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諸事情(一回半分消えた)により更新が大幅に間が開いたこと、お詫び申し上げます。
桜花学園高等部で古典の非常勤講師を務める鵜飼杏一郎は、昼休みのチャイムと共に教官室を出た。普段は適当に買ってきた弁当で済ます昼食を今日に限って買ってくるのを忘れたのだ。仕方なしに食堂にでも行こうと歩いていると、前方を歩く少女に目が留まった。
肩までの黒髪、同年代の女子の中では高い身長、真っ直ぐに伸びた背筋、後姿でも見間違うことは絶対にないであろう、その少女に、杏一郎は声をかけた。
「ま…葛城」
うっかり名前で呼びそうになり、苗字へと呼び換える。校内では苗字で呼ばないと応対しないと真梨香から何度も注意されていたのを思い出したからだ。声をかけられた真梨香の肩がビクリと跳ねる。何か不味い所に声をかけてしまったかと戸惑っていると、真梨香が振り返った。
杏一郎の予想に反して、その顔には穏やかな微笑みが浮かんでいた。歩み寄ろうとしていた足がその場に縫い止められたように止まる。
「鵜飼先生、今からお昼ですか?」
「あ、ああ…葛城は……弁当を持ってどこに行くんだ?」
「私もお昼です。少し生徒会の仕事が遅れているので、生徒会室で作業しながら食べようかと」
確かにこの先の階段を上がれば生徒会室がある。だから真梨香の言葉に疑う余地などないのだが、杏一郎はじっと真梨香の目を見つめる。その顔に困惑が浮かび、先に目を逸らしたのは彼女の方だった。
「あの……何か?」
「生徒会の仕事なら他のメンバーも来るのか?」
「あ、いえ、私の担当分だけなので……」
「しかし昼休みを削ってまでお前ひとりでやる必要は無いだろう。誰かに手伝ってもらった方がいいんじゃないのか?」
真梨香の様子をつぶさに観察しながらそう問えば、伏せたまつ毛の奥の瞳が揺れているのが見えた。
「生徒会で……何かあったのか?」
「何も! ……何もないです。……先生の仰る通り、次からは誰かに手伝ってもらいます。今日のところは急ぎの分だけ済ませます。それでは失礼します」
「待て……おい!」
制止を振り切るように速足で去ってしまった真梨香に、杏一郎の手が空を掴む。
「何が……あったんだ……?」
呟いてみたものの、応える声もなく。杏一郎は硬い表情で食堂へと向かった。
桜花学園の学内食堂は以前は高級レストラン顔負けのランチコースなどがメインだった為、ほとんど内部生しか利用していなかったが、設定価格の見直しやメニューの一新が図られた結果、内部生のみならず外部生の利用者も増え、賑わっていた。
「あれ? 杏一郎先生珍しいですね。食堂にいらっしゃるなんて」
声をかけてきたのは同僚の栗山幸樹だった。杏一郎のもう一人の従妹である葛城桃香の担任でもあり、杏一郎にとっては学生時代からの親友でもある。当然、杏一郎が学園理事の一人である事も知っているし、学内では父方の旧姓を名乗っていることも知っていた。
下がり気味の眉がおっとりとした雰囲気と相まって、生徒たちからは癒し系と呼ばれているらしい。表情に乏しく、人付き合いの苦手な自分にも屈託なく接してくれるありがたい存在だ。
そう言えば、栗山は去年真梨香の担任ではなかっただろうか。しかし、人の多い食堂でいきなりそのことを問うのは憚られた。
「幸樹…先生も今からか?」
言葉を選びつつ問いかければ、栗山は笑って頷いて、食堂の隅の方の空いた席を示した。
「先に席を取って置いてくれませんか? 僕が定食を取って来ますから。日替わりランチのチキンでいいですか?」
「まかせる」
栗山に示された席に着くと、ちょうど周囲に人があまりおらず、小声で相談するには最適な事がうかがえた。どうして自分が相談したがっていると気付いたのだろうと杏一郎が小首を傾げていると、定食のトレーを二つ持った栗山がやってきて席についた。テーブルに置かれたメニューは杏一郎は照り焼きチキンの日替わり定食、栗山はポークソテーの日替わり定食だった。
「で? 相談って? お前の事だから大事な従妹が心配とかいうネタなんだろうけど、僕が担当してるのは今は妹の方だよ。最近は姉の方とはあまり接点がないんだ」
周囲に聞こえない程度に声を落とすと、途端に栗山の口調が砕けた。学内ではおっとりのほほんな癒し系などと言われてはいるが、こちらが杏一郎の知る本来の栗山の姿だ。
口に出す前から相談内容まで察しを付けられて杏一郎は目を丸くした。といっても傍から見れば切れ長の瞳が微かに開いたようにしか見えないのだが。昔からこの親友は、口下手で感情表現の苦手な杏一郎の気持ちを察してくれるのが驚くほどうまい。こんな風に口に出す前から色々と察してくれるのは彼のほかには死んだ叔父と……。そこまで考えて杏一郎は本来の話題を思い出す。
一応周囲に気を配り、栗山にだけ聞こえるぐらいの小声で話し出した。
「葛城……真梨香が元気がない」
「そうか? 今の時期、生徒会は忙しいから確かに疲れているかもしれないが、最近遠目に見た限りでは元気に笑っていたぞ?」
「笑っている……が、元気じゃない」
先ほど廊下で見た真梨香の微笑みを思い出す。今までだったら彼女は学内で杏一郎に遭遇すると決まって気まずそうな表情になる。話しかければ困っている事を隠しもしない様子で眉を寄せていたりするし、絶えず周囲に人の目がないかを気にするのだ。そのくせ、不意に柔らかく表情を綻ばせる瞬間がある。会う回数が増えればその機会も増え、まるで警戒心の強い野生動物が段々と懐いてくれているような感覚で、校内で見かければできるだけ声をかけるようにしていた。
その都度困らせている自覚はあったが、学外で会おうと言っても断られ続けている意趣返しもあって、杏一郎は真梨香へ声をかけることを止めるつもりはなかった。
「本当の真梨香の笑顔は……違う」
「……へぇ…」
付け合わせのポテトサラダをつつきながらぽつりと呟いた杏一郎に、栗山の何とも言えない相槌が零れる。傍目には無表情にしか見えない杏一郎だが、見るものが見れば、目が口以上にものを言っており、非常に分かりやすいのだ。今も、表情だけは無表情に、全身から甘ったるい空気を醸し出している。器用何だか不器用なんだかわからない。栗山は内心で苦笑した。
「妹の方はなぁ、腕を怪我してすぐの頃は結構落ち込んでいたんだが、部活に復帰してからはだいぶ元気になったみたいだけどな」
「そうか……」
「……杏一郎はさぁ、妹の方にはあまり興味を示さないんだな」
栗山の言葉に杏一郎がぽかんとした顔を上げる。どうやら自覚がなかったらしい、と栗山は苦笑しつつ、自分のプレートをつつく。杏一郎は暫く困惑したように視線を彷徨わせていたが、やがて小声で言い訳めいたことを口にした。眉間にしわが寄っているのは自分でも上手く誤魔化せていないと自覚しているからだろう。
「桃香は……俺の事を覚えてはいない。真梨香からも烏森の家のものとして桃香や柚子さんに接触するのはやめてほしいと頼まれている」
杏一郎が従兄として桃香に会ったのは、彼女がまだ6歳の時だ。杏一郎自身も高校生だったし、今とは印象も異なっているだろう。何度か授業で顔を合わせても、桃香は杏一郎に対して何かに気づく様子は一切なかった。
真梨香の父親である椿の事故の後、椿の実家である烏森家の長女、梅香は長男の杏一郎と共に葛城家に乗り込んだ。そこで杏一郎が見たのは真っ赤に目を腫らしつつ気丈な振る舞いを見せる椿の妻、柚子と、泣きじゃくりながら棺に取り縋る桃香、そして壊れた人形の様に無表情に通夜の席に座る真梨香の姿だった。
涙の痕もなく、ただ茫然と座す姪に梅香はヒステリックな罵声を浴びせかけた。柚子にも彼女の所為で弟が不幸になったのだと罵り続けた。傍で聞いていた杏一郎でさえ耳を塞ぎたくなるような面罵を受けている間、真梨香は微動だにしなかった。
そんな彼女が動いたのは、梅香が椿によく似た桃香を引き取りたいと言い出した時だった。それまでピクリとも動かなかった真梨香が突然梅香の前に進み出ると、床に頭を擦りつけたのだ。
『桃香を、連れて行かないでください。父を失った母から、桃香まで取り上げないでください……。その代り……私が伯母様の元に参ります。父を……葛城椿を失ったすべての償いは……私がします……』
その言葉を聞いた時の梅香は、獲物を見つけた肉食獣のようだったと、杏一郎は自分の母親の事ながら苦々しく思い出す。そして、すべての償いを背負おうとした幼い少女がその顔を上げた時に見せた、異常なほどの目の輝きも。
生きることを放棄していたようにすら見えた少女が、たった一筋の希望を得たかのように罰を求める様は、高校生だった杏一郎の目に強烈に焼き付いた。
結局、真梨香の養子話は桃香が彼女に縋りついて引き留め、柚子も子供は二人とも手離す気は無いと一蹴したことで立ち消えになった。梅香は強引な手法で椿の遺体を引き取り、烏森家の名で葬儀を執り行うと、その遺骨も烏森家代々の墓へと納めてしまった。溺愛していた弟相手とはいえ、その異常なまでの執着は杏一郎が彼女を嫌厭する理由の一端となった。
「真梨香は……家族に心配をかけたがらない。…いや、誰に心配されるのにも遠慮がちだ……。だが俺はあいつが心配でならない」
「……それは従兄として、か?」
「…………どうだろうな……」
自嘲気味に溜息をつく親友に、栗山が呆れたように天を仰ぐ。
「……そんなに心配なら葡萄先生に相談してみたらどうだ? あの爺さんは生徒会顧問だし、僕なんかよりよっぽど姉の方と日頃から接点が深いだろう」
「木田川先生か……そうだな、訊いてみる」
「あとは、姉の方との約束を破る覚悟があるなら妹の方に直接聞いてみるとかな。僕は単なる担任だから、あまり家庭の事情に踏み込むわけにはいかないし、従兄としてなら何か話してくれるかもしれないぞ?」
「それは……最終手段だな。できることなら真梨香を怒らせたくはない」
杏一郎の言葉に栗山はあー、はいはいと頷いて、自分のランチプレートからデザートの小鉢を杏一郎の方へ移してよこした。きな粉黒蜜がけのわらび餅は杏一郎の好物だ。実のところさっきから無表情のまま視線だけがちらちらとその小鉢を見ていたことに栗山は気づいていた。
「……?! いきなりどうした?」
「いやぁ、僕は甘いものそんなに好きじゃないからな。お前が食うと良い」
「……いいのか? それなら俺の杏仁豆腐と交換を……」
そう言いつつ、杏仁豆腐も好きな杏一郎は無表情のまま葛藤する感情を栗山に如実に伝えてきていた。つくづく器用で不器用なやつだと苦笑いしながら差し出された杏仁豆腐を突き返す。
「甘いものは苦手だって言っただろ。いいから両方食えよ」
「………ありがとう」
まるで花でも咲いたかのような空気を漂わせ、無表情に二つのデザート小鉢を見つめる杏一郎に、栗山は彼に聞こえないように心の中で呟いた。
「全く……杏一郎が葛城姉の事を語る表情だけで胸焼けがするっての……」
放課後の武道場に鋭い掛け声がこだまする。厳しい練習を終え、全員整列をしたところで、主将である津南見柑治は前に出て部活終了前の連絡事項を伝えた。
「次の地区予選代表メンバーに入った奴は基礎練のほかに個人練習用のメニューを今週中に俺か副主将まで提出しろ! その際内容に不安があるものはいつでも相談に来い。明日はOBの木通先輩もいらっしゃるから、そちらに相談してもいいぞ、ただし、あの人のメニューは強くはなるが死ぬほど厳しい事を覚悟して臨めよ。それじゃあ今日はこれで解散する!! 全員、礼!!」
「ありがとうございました!!!」
武道場を揺るがす大音声の後、津南見はさっそく部員たちに囲まれていた。
「なぁ、津南見、俺のメニューなんだけど、下半身強化を重点的に取り入れたいんだけれど……」
「オレは上半身のバランスに弱点があるから克服したいんだがいいトレーニング知ってるか?」
「先輩、僕は体幹をもっと鍛えたいんですけど、どうしたらいいですか?」
「実戦を見据えた立ち合いげいこも増やしたい。できれば柑治か木通先輩に見てもらいたいんだよな。……時間は取れるか?」
一つ一つに丁寧に答えていたら、外は既に日が沈みかかっていた。
「よし、お前らさっさとシャワー浴びて帰れ!! 明日の朝練も遅れるなよ!」
全ての部員を追い出し、最後に武道場の鍵を閉める。自分も早く汗を流さなくてはと振り返った先に、小柄な少女が立っていた。後頭部で結われた髪に付けられたシュシュの飾りが今にも沈みそうな夕日の最後の光を浴びて煌めいた。
「お前は……」
「先輩に……折り入ってお話があります」
少女の唇が弧を描く。
「お話というのは他でもありません……葛城、真梨香について、です」
「あいつに……ついて……?」
津南見の手の中で、握りしめられた鍵束がチャリ…と音を立てた。
風紀委員会委員長、菅原棗は放課後の仕事を終え、職員室を後にした。朝の荷物検査で没収した品物を放課後風紀委員会室で返却する。もちろん返却には規定に従って書くことになっている反省文と引き換えという条件があり、返却不可となった物品は反省文が提出されるまでは職員室の専用金庫に預けることになっているのだ。
「まあ、今日は殆どの連中が真面目に反省文提出してくれて助かったけどな」
「棗が当番だと提出するまで追い掛け回されるからでしょう?」
職員室で行き会った監査委員会委員長の五葉松亜紀は隣を歩く幼馴染にからかいを含んだ笑みを向ける。昔から真面目な菅原は風紀委員長に就任してから益々その性格に拍車がかかった。それでも、面倒見がよく、気さくな性格ゆえに後輩からの人気は絶大だ。
「そりゃぁ、没収品返されなくて困るのは本人だからな。早々に反省文提出させた方がいいだろう?」
「でもそう言ってちゃんと最後まで面倒を見てあげるのが貴方の良い所よね。まるで彼らのお母さんね」
「それ、寮でも言われるんだよな。男しかいないのにかーちゃんに見張られてる気分だと」
むっとした様子で眉を寄せて語る菅原に亜紀が思わず吹き出す。肩を震わせ、くすくすと笑う亜紀に、菅原も苦笑いを浮かべて見せた。
「俺が卒業したらあの寮はもうカオスになるだろうな。次の風紀委員長は寮なんぞには絶対入らないだろうし、寮長の後釜も探しておかないとなぁ……」
「生徒会に寮が一緒の子がいるって言ってなかった?」
「小林はな~、むしろ男所帯のカオスを拡大させる気がしてならんのだよなぁ……」
人懐っこくはあるものの、その分先輩後輩構わず巻き込んで寮内で悪ノリの過ぎた遊びを思いついては敢行する後輩の顔を思い浮かべて菅原の口から深いため息が零れる。それを見て亜紀は益々笑い転げた。
「ふふっ……男子寮って楽しそうねぇ」
「楽しいもんか。毎日戦争みたいだぞ」
「でも小林君なら葛城さんから頼んでもらったら真面目に引き受けてくれるんじゃないかしら? ……棗?」
何気なく言ったはずの亜紀の言葉に、菅原の足が止まってしまう。訝しげな亜紀の様子にも気づかぬ様子で呆然と立ち竦む菅原に数歩先に行ってしまった亜紀が振り返った。
「棗? どうしたの?」
「なぁ……亜紀、お前の目から見ても、あいつらは……その……そう見えるのか?」
菅原の脳裏には休日に二人でいたという真梨香と小林の姿が浮かんでいた。途中で行き会ったという倉田たちも一緒にはいたが、元々は二人で待ち合わせていたのだと聞いた。それはつまりデートというものではないのだろうか……。
「元々小林は傍目にもあからさまに葛城に懐いてはいたが……あいつの方はどちらかと言えば迷惑そうに見えたんだが……」
「……棗はよく見てるようで鈍いから」
そう言いながら亜紀は菅原に背を向けた。静かな声は凪いでいて、菅原には亜紀がどんな顔でそう言っているのかは見えなかった。
数日後、桜花学園体育祭が目前と迫ったある日、代議会定例議会に於いて、生徒会副会長、葛城真梨香の不信任案が提出された。提出者は三年生の甜瓜薔子、議案は真梨香が生徒会室を私物化し、規定時間外にも入り浸っている件、また生徒会室に隣接した資料室から重要な書類がいくつか紛失しており、真梨香の関与が疑わしいというものだった。