃さずに一本、後半互いのスタミナが切れてきた所に気合でもう一本、見事に個人戦の予選突破を果たした。
「よかった……」
ホッと胸をなでおろす。今日の女子予選が終われば明日は男子の予選、明後日に男女の決勝が行われる。
「明日……か……どうしようかしら……」
津南見の試合……ゲームの通りなら予選は普通に突破するだろう。そして個人戦の決勝であいつは…………。
夢で見た震える背中を思い出して、溜息が零れた。
その日の夜、何となく眠れずにいた私は散歩がてらコンビニまで行くことにした。
一番近くのコンビニまでも少し距離があり、途中繁華街を通るが、見たところそんなに治安が悪いということもなさそうだったので、膝丈のデニムにTシャツ、キャップを被ってホテルを出る。
けれど、コンビニの前まで来て、少し躊躇することになってしまった。店の前の駐車スペースに数人の柄の良くなさそうな若者がたむろしていたからだ。
ここでいきなり踵を返すのも逆に目立ってしまうだろう。そう判断して、なるべく目立たないように彼らの横を通り抜けてコンビニへ入る。暇つぶしに眺める用の雑誌と、飲み物を買って店を出ると、若者の一人がニヤニヤとしながら話しかけてきた。
「お姉さん一人? こんな時間にコンビニ? 寂しいんじゃない?」
「……連れのお使いよ。お気遣いありがとう」
なるべく角を立てないようにあっさりと答えて立ち去る。繁華街へ出れば人通りもあるから滅多な事にはならないだろう。そう踏んで足を速めたが、後ろから複数の足音が付いてくる気配がして、背筋がゾワリとする。
一気に走って引き離そうかとも考えたが、繁華街よりも前で追いつかれたら逆に危ない。横道に入って撒くことも考えたけれど、あっちが地元のチンピラだった場合、不利である。
なるべく平静を装って、繁華街が見えるところまで来たら一気に走ろう。そう決意して歩調を速めた時、前方の横道から見覚えのある若者が出てきてニヤリとこちらを見て嗤った。
しまった。先回りされていた。
咄嗟に脇道へと入ってダッシュする。
「そっちに行ったぞ!」
「追っかけろ!!」
はしゃいだような声は獲物を狩る興奮に満ちていて、こちらの恐怖を煽る。とにかく人通りのある場所へと出なければ。道が分からないなりにさっきの繁華街の大通りへ出る方向へと走る。
ひとりひとりならば撃退できるだろうが、あの人数では捕まったら最後だ。段々と距離が縮められている気配にゾッとしながら足を速めた時、目の前の角から現れた人影にぶつかりそうになった。
「うわッ?! ……葛城?!」
「え?!」
止まりきれずにぶつかった私を抱き止めた声に驚いて顔を上げると、津南見柑治の端正な顔が目の前にあった。
ジャージに身を包んだ彼はどうやらランニングの途中らしく、少し息が上がっている。全力疾走していた私の方こそ肩で息をしている状態ではあったが。
「どうしてここに……」
「俺はロードワークの途中で……お前こそ……?」
あまりのタイミングにホッとしていいやら驚いていいやら複雑な気持ちでいると、後ろからバタバタとさっきの若者たちが追い付いてきた。路上で抱き合っている(ように見える)私たちを見て、眉間にしわを寄せる。
「なんだよ……マジで連れがいたのかよ……」
「いや、でもこんなチビなら……」
若者の一人が禁句を口にする。ピクリと津南見の額に青筋が浮かぶのが見えた。
津南見は男子の中では小柄な身長をことのほか気にしていて、小柄な体格を馬鹿にされることを最も嫌っているのだ。こうなってはもう止めようがない。
「葛城、下がってろ」
スッと前に出て、私を背に庇うように立つ。そんなに身長が変わらない筈の背中が、なぜか大きく見えた。
「お前たち、俺の連れに何か用か? 見たところ追いかけられていたように見えるが、一人の女を寄ってたかって追いかけるのが地元のバカの間で流行っているのか?」
「なんだとっ?!」
煽るような言葉に若者たちがあっさりと逆上する。とびかかってきた一人目を最小限の動きで躱すとその後ろで構えていた2人目の懐に一瞬で飛び込んでその顎へ掌底を叩きこむ。振り向きざまに回し蹴りで1人目を沈めると、そこからは若者たちの全員が地に伏すまでまさに秒殺だった。
「葛城、行くぞ」
最後の1人を叩きのめした津南見に手を引っ張られて走り出す。当初の逃げ場所だった繁華街の辺りまで出て、追いかけてくる気配がないのを確認すると、津南見はようやく足を止めた。
「はぁ……まったく、何をやってるんだ?」
呆れを含んだ声音に反射的に唇を尖らせて不可抗力だったのだと反論する。
「ちょっと……コンビニに行ったら……絡まれて……」
「そりゃあ、女一人が歩いていたからと言って絡んでくる奴らが悪いが、こんな時間に外に出るもんじゃない。俺が通りかからなかったらどうなっていたか……」
ため息混じりに諭されて言い返せない。
「……ご迷惑をおかけしました」
「迷惑だとは言っていない。……怪我はないか?」
柔らかな口調で心配され、落ち着かない気持ちになる。握られたままの手も、どうしたらいいかわからない。
「あの……ありがとうございました。もう大丈夫なので……その……」
やんわりと手を離そうとしたら、逆に強く握り込まれた。痛くはないが、全く外せそうな気配がない。身長は数センチしか変わらないくせに、その手は骨ばっていて、私の手より一回り大きい。
顔に熱が昇ってくるのが分かる。
「津南見先輩?! あの、手を……」
「ホテルまで送っていく。どっちだ?」
離して欲しいという言葉が喉の奥で止まってしまった。先ほどの状況の後で、一人で大丈夫だと言っても津南見の事だから絶対に聞かないだろう。そういうところは頑固で融通が利かないのだ。
ゲームの中でも津南見と真梨香がお互いの主張を譲らず言い合いに発展し、それを桃香が宥めるというエピソードがあった。
「そういえば……先輩さっきの事、桃香には黙っていてほしいんですけど……」
あの子がこのことを知ったらきっと心配するだろう。下手をすると学園の宿泊先を抜け出して私と一緒のホテルに泊まるとか言い出しかねない。
「それは構わないが、今後は夜に一人で出歩いたりしないと誓ってくれ。心配で試合どころじゃなくなる。それと、俺の方もさっきの事は他言無用で頼む」
確かに、部活動の遠征先で正当防衛とはいえ不良を叩きのめしたとなれば大問題だ。幸い薄暗かったし、学校指定のジャージではなくおそらく津南見の私物のジャージなので、大丈夫だとは思うが。
危ういところだったとはいえ、これ以上津南見に迷惑をかけるのは気が引ける。何より人目もある街中で手を繋がれ続けているのが恥ずかしい。ちょっと離してもらって、その隙に逃げられないだろうか……。
「それじゃ行くか」
「津南見先輩……手は……」
「離すとお前は逃げそうだからだめだ」
う……読まれてる……。
私は大人しく津南見に手を引かれ、問われるままにホテルへの帰り道を指示しながら歩くこととなった。
うう……道行く人の視線が痛い。
今舌打ちしたサラリーマンのお兄さん、別に私たちはリア充じゃないので爆発しません。
津南見の美青年っぷりにうっとりなさってるOLさん、連れがこんなんですみません。
恥ずかしさといたたまれなさから、なるべくキャップを深くかぶって俯いて歩く。自分の靴先ばかりを見てしまう。
「……なぁ、お前明日は……来るのか?」
唐突に訊かれて顔を上げる。津南見は前を向いたままで、その背中が歩調に合わせて揺れている。
顔が見えないから、津南見がどんな表情で、どういう意図でそんなことを訊いてきたのかわからず困惑する。
「いや、お前は妹の応援に来ただけだろう? それなら女子の試合がない明日は来ないのかと思ってな……」
「行きますよ」
考えるよりも先に言葉が口から滑り出ていた。ついさっきまで行くか行かないか自分でも決めかねていた筈なのに。
「……えっと、ホテルに一人でいても暇ですし、観光できるほどお金もないですし……それに女子部の子は観客席から試合を見るんでしょう? それなら妹の傍に行けますし……」
つらつらと思いつくままに行く理由を並べ立てる。こうなったらさっさと『応援します』と軽く言って流してしまおう。
「……そうか」
「その……せ、生徒会としても! 先輩たちには我が校の為にも頑張って貰いたいと思っていますし! ……だから……その……」
普通に一言応援していますぐらい、社交辞令で言えると思っていたのに、口から出るのは言い訳めいた言葉ばかりで、焦りが募る。
つながれた手に手汗が滲んでいるのではないかと気が気ではない。
「が……んばって……くださぃ……」
絞り出した一言は消え入るような小声で、聞き返されてもう一度言えと言われたら恥ずかしさで死ねそうな気持になった。
津南見の方はと言えば無言で歩を進めている。やっぱり聞こえなかったのだろうか。
もう一度ちゃんと言うべきか……。悲壮な覚悟を決めた時、グッとつないだ手に力が込められた。
「ひゃっ?!」
動揺のあまり変な声が出る。顔からは火が出そうだ。
「……ああ」
静かに噛みしめるような声に一瞬羞恥を忘れて津南見の後頭部を凝視してしまう。その耳が真っ赤に染まっているのが見えてしまって、益々いたたまれなくなった。
聞こえてなくても困るけど、聞こえいてたら聞こえていたで、こんな反応をされるなんて……。
結局それからは互いに一言も発することなくホテルまでの道を歩いた。
ホテルの前まで着くと、津南見がやっと手を離してくれた。軽くなったような、重くなったような、変な感じだ。
「それじゃ、気を付けてな? 誰か部屋に訪ねて来ても簡単にドアを開けたりするんじゃないぞ」
「こんな旅先でそんな不用心な真似しませんよ」
「そうだな。……じゃあ、また明日な」
そう言って帰っていく津南見の背中を見送る。
「また明日……か……」
ゲームの中ではおそらく津南見と真梨香は出会ってから毎日のようにそう言って別れ、次の日また笑って挨拶を交わしていたのだろう。
けれど、今世では津南見の口からその言葉を聞いたのは初めてのことだったし、今後また言う機会が来るのかどうかはわからない。
その機会が訪れないことを願う気持ちの片隅に、少しだけ陰りがあるのを、私はそっと気づかないふりをした。