過去編 真梨香 1年の春 1
しばらく真梨香お姉さんの1年時のお話が続きます。
「ついに、来てしまったか…」
白くそびえたつ正門の彫像を前に、私は溜息をついた。今日からこの桜花学園高等部に通うことになるのだ。
夢にまでは見たこともなければ、そこまで切望していたわけでもない進路だが、それもこれも、愛する妹との幸せ姉妹ライフのためだ。来年、私と同じようにこの門をくぐることになるであろう、可愛い妹が、この学園で不当に傷つけられることが無いように。
もし万が一にも辛く、苦しい思いをして泣いていたらすぐに手を差し伸べられるように。私はあの子の傍にいると決めたのだから。
そんな決意を心に秘めて、私は瀟洒なデザインの門をくぐった。
「私のクラスは…1年、D組……。あ、あった。………げ」
張り出されたクラス名簿を見て、自分の名前はすんなり見つけられたのだが、その少し下の方に、良く知った名前を見つけて思わず不満の声が漏れた。
この学校の同学年にいるのはわかっていた。でも同じクラスだなんてちょっと神様意地が悪いんじゃない?
10年近く前に自分が池に突き落とした少年の名を見つめながら、深いため息が出た。
「……忘れててくんないかな…無理かな。桃香の事も来年も覚えてるんだもんなあ…」
入学初日からついてない。教室へ向かう足取りがちょっと重くなった。
教室に入って、ちょっと見回すと、見間違えようもない目立つ金髪の男が教室の中程の席について、数名の男子生徒と話しているのが見えた。遠目に見ても、キラキラしい美貌はすでに教室内の女生徒の視線を釘づけにしている。
なるべく気づかぬふりで、自分の出席番号に割り当てられた席へ向かう。途中、こちらを振り返った金髪男の目が驚きに丸くなったのは気のせいだ。10年近く会っていないのだから、顔で見分けがつくはずがない。10年前の私は今よりは釣り目じゃなかったし。髪型だって違っている。
そんな私の希望的観測もむなしく、その金髪男はわざわざ席を立つと、ちょうど座ったばかりの私の正面にやってきた。涼やかな碧の瞳が見下ろしてくる。
「お久しぶりです。僕の事、覚えていますよね」
なぜに断定口調なのだ。まったくの見間違いだったら恥ずかしい思いするのは自分の方だぞ。ていうか台詞のチョイスが下手なナンパレベルじゃないか?私はとりあえずそ知らぬふりを決め込むことにした。
「えっと…? 初めまして、だと思うのですけれど…?」
精一杯困惑していますという表情と声をだす。こんな目立つ容姿の人、普通は忘れないけど、全く覚えがないわ~、みたいな。
私がそう答えた瞬間、教室内の体感温度が一瞬で3度は下がった。私は目の前の男の顔を見て、失敗を悟ったが、手遅れである。
「そんなはずはないと思いますよ。葛城真梨香さん。優秀な成績で桜花学園高等部への入学を果たしたあなたの記憶力がそんなにお粗末なわけがないでしょう? 罪の意識にさいなまれ、恐れおののく気持ちはわからないでもないですが、忘れたふりをしたところで罪が軽くなるわけじゃありません。貴女に寒空の下、池に突き落とされたおかげで僕は3日3晩熱にうなされました。それを忘れるなんて人道にもとる行為だと思いませんか?」
輝くような笑顔で小声の早口で脅してくるのはやめてほしい。眩しすぎて目が潰れる。迫力に負けて目をそらしてしまいそうになるが、気力で耐える。桃香とこいつの恋愛フラグを折って、桃香の防波堤となるためにも、こいつとの力関係で負けるわけにはいかない。できれば上位に、最低でも対等に。
私は、動揺を悟られないよう、余裕たっぷりの笑顔を作って見せた。相手は一瞬虚を突かれたらしい。これならいけるかな?
「ああ、そういえば、昔、足の着く程度の深さの池でおぼっ…!」
速攻で口を手で押さえられた。目の前の笑顔が禍々しさを増す。それに対しても私はにっこりと、狐っぽいと呼ばれるつり気味の目を細めて見せた。勝ってはないが、負けてもいない。あの一件が弱みとなるのはお互い様だ、と相手に示せた。ざまあみろ。
そっと金髪男、篠谷侑李の手を外す。ただ、まあ、池に落としたのは正直やりすぎたとも思っていたので、いい機会だから謝って置くことにする。
「その節は失礼しました。あの時は母からも怒られ、反省したのですよ?」
「へえ、その割に僕の顔をすっかり忘れてしまわれていたようですけど?」
素直に謝ったというのに、まだ責められるのか。そういえばこいつは超が付く粘着質な性格設定だった。
「いえいえ、立派に成長されてしまったのでわからなかっただけですよ。すっかり見違えてしまって。…泣きべそをかいて鼻水垂らしてた姿しか記憶になかったもので」
「…へえ…。どうやら随分と記憶が改竄されているようですね」
篠谷のしつこさに苛立っていた私は、ついつい余計なひと言を付け加えてしまった。その後、担任教師の栗山先生が来て止めに入るまで、嫌味の応酬により教室内はブリザードと化し、私は入学初日から、クラス内で畏怖の目で見られる羽目になった。
それもこれもあの粘着王子の所為だ。ちくしょう。
入学初日から教室で大舌戦を繰り広げた罰として担任の栗山先生からクラス内のアンケートの回収を言いつけられてしまった。心なしか、用紙を持ってくる同級生の目が怯えている。
それは篠谷も同様の筈だが、奴には容姿という武器があり、女生徒はこぞってあいつの処にアンケート用紙を持っていき、話しかけていた。これだからイケメンは。それならばと男子にアンケート用紙提出を促せば、声をかけた男子が震えながら他の男子全員から集めて捧げ持つように差し出された。ちょっと怯えすぎじゃないか?
そんな中、一人の女生徒が、篠谷ではなく私の方にアンケートを持ってきた。
ショートヘアのボーイッシュなその女子は、私よりも少し背が高い。女子の中での長身の部類に入る私よりも高いということは170近くはあるだろう。
「これ、アンケート。提出よろしく。それと、さっきの喧嘩、面白かったよ」
そう言って用紙を差し出しながら、私と篠谷の嫌味合戦を思い出したのか、更にくすくすと肩を震わせて笑い始める。笑われているのに、不思議と不愉快な感じはしない。
「どうも。えっと…、柿崎由紀さん…?」
「由紀でいいよ。私も真梨香って呼ばせてくれるなら、だけど」
アンケートの記名を見て言うと、そう言って握手を求められた。私もその手を取って、微笑む。彼女とは、何となくだが、気が合いそうな気がした。
放課後になり、教室を出ようとした私は上級生に呼び出された。
学園内に食堂とは別に設けられたカフェテリアに出向くと、一人の女生徒が立ち上がってこちらを手招きしていた。顔と名前ぐらいは知っている。中学一年の時、剣道の全国大会で見たこともある。対戦したことはないが。
「葛城真梨香さんね。私は桜花学園剣道部、女子主将で3年E組の瓜生舞です。初めまして」
「初めまして。どういったご用件ですか?」
そう答えつつも何となく用件は見当がついている。部活動への勧誘だろう。中学の頃剣道で全国でそこそこの成績を収めた私を剣道部が目を付けるのは予想がつく。私の答えはすでに決まっているのだが。
「今日呼び出させてもらったのは、単刀直入に言って剣道部への勧誘なの。葛城さん、中学の時剣道で全国でも上位に入っていたでしょう? 剣道でのスポーツ推薦も十分に取れる成績だったって聞いたんだけど…」
「剣道はやめました」
相手の言葉を遮るのは失礼だとは思ったが、あえて私はきっぱりと告げた。実のところ、桜花学園の剣道部への勧誘は受験以前に部の監督からも話が来ていた。私が今の「私」でなければ、そのまま勧誘に従って剣道での推薦を受け、剣道部に入部していただろう。しかし、私はその話を断り、剣道をやめ、学力での推薦枠を取った。その話はおそらくだが監督経由でこの女子部主将にも伝わっているはずだ。
「どうして…?!」
「理由については一身上の都合とだけ。この学園では生徒会の執行部に入るつもりでいます。部活動に入る時間は取れなくなると思いますので、申し訳ありませんが」
深々と瓜生先輩に頭を下げると、私はその場から踵を返した。
剣道部は私にとっての鬼門だ。ほかならぬ私自身が桃香を傷つける立場になってしまう場所。それならば、最初から近づくべきではない。今の私には桃香を守ること以上に大事な事なんてないのだから。
カフェテリアを出たところで、入ってくる生徒とぶつかりそうになる。見上げるほどの長身の男子と、その影にすっぽり隠れてしまいそうな小柄な男子。剣道部主将の木通由孝と2年の津南見柑治だった。
思わぬところでの接触に、驚いたが、向こうは私を知らないはずだ。いや、注目選手だったという意味では知っているかもしれないが、それ以上の繋がりはない。 この場では、私と津南見は初対面の先輩と後輩だ。
「失礼しました」
目を伏せ、軽く会釈をして通り過ぎようとしたところで、木通先輩に呼び止められた。
「剣道、もうやらないのか?」
「はい。誘っていただいて申し訳ないですけど」
「…俺、中学時代葛城さんのファンだったんだけど」
唐突な言葉に私は首をかしげて木通先輩を見上げる。先輩の後ろでは津南見も驚愕に目を見開いている。
「地区が違うから地区大会で一緒になることもなかったけど、県大会と全国では会場で見てた。葛城さんが2年になってからは地区大会も見に行ってたんだぞ」
「え…と…?」
この先輩は何が言いたいんだろう。何を言われても私はもう剣道はやらないと決めているのだが。木通先輩の後ろでは津南見の顔が青くなっていっている。私と近くにいることで女性恐怖症が発症しているようだ。
「それで、今更ながら聞いておきたいんだが、去年、知り合いを通じて葛城さんを呼び出してもらったことがあったと思うんだけど、どうして来てくれなかったのかだけ、教えてもらえないか?」
「先輩それはっ!!!」
なぜか津南見があわてて木通先輩の袖を引っ張っている。長身で男前の木通先輩に小柄で美形の津南見がくっついていると、どう見ても一部の女子が喜びそうな絵柄にしかならない。いっそ写真にでもおさめて売りさばきたい。
「呼び出し…された覚えがないんですけど、何かの間違いじゃないですか?」
思い返してみるが、心当たりがない。木通先輩の後ろの津南見はアーモンド形の瞳を限界まで見開いて震えている。大丈夫だろうか。声をかけたら気絶とかするんじゃないか? これ。
「そんなはずはないだろ。ちゃんと約束取り付けたってあいつら言ってたのに」
そんなことを言われても、本当に覚えがない……。あ。
「もしかして、妹と間違われたのかもしれません」
「妹さん? そういえば、葛城桃香って君の妹か。あの子もすごく強いんだろ? うちの監督は姉の方は残念だったけど、妹はぜひとも勧誘したいって言ってたな」
「はい。可愛いのでよく他校生からも声をかけられていましたので」
全部蹴散らして回ったけどね。確かに桃香は良く呼び出されていた。桃香に知られることなく潰せそうな話なら、こっそり対処していたし、桃香自身、今はまだ恋愛には興味がないと言ってほとんどの場合自分で断ってもいた。
桃香宛ての誘いで私が把握している分は殆どふるいにかけた覚えがあるが、桜花の中等部男子に呼び出された覚えはない。知り合いを通じてというのなら母校の男子の可能性もあるが、約束を取り付けたというのなら、私の網にかからないところで成功したやつがいるということだろう。
桃香がなぜ待ち合わせに行けなかったのかは不明だけれど。
「ふうん。そっか。じゃあさ、今俺が呼び出したら、来てくれる?」
「……剣道部の勧誘でしたら今しがたお断りしてきたところですが」
「ああ、違う違う。個人的にってこと」
「先輩! いい加減にしてください!!」
津南見が叫んで木通先輩を私から引き離すと、今度は何やら二人でこそこそと話し始めた。何なんだ?まさか本当にBLとか言わないよな。津南見それは桃香に失礼だろう。元々桃香に近づける気はないけど、BLな過去もちとか更に邪魔のハードル上げるぞ。
「…あの、先輩方?」
「あ、ああ、すまん。木通先輩の言ったことは気にするな!」
「はあ。それじゃあ私もう失礼しますね」
何故かにやにやと意味深な笑みを浮かべている木通先輩と、もはや死人のような顔色で気にするな、突っ込んでくれるなと訴える津南見に別れを告げ、私は今度こそカフェテリアを後にした。
今日はこの後はもう用事もないし、このまま帰宅してもいいんだけど、折角だから校内を下見しておこう。これからここに通うのだし、ゲームで知ってる構造と実際の校舎との差異も確認しておきたい。
そう考えると私は今日配られた学校の施設案内のパンフレットを取出し、歩き出した。
桜花学園は広大な敷地に初等部、中等部、高等部の校舎が少し距離を置いて建っており、大学はまた別の場所にここと同じくらいの広大な敷地を使って建てられているらしい。高等部、中等部、初等部の境はちょっとした林と壁に仕切られ、共同の行事以外での行き来は殆どない。高等部敷地内は通常授業の教室のある本校舎、化学室や音楽室などのある特別教室棟、備品や機材を収納する機材管理倉庫棟、教職員室や保健室、生徒会室や各種会議室を備えている南校舎、その他部室棟などがある。更に一棟丸々本でいっぱいという大きな図書館がある。
部室棟にはさっきの先輩たち以外の剣道部員がいるかもしれないので、近づかない方が無難だろう。機材管理棟はそもそも権限のない生徒は近づけない。南校舎をさらっと回って、図書館へ行こう。
私は眺めていた地図を閉じて、歩き出した。
南校舎は1階に保健室と調理実習室がある。けが人の出やすい授業を行う教室が保健室の隣というのは実に効率的だなと思う。まあ、私や桃香は家事は得意なので、家庭科の授業で保健室の世話になることはなさそうだが。2階には生徒会室と会議室、3階は職員室と、役員室、校長室、理事長室などがある。2階より上は一般生徒の立ち入りは少ない。せいぜい職員室に用があるときだけだろう。
位置だけ確認して、校舎には入らずに踵を返したところで、校舎に入ろうとしていた生徒にぶつかった。
「! 大丈夫か?」
「はい、すみませんでし…た…!」
ぶつかった相手の顔を見上げて、私は言葉に詰まった。初対面だが、私は相手の顔を知っていた。
「菅原棗……先輩」
「ん? ああ、新入生か」
「はい、えっと、入学式で生徒会長として挨拶されてましたよね」
本当はもっと詳しいプロフィールも知ってはいるが、もちろん言えない。咄嗟に入学式で現生徒会長の席に座っていたことを思い出し、ごまかす。
「歴代生徒会長の中でも特に優秀だと聞いています」
「そんなことはないぞ。今日のスピーチだって緊張で何喋ったか覚えてないくらいだ」
そう言って苦笑いすると一見冷たそうな顔立ちが親しみやすい雰囲気になる。前世でこのキャラのファンからはデレの多いクーデレと呼ばれていた。それ需要あんの? と聞いて軽く炎上したのは懐かしい思い出だ。
「お前は、新入生の…」
「葛城真梨香です。初めまして」
「こちらこそ。1年はもうみんな帰ってるんじゃないか? お前は迎え待ちか何かか?」
この学園の大多数は登下校をお抱え運転手の車で行うお金持ちだ。けれど、私は特待生の庶民である。家からの距離がそんなに遠くないのを幸いに、徒歩で通っている。
「いえ、ちょっと校舎内を探検してました。広いので明日以降迷ってしまわないか不安で」
「なるほど。良かったら案内する、と言いたいところだけど、これから生徒会の集まりがあるからな…。一人で大丈夫か?」
「はい。あ、ここから図書館までの道ってわかりますか? 地図だと本校舎まで回って行かないといけないみたいなんですけど、近道があれば知りたいです」
先ほど鞄にしまったパンフレットを出すと、菅原はあー、と頷いて、例の苦笑いを浮かべた。
「このパンフわかりづらいよな。ちょっと書き込みしてもいいか?」
「はい、ペンどうぞ」
細めのサインペンを渡すと、菅原は現在地がここだろ~、と地図にくるくると花丸を書き込み、そこから図書館までの最短コースを途中の目印と共に説明してくれた。分かりやすい。これなら迷わず図書館まで行けそうだ。
「ありがとうございます。それじゃあ、菅原先輩。失礼します」
「ああ、気を付けてな」
私はお礼を言って南校舎前を後にした。
菅原棗は桃香の攻略対象者の中では比較的まともな人格者だ。ちょっと人より不運で苦労性だが、それも人に迷惑をかけるような要素ではない。桃香の相手としては一番ましな方だ。もしノーマルルートが無理なら1万歩譲ってこいつのルートでも仕方ないと思えなくもない。嫌は嫌だが。
だがしかし、菅原のルートの問題点は、本人よりも周りにある。
菅原の家は名家の家柄だが、菅原自身は妾腹の出で、母親を早くに亡くし、父親に引き取られ、菅原の次男として認知されている。しかし、当主の本妻である継母と腹違いの姉からは財産目当てで、男子なのをいいことに菅原家を乗っ取ろうとしていると思われているらしい。そのため、菅原に近付けば、この継母と姉からの攻撃の巻き添えを食う羽目になる。
某サスペンス劇場のような殺人未遂と権謀術数が横行するルートになってしまうのだ。菅原自身に罪はないとはいえ、桃香をそんな危険地帯に放り込むわけにはいかない。
そうこうするうちに、図書館が見えてきた。周囲を桜の木に囲まれた建物は大きく、蔵書量も期待ができそうだ。
前世の私は活字が友達の乱読家だった。本の虫とあだ名され、部屋にはライトノベルから哲学書まで、ジャンル総無視で本が積みあがっていた。アルバイト代もお小遣いもほとんど本につぎ込んでいた。母親が大学の購買書籍部に勤めていたおかげで、マイナーな学術書が社割で取り寄せできたのもあって、本に関しては前世でかなり贅沢ができていたと言えるだろう。
前世で得た知識や読解力は今世で学力推薦枠を取るのに非常に役立った。
流石に今世では本につぎ込むお金がなかったので市民図書館や立ち読みで我慢している。この学園の図書館の事を聞いて、楽しみにしていたのだ。
今日はまだ利用はできないんだっけ。ちょっと覗くだけでも駄目だろうか。閉館の札は出ていないから、入ることはできるんじゃないか。たしか、新入生の図書館利用ができるのはオリエンテーリングが終了して、通常授業が開始してかららしい。てことは早くても来週か~。貸し出しは無理でも中で本を見るくらいはできないかな~。
そうやってうろうろしていると、司書の先生らしき人に声をかけられた。新入生であることを告げると、やはり貸し出しはできないが、ちょっと書架を眺めるくらいならと許可をもらった。
静かな図書館の中には何人かの上級生が椅子に座って勉強をしたり本を読んだりしていた。いくつか書棚を見て回る。やっぱり蔵書量がすごい。4階建ての建物すべてが図書館だなんて、補修のための書庫なんかも含めたらどれだけの本があるのだろう。在学中はこれらの本がただで読み放題なのだ。桃香の事は別として、ここに入学してよかった。
ついつい書架を見て回っているうちに、最上階の奥の方まで来てしまった。この辺りは禁帯出の本が中心で、奥には破損した本などの修復に使う倉庫がある。
「ここの本もいいな。古典の色彩と染色技術の資料、もう本屋では手に入らないやつだ~」
思わず感動が声に出てしまった。手に取った本は前世の頃途中まで読んでいた本だ。図書館利用が可能になったら真っ先に読みに来よう。禁帯出だから借りていけないのが残念だ。
そんなことを考えていると、奥の倉庫から慌てた様子の女生徒が出てきた。
「あ、あら、こんな処まで人が来るなんて珍しいと思ったら、あなた、新入生ね?」
「はい、司書の先生が貸し出しはできないけれど見学ならばと許可をくださいました。……ところで先輩」
「何かしら?」
大人っぽい美人だ。肩のラインや腰回りは華奢で折れそうなほどだが、胸元のボリュームはかなりのものだ。薄くはあるがメイクも自然に、華やかに決めている。ルージュは残念ながら取れてしまっているようだが。
「せめて、リボンは結んでから出てきてください。それじゃバレバレです」
「あ…」
女生徒が恥ずかしそうに胸元を抑えた。ほどけたままのリボンの隙間からはボタンも掛け違えているのが見えた。奥で何していたのかは明白である。
「さすがに倉庫にまで足を踏み入れようとは思っていませんでしたから、じっとして気配を殺してたら気づきませんでしたよ」
「ご、ごめんなさい」
謝られてもこまる。というより、この状況で一番腹立たしいのは女を矢面に立たせて、自分は隠れている男の方だ。私はつかつかと倉庫の扉に歩み寄ると、止めようとする女生徒を無視して扉を開けた。
「なんだよ、ちゃんと追っ払ったのか…? ってお前は??!」
倉庫の中ではシャツのボタンも外れたままで、胡坐をかいて座る不遜な男がいた。肉食獣を思わせる精悍な顔つきと筋肉質で引き締まった身体。黒く癖のある髪と鋭い目つきがラテン系の雰囲気を持つ肉食系イケメンだ。倉庫に踏み入ってきた私を見て、一瞬目を丸くするが、すぐに不機嫌な表情に戻り、ちっと舌打ちをする。
「なんだよ、ごまかせなかったのかよ。使えねえ」
使えないのはあんたの脳味噌だ。半眼で見下ろす私の視線が気に食わなかったのか、立ち上がると、頭一つは高いところから見下ろされた。
「おい、お前。先生に告げ口しようなんて考えるなよ」
「告げ口されて困るようなことなら最初からしなければいいのでは?」
言い返すとは思っていなかったのか、男の目が一瞬虚を突かれたように丸くなる。しかし、何を考えたのか、厚みのある唇に、にやりと笑みを浮かべたかと思うと、私の腕をつかんで引き寄せた。バランスを崩して倒れこむ私の腰に腕を回し、抱きすくめる。
「黙っていてくれたら、相手をしてやってもいいぜ…」
そう耳元で低く囁かれ、腰から背中をなぞられて、ついに切れた。私の堪忍袋の緒が。
「お断りします」
そういうと私は手に持っていた本、厚さ5センチほどのハードカバー書籍、を目の前の傲慢男、一之宮石榴の顔面に叩きつけたのだった。
「きゃああ、石榴??!!」
「??!!??」
何が起きたかわからない様子で顔面を抑えて悶える一之宮と駆け寄って彼を気遣う女生徒を尻目に私は彼らから適度な距離をとると、携帯電話を取り出した。それを見た一之宮が解せぬという顔で問いかけてくる。
「おい、お前何している? 先生への告げ口なら…」
ただじゃおかないと脅そうとでもしているのだろうが、赤くなった顔を抑えながらでは迫力も半減だ。
「いえ、これは告げ口ではなくて通報です。痴漢の」
「はぁ?!!」
一之宮の目が驚愕に見開かれる。
「おい、まさかその痴漢っていうのは俺の事じゃないだろうな?!」
「先輩以外にこの場に痴漢行為を働いた人はいません」
「まて、こいつとは合意の上だぞ」
そんなことは見りゃ分かる。この男はなぜ自分が訴えられようとしているのかもわからないようなので、通報する手を止めて説明してやることにした。
「先輩はひょっとして痴漢の意味をご存じないのですか? 『公共の場所または公共の乗り物において衣服その他の身に着ける物の上から又は直接に人の体に触れること』です。先輩は今明らかに同意なく私の腰に触りましたので、十分に痴漢と呼べるかと」
「ちょっとまて! お前俺を誰だと思っている?!」
小悪党並みの陳腐な台詞だなあ。イケメン金持ちは何しても許されると思ってるのか。そんな勘違いはこの際粉々にしてあげよう。
「知ってますよ。2年生の一之宮石榴先輩でしょう? 2年代議会総代ともあろう人が痴漢の罪で前科を得るなんて、嘆かわしいですね。でも法律や条例は日本国民であり、地域の自治体に所属する身の上に平等に課せられたものです。悪いことをしたら反省して償いをするのは幼稚園児だって習う常識ですよ」
一之宮の顔はもはや怒りと屈辱で真っ赤になっている。これまでだれも逆らう者などいないお山の大将だったのが、初対面の新入生に真っ向から馬鹿にされているのだから、さもありなん。
「それともご実家の権力を使って揉み消されますか? 可愛い坊やのおねだりならご両親も事実関係など無視してすべてをなかったことにしてもらえるかもしれませんね。そんなみっともない真似を、あなたのプライドが許せば、ですけど」
一之宮の実家の権力に頼られると厄介なので、先にその道を塞いでおく。矜持だけはチョモランマ並の男だから、こういえば死んでも実家の力には頼らないだろう。
「ちょっと待て、お前まさか本気で俺を訴える気じゃないだろうな?」
「何なら痴漢じゃなくて婦女暴行未遂でもいいですよ。私が抵抗できなかったらそうなる危険もあったんですし」
「俺の誘いを断る女がいるなんて思わないだろう。不可抗力だ!」
そんな訳があるか、馬鹿野郎。今までどれだけモテてきたか知らないけれど、井の中の蛙すぎるだろ。
「そんなもん掃いて捨てるほどいますよ。先輩の顔が好みじゃないとか、先輩の態度が気に食わないとか、先輩の言動が気持ちが悪いとか」
「きも…っ??!!」
おそらくこれまで女性からそんな暴言を吐かれたことがないのであろうお坊ちゃまの顔は面白いくらいに歪んでいた。そろそろ溜飲も下がったし、これ以上時間を無駄にしたくもないし、そろそろ切り上げるか。
「…仕方ないですね、初犯ということ、私が嫌がっているのが察せられないほど頭の働きが可哀想だったということに免じて、今回は見逃してあげます。とりあえず、そこにいる先輩に謝罪してください」
「はあ?! なんで俺が??!」
「ばれたら拙いっていう自覚がありながら女性を矢面に立たせて自分はこそこそ隠れているなんて卑怯で愚劣な真似をしたことを彼女にお詫びしてください」
「おっまえ、この俺に向かってこそこそだの卑怯だのと…っ!」
「実際こそこそしていたし卑怯なんですから仕方ないでしょう。ほら、ちゃんと先輩に謝ってください」
「え…あ、あの」
横で私たちのやり取りを呆然と見ていた女生徒がいきなり話の中心にされて戸惑いの声を上げる。顔立ちやスタイルなどから派手めの女性に見えるが、男を庇って倉庫から出てきたり、状況をごまかそうと一生懸命だった様子から見れば、彼女は意外と一途で健気な性格のようだ。正直、こんな傲慢ナルシストにはもったいない女性だ。
一方の一之宮は全く納得できないという様子を隠しもせず、それでもそっぽを向きながら、その女生徒に向かって「悪かったな。」とボソッと呟いた。傲慢な態度が大きくマイナスだがまあ、いい。謝られたお姉さんがびっくり感激して目を潤ませているからこのくらいにしといてやろう。
「おい、お前、俺は別にお前に脅されたから謝ったわけじゃないんだからな! 訴えるとかそもそもそもお前が変な言いがかりつけてくるから話がこじれただけだからな!!」
やっぱりむかつくから通報してやろうかこのバカ殿様。
まったくもって不愉快な気分になりながら、私は本を戻すとわめく一之宮を放置して、女生徒にのみ会釈をすると、最上階のフロアを後にした。
入り口まで戻ると、司書の先生が上の方が騒がしかったけれど何かあったのかと尋ねてきた。
「さあ? 私は気づきませんでした」
しれっとそう言うと、私は司書の先生にお礼を言って図書館を後にした。
それにしても、ゲームプレイ中も思っていたのだけど、一之宮石榴って本当に最低なキャラだったな。傲慢で自意識過剰で女遊びが激しくて、あと、成績がいいって設定なのに言動がバカっぽい。名家のお坊ちゃんという設定にプレイ中はバカ殿と呼んでいた。さっきも内心で呼んでしまっていたが。
一之宮のルートは傲慢な肉食系遊び人の俺様イケメンが桃香の純粋さに振り回され、純愛に目覚め、それまでの女性関係をきっぱりと断ち切り、桃香一筋になっていくという割と王道なものだ。しかし、そんな主人公たちの純愛の影で容赦なく捨てられた一之宮の過去の女たちの嫉妬や恨みが桃香へと向けられる、壮絶ないじめや嫌がらせ、二人を引き裂こうとする罠に翻弄され、桃香の方が身を引こうとしたり、それによって逆上した一之宮が元カノたちを徹底的に破滅させてしまったりする修羅場がある。
もちろん、そんな泥沼ルートを可愛い桃香に踏ませるわけにはいかない。そもそも、取り巻きの彼女たちにしてみれば、「初めて本気で愛せる女に出会った。これからは桃香一筋で生きていく。」の一言で捨てられたら、そりゃ納得できるわけがない。
一之宮石榴の桃香以外への女性の扱いの酷さは人として完全にダメな部類だ。なんでこんなのが攻略キャラにいるんだと思っていたが、世の乙女ゲームプレイヤーには、ヒロイン=自分の図式で、数多の美女を振っても自分(=ヒロイン)に尽くしてくれるようになるイケメンというのが嬉しい人がいるらしい。理解はできないが。
一之宮のルートについてはまずは桃香をあの色情狂に近づけさせないのが最善。その上で取り巻きの女性たちが桃香を逆恨みすることなく、できればあのバカ殿にだけ正々堂々復讐してくれるようになればいい。
というより、いっそあの男が取り巻き連中全員から愛想を尽かされればいいんじゃないだろうか。あの男といても彼女たちの為にならない気がするし、あの男は捨てられる側の苦しみを味わうべきだと思う。
そうやって一之宮ルート回避への作戦を練りながら歩いていたら、ちょうど正門まで来ていた。バカ殿のせいで今日は無駄に疲れたし、帰るか。
こうして私の桜花学園高等部初日は無事?終了したのだった。