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ホテルの着いてすぐ、桃香からのメッセージの通知が来た。
『お姉ちゃん、もうホテル着いた? こっちは2人部屋なんだけどすっごく広いよ!!』
添付された写真にはツインのベッドルームではしゃぐ桃香の姿。自撮りらしきそこには桃香と同学年で同じくレギュラー入りをしたという女の子が一緒に写っていた。
ホテルの方は流石に桜花学園が遠征で使っているだけあって、普通のビジネスホテルのツインルームより遥かに広々としていて、内装も洗練されている。
「こちらも着いたわ。明日は開会式前に会いにいくから」
ちょっと考えて、こちらも自撮り写真を添付して送る。一般的なシングルルームは桃香たちの宿泊先と比べるとだいぶ見劣りはするが、すっきりとして中々に快適だ。ここに来るまでの間にコンビニが見当たらなかったので、買い物などには少し不便そうではあるが、作りはしっかりしているし、フロントのスタッフの対応も丁寧だった。
メッセージを送り終えて、ベッドへと仰向けに転がる。高校生の分際で妹の応援にここまでやってきたのはもちろん、桃香を応援したい気持ちが殆どだが、もう一つ、気になっていることがあったからだ。
前世で私がプレイした乙女ゲーム『花の鎖~桜花学園奇譚~』の中で、桃香が剣道部主将の津南見柑治か、私のクラスメイトで留学生のシェリモーヤ=アサド=ジャムシードどちらかのルートに進んだ場合、ゲーム中で今回の大会遠征のエピソードが語られる。
もちろん、桃香が剣道部に所属しているのは別のルートでも同じなので、大会そのものはある筈なのだが、ルートが異なる場合、部活でのエピソードはゲーム上ではスルーされるようになっている。
シェリムの場合は桃香を口説いてばかりで剣道そのものには真剣ではなかった彼が大会を通じて段々と本気で部活に打ち込むようになり、桃香もそれを応援するようになるという王道青春ストーリーだ。
けれどシナリオとは違って一度津南見に負け、木通先輩に師事するようになってから、大会に出るまでもなく部活に真面目に取り組むようになってしまっているうえに、桃香からはまだ距離を置かれているので特に気にする必要は無いと思う。
問題は、津南見の方だ。
「このままだと……」
ゲームで見たスチルが頭の中をよぎる。桃香を抱きしめる津南見の姿とそれを遠くから目撃してしまった真梨香―――。
「……真梨香は……あの時、どう思ってたんだろう……悔しい? 憎い? それとも…………」
シナリオテキストでは語られることのなかったキャラクターの心情をつらつらと考えているうちに睡魔が襲ってきた。
「明日は……女子の予選で……男子はその次……」
ぼやけていく意識の中、目覚ましだけはしっかりとセットして、そのままストンと意識は闇へと沈んでいった。
建物の影になったその場所は、海が近い所為か潮風が吹き抜けていた。会場からの歓声が蝉の声に混じって聞こえてくる。そんな中、誰もいない、こんな場所で、そいつはたった独りで肩を震わせていた。
主将としての責任、個人戦3連覇の期待、色んなものをその肩に背負って尚堂々と、大きく見えていた筈の背中が、今は小さく見える。こんな時こそ『親友』の自分が何か言わなければと思うのに、足が地面に縫い付けられたように動けない。
これが去年なら、負けてもまた次があるとか言えたのかもしれない。けれどあいつは3年で、今年は最後の大会だ。それなのに2年の『ボク』に何が言えるだろう。唯一無二の対等な親友の筈なのに、『ボク』には来年があって、あいつにはもうそれがない。
どうしていいかわからないまま立ち尽くしていたら、『ボク』がいるのとは反対の角から、小柄な影が飛び出してきた。
「先輩! こんなところにいた―――ッ!!」
桃香はあいつの様子に目を丸くして一瞬立ち止まって、けれどそのまま駆け寄った。
「……先輩……お疲れ様でした。……すごく、強くて、かっこよかったですよ!」
そう言ってジャージのポケットから取り出したのは、小さな花が刺繍された白いハンカチだ。あいつが、柑治が桃香へ贈ったそれが、柑治の頬を撫でて、零れ落ちる雫を拭っていく。
「……っ!」
「きゃっ!?」
柑治の押し殺したような吐息が聞こえ、その腕が、『ボク』が焦がれてやまなかった腕が、ハンカチを持つ桃香の腕を掴んで引き寄せ、強く抱きしめた。戸惑ったような桃香の声に、嫌悪や反発は感じられない。それどころか、その手は労わるように柑治の背をポンポンと叩くと、ゆっくりと、抱きしめ返したのだ。
―――胸の奥が痛い。鋭い棘が何本も、心臓を突き刺し、掻き毟られたように疼く。
「柑治……」
足音を立てないようそっとその場を離れる。息が苦しい。胸が痛い、目の奥が熱くて、頭は割れそうだ。
「柑治……柑治………どうして……」
その隣に立てることが誇りだった。お前だけは特別だと言われているようで、『親友』と呼ばれるたびに、嬉しくて苦しかった。強さを競い合い、背中を預け合うことを喜ぶ気持ちの裏で、弱さを見せて欲しかった。涙を拭ってあげられる存在になりたかった。苦しみを癒せる存在になって、その腕に抱かれたかった。
「『ボク』は……君の……女の子になりたかったのに…………っ!!」
嗚咽が零れる。みっともなく、ぐしゃぐしゃでかっこ悪い、醜い『ボク』の本音。嫌われるのが怖くて、突き放されるのが嫌で、隠して、取り繕って、物わかりの良い振りをして、必死で演じてきた、『ボク』が壊れていく。
ふと、磨かれた会場の外壁に映る自分の姿に目を止める。
男と間違えられそうなほど短い髪、柑治とほとんど変わらない身長、鋭く、つり上がり気味の目。
何もかもが桃香とは正反対だ。桃香のような可愛らしさも、女の子らしさも、腕にすっぽりと抱きこめる小柄さも、相手の痛みを包み込む柔らかさも、真っ直ぐなまなざしの大きな丸い瞳も。
何ひとつ、『ボク』は持っていない―――。
「あ……あ……あぁぁぁぁあああっ!!」
喉の奥から絶望が零れ落ちた――――――。
「ッ!!?」
飛び起きて周りを見る。すっきりとした狭いビジネスホテルのシングルルーム。時計を見れば目覚ましが鳴るよりも1時間も早い。肩のあたりで切りそろえられた髪を見て、気持ちを落ち着ける。
「あれは……私じゃない……ただの、想像」
ゲームにはあんな風に真梨香の視点での描写は無かった。だから今の夢は私の想像が作り上げた捏造シーンでしかない。
そう思うのに、体の震えが止まらない。まるで夢の中の真梨香の状態を引き摺ってしまっているかのようだ。ぶんぶんと首を振って嫌な考えを振り払う。
「なんか目が覚めちゃったし、シャワー浴びよ」
シャワールームに入り、鏡をじっと見つめる。
女にしては高い身長、鋭い目つき、髪がもっと短ければゲームの中の真梨香と全く同じになるのだろう。桃香を羨んで、桃香を憎んで、桃香を壊そうとしたあの悲しい怪物と。
ゲームではあのシーンをきっかけに津南見と桃香の距離は急接近し、2学期には津南見が桃香に告白をして二人が恋人同士になる展開が待っている。
そうして表向きは物わかりの良い姉、世話焼きの親友の仮面を被った真梨香は二人を祝福し、その影で桃香と津南見を引き裂くよう画策したり、桃香を傷つけようとする、非道なライバルキャラへと変貌していく。
暴走の果てに桃香へと刃を振り上げた時の真梨香のシーンは今世でも何度か夢に見るほど怖かった。
服を脱いでバスタブに入り、蛇口をシャワーへと捻る。冷たい水が頭から降り注いだが、暫くそのまま浴び続ける。水滴が髪から肩、胸へと滴り、全身を濡らしながら足元で排水溝へと吸い込まれていくのをぼんやりと見つめる。
胸につかえた夢の幻影ごと、押し流してしまえたらと願いながら。
「お姉ちゃん!」
道着姿で飛びついてきた桃香を全力で抱き止める。部活はやめたとはいえ、いざというときの為日々筋トレは欠かしていないのだが、流石に現役選手の全力タックルはなかなか力強い。相手が桃香じゃなければ避けていたところだ。
「もう!開会式の時間になっても来ないから心配したじゃない!! 何かあったの?」
色々考えたりしているうちにうっかり桃香との約束の時間に送れてしまった。開会式の途中で会場についたため、式が終わって、予選ブロックの合間にこうして会いに来たのだ。
桃香の方はと言えば、遅刻を心配してくれてはいるものの、コンディションには影響なさそうだ。この分なら試合も安心して応援できるだろう。
「ちょっと久々だったから迷っちゃって……。桃香の試合はどのブロックなの?」
「Dブロックだからもうしばらく後だよ。それより、他のみんなにも紹介するね!」
そう言って桃香に手を引かれて女子剣道部の輪に連れて行かれる。途中男子部の集団の横を通ったが、なるべくそちらを見ないように通り過ぎた。
だから、その集団の中で津南見がこちらを食い入るように見つめていたなんて、気づかずにいたのだ。