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「流石にいきなりだし、男の子の家でしょう? ご迷惑じゃない? って言ったら『苺ちゃんも一緒だから大丈夫』って言って切られちゃったのよ。こっちからかけ直しても電源切っちゃってるみたいで……」
反抗期かしら、と溜息をつくお母さんを横目に急いでスマホを取り出して桃香の番号へとかける。けれどお母さんの言ったとおり、電源が入っていないことを知らせるアナウンスが聞こえるだけだった。すぐさま今度は小林の携帯へかけようとして、その手が止まる。
桃香が帰ってこなくて、小林に電話をかけるという自分の行動が、記憶の片隅の何かに引っかかった。背筋が凍り付くような感覚に、心臓が嫌な音を立てた気がした。けれど、ともかく小林に連絡を取らないことには始まらない。再び小林の番号を表示し、コールボタンを押した。
『はい?』
数回のコール音の後、聞こえてきたのは小林の声ではなく、しっとりと艶を帯びた女性の声だった。どこか聞き覚えがある…。
『姫林ですけど……どちらさん?』
少し関西方面の訛りのある喋り方に、声の主が誰だか思い当たって冷汗がドッと背中を伝い落ちた。スマホを握る手に力がこもる。震えが声に出ないよう気を付けて、問いかけに答える。
「葛城…真梨香と申します。……あの…こば……檎宇くんはどちらに?」
『葛城…真梨香て……アンタが檎宇の…? まぁ、うちの子がいつもお世話になってます。檎宇の母で安祈世いいます。檎宇やったら今席外しとるけど、すぐ戻ってくるからちょっと待っててな』
小林檎宇の母親という事は、もしかしなくても姫林組の姐さんという…リアル極妻さんですよね。確か前世の記憶に寄れば着物を粋に着こなした美女で、小林の事をとてもかわいがっていた筈……私の事をどう聞いているか知らないが、小林が学校を休むほど傷つけたのが私だと知られれば恐ろしいことになるんじゃないだろうか…。掌にじっとりと汗が滲むが、小林に電話をかけた本来の目的を思い出して、思い切って彼女に尋ねてみることにした。
「……はい…。あ、あの…すみません。つかぬ事を伺いますが、そちらにうちの妹とその友人がお邪魔してないでしょうか?」
『うちに……? いえ、学校の子らにはうちの事は言うてないって……真梨香さんだけとちゃいます? うちの稼業知ったはるの』
「稼業って……」
『さっきうちが姫林って名乗ったのに何も言わへんかったん、檎宇から聞いてたんやろ? 本名と、うちの事』
そう言えばうっかりスルーしてしまっていた。元々彼の本名は知っていたし、実際本人からも聞いてはいるけど、よくよく考えたら私以外の桜花の生徒たちは桃香も含めて小林の実家の事はまだ知られていないわけで、そんな状況で桃香と倉田さんが小林の家に泊まるなんて言うこと自体不自然なのだ。再び嫌な予感が胸の奥からせり上がってくる。
「……もう一度聞きますけど、うちの妹も、その友達も、お宅には来てないんですね?」
『ええ…あ、檎宇。電話やで、真梨香ちゃん』
『おふくろ?! 人の部屋で何やって…?!!』
安祈世さんの声が少し通話口から逸れたかと思うとガサバサと音がして、聞きなれた声が耳元で響いた。
『真梨センパイ?!! どうしたの? なんかあった??』
その口調には気まずさとか遠慮めいたものは感じられない。あの給湯室でのことなどまるで無かったかのように、普通に心配そうな様子で尋ねてくる小林の声。胸の奥が針で突かれたように痛む。なかったことにできるなら、その方がいい事の筈なのに。
「……桃香が…帰って来なくて……小林君の家に泊まるって、電話が……その後連絡が取れないの」
『妹ちゃんが?!! それいつの事? 何か他には言ってなかった?』
「電話を取ったのはお母さんで……」
傍らのお母さんにも聞いてみるけれど、最初に聞いた以上の事はわからなかった。そう伝えると小林は電話の向こうで沈黙してしまう。その間も私の心臓は嫌な音を立てつづけている。桃香の不在、家族の電話、小林……。
私の脳裏にある事が閃いたのと、小林が低く地を這う様な声を発したのはほぼ同時だった。
『真梨センパイ……少し待ってて。絶対に妹ちゃんを無事に家まで送り届けるから』
「待って!! 私も連れて行って!!」
私は小林の言葉に被せる勢いで叫んでいた。桃香の行方不明、家族からの電話、小林のキーワードで浮かんだのは、ゲームの中で起きるあるイベントだった。本来は桃香が小林のルートに入っている状態の終盤、11月ごろに発生するはずのイベントだったことと、ゲームでは当然桃香の視点で見ていたので、咄嗟に思い出せなかったのだ。
「……桃香は、連れ去られたんでしょう? ………あなたの異母弟の、北斗くんに」
『なんで……弟の名前……』
「あとで、全部終わったら話すわ。それよりも、桃香の事が先」
『妹ちゃんの事心配なのはわかるけど、連れて行けないよ。堅気の人間を巻き込むわけには…』
「巻き込まれているのは私の妹よ!! その時点ですでに私は無関係じゃないわ」
小林ルート終盤、桃香は学校帰りに一人で歩いているところを姫林組の人間に拉致される。主犯は小林の異母弟、北斗とその母親で小林の父親の愛人、涼香。物語序盤は奇行を繰り返す小林がいずれ跡目を外されるだろうと静観していたところ、桃香との出会いで更正していくうちに、跡目争いに危機感を抱いて、小林を脅す為、桃香を人質にしようとしたのだ。
ゲームの中で桃香を助けに現れた小林が『桃香の家から彼女が帰ってないと電話があった。俺の家に行くと言い残して切れたって言われてピンと来たんだ』という台詞があった。時期以外はまさしく今の状況と合致している。
このイベントは、そこに至るまでのプレイ状況で結末が2つに分岐する。なぜこんな時期に発生してしまったのかわからないけれど、このままでは……。
「…連れて行かないって言うなら、勝手に一人で行くわ」
さっきはうっかり弟の名前を出してしまったが、実際の家の場所まではわかるわけがない。ゲームでは場面転換によって場所が変わるので、途中の道筋などわからないからだ。それでも、弟の名前を知っていた私が勝手に行くと言えば、何も知らない小林から見れば、私が北斗の居場所を知っているように見えるだろう。
『一人でなんてそれこそ駄目だ。……わかった。迎えを寄越す。だからそれまで絶対に無茶はしないで』
「……私を迎えに行くと言って一人で先に行ったりしたら、私も一人で動くわよ」
『…迎えの車に俺も乗る。一緒に行くんならいいんでしょ?』
小林は舌打ちでもしそうな勢いで溜息をつきながら、最終的には折れてくれた。それでも本当に迎えが来てくれるかは半信半疑だったけれど、電話の後10分ほどして、家の前に目立たないグレーの車が止まった。目立たないとは言ってもガラスはスモークだし、よく見ると厚みも通常の車の倍くらいありそうだ。いわゆる防弾仕様と言うやつかもしれない。後部座席のドアが開いて、小林が顔を出す。その隣に滑り込めば、ドアは閉まり、車は殆ど音もなく滑るように動き出した。
「…センパイの電話の後、北斗からメールが来た。『大事な話があるから家まで来い』…で、添付されてた画像がこれ」
見せられたのは手足を縛られ、猿轡を噛まされた桃香と倉田さんの姿だった。幸い見たところ怪我も無いし、服装も乱れてはいない。イベントでも小林が助けに行くまで暴力を受けるなどの描写は無かったけれど、ひとまずホッと息を吐く。
怪我がないとはいえ、桃香と倉田さんは今も怖い思いをしているだろう。早く助け出さなくては……。そして……。
私は隣に座る小林を見る。不機嫌そうな表情は、私が無理を言ってついてきたからだろう。けれど、どうしてもついて行かないわけにはいかなかった。このイベントの結末は、小林の桃香への好感度で分岐してしまうのだ。小林は桃香に対しては仲のいいクラスメートだと断言していた。だとするなら、このまま小林だけを行かせてしまえば…………。
「……センパイ。そんなに見つめられると、勘違いしそうになる」
「勘違い……?」
「……ですよね~。あのさ、センパイ忘れてるかもしんないけど、俺一応アンタに振られた身なんだよね」
そう言われて、そそくさと目を逸らす。小林があまりにも普通の態度だったもんだから、うっかりしていた。確かに私は彼を手酷く拒絶した。本来ならこんな我儘な要求だってできた身の上じゃぁない。そう思って俯いていたら、なぜか隣から重い視線を感じる。横目で様子を窺えば、今度は小林がこちらをガン見していた。
「……何でそんなじろじろ見るの? 私の事は顔も見たくなくなってたんじゃないの? だから学校にも生徒会にも来なかったんじゃ……」
あの給湯室の一件以降、小林は学校を休み、寮から実家に戻っていた。私が酷い事を言ったから、顔を合わせたくないのだろうと思っていたんだけど…。そう言うと、小林は驚いた顔をして暫しあんぐりと口を開けていたかと思うと、笑いだした。
「そんな風に気にしてたの?! リョーチョーから聞いてない? 俺、風邪で寝込んでたんだよ。ガチの風邪で、移るといけないから、実家で安静にしてろって言われて、今朝やっと医者からもう大丈夫だろってお墨付き貰ったところだったんだよ」
つまり、小林の風邪は本当に風邪で、私が傷つけたからサボっているなんていうのは私の自意識過剰も甚だしい勘違いだったってこと?! 恥ずかしさで頬に熱がのぼってくる。小林の方を見ていられなくて、そっぽを向いたら、車のウィンドウに熱を帯びた眼差しでこちらを見つめる小林が映っていた。スモークの張られた窓は、内側は鏡のようになっている。これでは視線をそらした意味がない。俯いて自分の膝でも見てやり過ごそうとしたら、背中に暖かいものが触れた。そのまま包み込むように抱きしめられる。
「あ~~~…久々のセンパイだぁ~」
「小林君?! 何を…」
「……確かに傷ついたけどさ。俺を拒絶してるときのセンパイ、自分で自分にナイフ突き立ててるみたいな顔してて……あのまま聞いてたらきっと俺は無理矢理にでもセンパイを手に入れようとして酷い事してたと思うし、一度頭を冷やさなきゃって、寮に帰って水をひたすら被ってたら風邪ひいた。……馬鹿みたいだろ?」
首筋にかかる吐息は熱くて、まだ熱が下がってないんじゃないかと思えた。身を捩って離れようとしても、がっちり抱き込まれていて離せない。
「小林君……まだ熱が…」
「あったとしてももう風邪のせいじゃないよ。この熱はアンタのせいだ」
「お願い………離して」
壊れそうに鳴る心臓の音がうるさくて、苦しい。まるで私の方が熱を出したみたいに顔が火照る。
「変でしょ。あんなに酷い事言う女のどこがいいの。自分勝手で、暴力的で、自己中で、こんな女追っかけてても何もいい事なんかないのに」
「自分勝手で、暴力的で、自己中で、酷い事言うところって言ったら?」
「……小林君って…マ」
「違うよ。確かに先輩はすぐに暴力に訴えるし、一人で突っ走るし、度を越したシスコンだし、鈍感だし、意地の悪い事言ってきたりするけど」
更に強い力で抱きしめられて、なんだか抱きしめられてるんだか絞め技掛けられているんだかわからなくなってくる。わかるのは、小林の心臓も、同じくらいドキドキと鳴っているという事だった。2人分の心音が一つに重なっていくのは、懐かしい気持ちと切ない気持ちを起こさせる。
「本当は弱くて、理想に届かない自分に苛々してたり、それでも必死でもがいて、足掻いて、かっこ悪く頑張ってるアンタにどうしようもなく……」
「もういい! もうわかったから…離して…」
これ以上聞いていたら確実に心臓が爆発して死ぬ。じたばたともがきながら必死で言い募ったら、案外あっさりと小林の腕は離れていった。元の位置に座り直した小林を怪訝な気持ちで振り返ると、したり顔で微笑み返された。
「分かってくれたんなら、今は、いいや。それより、本当についてくる気? 北斗は、まあともかく、涼香さんって結構怖いお姉さんだよ?」
「それならなおの事、行かなきゃ。桃香も私のこと心配してるだろうし」
「攫われた方が残された方心配してるって言うのもどうなのそれ。…つか、そんだけ妹ちゃんに愛されてる自信はあるのにどうしてそれ以外の好意に鈍感なの?」
「そりゃあ、私は桃香のお姉ちゃんだもの」
お父さんの死に、自暴自棄になりそうだった私に、生きる意味と居場所をくれた。桃香が姉としての私を求めてくれたから、今の私があるのだ。
「桃香の事だから、自分が攫われたことで、私やお母さんが心配しているだろうなって事を気に病んでる。少しでも早く安心させて、助け出さないと」
「…やっぱ一番のライバルは妹ちゃんかぁ~」
そんなことを話しているうちに、車はとある高層マンションの前についた。外観はゲーム画面で見たのとそっくりだ。私達を乗せてきた車の後ろにいつの間についてきたのか、2台の車が止まって、中から前にもあった事のある小林の実家の構成員2人組と、他にも数名が出てきた。彼らはエントランスではなく裏手へと何人かが回って行く。
小林と共にエントランスに入ると、奥へと続く自動ドアの前にはセキュリティパネルが設置されていた。暗証番号を入力するか、住人の番号を呼び出して中から開けてもらう仕組みであるらしい。エントランスにいくつも仕掛けられている防犯カメラには小林と私の二人が映っているだろう。
小林は無造作にいくつかの数字を入力する。自動ドアが滑らかな動きで開く。
「暗証番号知ってたの?」
「親父の携帯のメモ帳に載ってた」
「……そんなセキュリティがばがばで大丈夫なの?」
「直接見たのはお袋だよ。寝てる隙に指紋でロック解除できるからって」
愛人関係の情報をしっかり奥さんに把握されちゃってるのかぁ…。ちょっとだけ姫林の組長さんに同情する。
エレベーターで最上階に上がり、奥の角部屋へとまっすぐ進んだ小林は私にドアの影に潜むよう指示して、ポケットから何かの道具を出したかと思うと、ものの数秒で鍵を開けてしまった。
「小林君…それ……」
「うちの幹部でなぜかこういうのが得意なやつがいて、小さい頃に面白半分に仕込まれた。…まさか役に立つ日が来るとは思わなかったけど」
ゲームで小林が北斗の部屋に飛び込んできたとき、どうやってセキュリティやら部屋の鍵やらを突破してきたのかが明らかになった。音を立てないようにドアをそっと開けると、中から北斗の癇癪が聞こえてきた。内容からすると、母親の涼香は不在の様だ。……まあ彼女がいないのはゲームと同じなので驚きはしないんだけど。
「お前らに僕の何が分かる!?? 小さい頃から母さんには檎宇に負けるな、あいつを追い落とせとばかり言われ、時々しか顔を見せない父親からはお前は2番目だから余計な真似はするなと脅され、それでもやっと檎宇が家を出て学園の寮に入った後、僕にも跡目の可能性が出て来たって護衛が増やされ、母さんも喜んでて……なのにあいつが急に実家に戻ってきたりするから!!」
どうやら小林が風邪で実家に帰省していたことが北斗派に余計な疑いを抱かせてしまったらしい。……えっと…間接的に私の所為…? 一瞬血の気が引いた私に気づいた小林が耳元で囁きかけてくる。
「センパイの所為じゃないよ。風邪ひいたのは俺の自業自得だし、そもそも長男が実家に療養で戻ったくらいで跡目問題がひっくり返るなんて思う方が悪い。俺は跡目は継がないって決めてるんだから」
低くかすれ気味の声は優しくて、焦った心を宥めてくれたんだけれど、同時に車の中で抱きしめられた熱を思い出して耳が熱くなった。今度から小林には耳ツブ禁止を徹底させよう。でないと心臓が持たない。
「……坊ちゃん、全員配置に着きやした」
いつの間に上がってきたのか、姫林組の凸凹コンビの一人が小林にそう報告をしてきた。小林は頷いて半開きのドアを掴む手に力を込める。その時桃香の声が聞こえてきた。
「…っそんなの、あなたの勝手な思い込みじゃない!! 小林君は真面目で優しい人よ!! 人を蹴落としたりする人じゃない!! ちゃんと本人と話し合いなさいよ!!」
「だから今から話し合うんだろ!? 今後一切僕の邪魔はしない、家とも縁を切って二度と戻って来ないって念書を書いてもらうんだよ。君たちの無事と引き換えにね!!」
「それは話し合いって言わないわ!! 一方的な脅迫よ! そんな卑怯な真似をしなきゃ後継ぎになれないような人が組長になったって碌な事にならないわ!!」
「こいつ…っ!!」
「きゃぁっ!」
桃香の悲鳴が聞こえた瞬間、私は小林の横をすり抜けて、部屋の中へと飛び込んだ。奥のリビングでは縛られた桃香と倉田さんに、やせ気味の少年が掴みかかっている。その周りには何人かの手下と思われる男たちがいたけれど、皆突然の侵入者に呆然としている。
「桃香から離れなさい!!」
「センパイ! いきなり俺より先に飛び込まないでよ~!!」
後から来た小林とその護衛達の姿にやっと状況を把握したのか少年の周りを固めるように手下が臨戦態勢で構える。その後ろの桃香たちの様子を確認すると、髪を掴まれたのか、ポニーテールが少し乱れているが、殴られたりした様子はない。ぎりぎり間に合ったようだ。
「お姉ちゃん!?」
「真梨香先輩!??」
驚きに目を見開いている二人ににっこりと笑いかけてやる。
「もう大丈夫よ」
「何でお姉ちゃんが此処に!?」
「なんて無茶してるんですか!?」
二人共から一斉に怒られてしまった。怒る元気があるって事は拉致されてからもそんなに消耗はしてなかったようだ。二人ともが無事なら、後でいくらでもお説教を受けよう。私はホッと息を吐いていかつい男たちに囲まれた小柄な少年、北斗へと向き直った。
「初めまして、あなたが攫ってくれた葛城桃香の姉で、倉田苺さんの友人、葛城真梨香と申します」
「あ…アンタが葛城真梨香……? 報告書には小柄で可愛いってあったのに……?!」
「生憎、小柄でも可愛くも無くて悪かったわね」
「センパイは充分小柄じゃん。…俺に比べれば」
「小林君、ちょっとややこしくなるから黙ってて。……もしかして、その報告書を見て桃香を拉致したの?」
黙り込む北斗の様子からどうやら図星だったらしい。つまり本来なら私が攫われる予定だった、と。隣に立つ小林のこめかみがピクリと引き攣るのが視界の端に見える。
「まあ、間違いは誰にでもありますので、取りあえずすぐさま妹と友人を解放していただけないかしら? 兄弟げんかは二人だけで思う存分して頂戴」
「喧嘩なんて野蛮な事僕にできるわけないだろ!?? 檎宇と僕じゃ熊と子猫ぐらい差があるんだから!!」
「人質攫って脅迫の方がよっぽど野蛮だと思いますけど」
「うるさいうるさい!! お前みたいなメスゴリラにか弱い僕の気持ちがわかってたまるか!! 愛人の子ってだけで立場も弱くて、母さんは安祈世さんの恨みと愚痴ばっかり言ってるし、僕が組を継ぐことだけが母さんの希望なんだ!!」
癇癪を起して喚く北斗に、こちらの気持ちは逆に冷えて落ち着いていく。隣に立つ男の怒気が膨れ上がったのは感じたが、それ以上に北斗の背後にいる桃香たちの表情が怖い。それにしても…メスゴリラか……女狐ならさんざん言われてきたけれど……斬新な意見だな~。
「北斗……言いたいことはそれだけか?」
「ひっ………な、なにを怒って……女を貶されたからか? こんな身長馬鹿でかくて見るからに強そうな女が好きなのか?! そう言えば少し安祈世さんに似てるもんな、このマザコン!!」
どうやら北斗という男は絶望的に状況に応じて口を慎むという事ができない性質であるらしい。この時点で私は隣の男の様子を窺うのもやめたし、桃香と倉田さんも目を逸らしてしまっている。
「もう一度言うぞ……言いたいことはそれだけか?」
小林の二度目の声は溢れ出る怒気を隠す気も失せたと言わんばかりの獰猛さで、正面から睨み据えられた北斗がブルブルとチワワのように震えながら護衛の影に隠れようとする。
「……北斗、何度でも言うが、俺はあの組の後を継ぐ気は無い。親父とも話は付けているし、おふくろも納得してくれている。お前が言うんなら念書でもなんでも書いてやってもいい…………」
護衛の影から北斗がちらりと顔をのぞかせる、一瞬期待に輝いた目は、小林の表情を見て再び青褪めた。そりゃぁそうだろう。横目に見てても直視しづらいほど憤怒も露わな表情で、声だけ穏やかに話しかけてるとか怖すぎるから。
「ただし、その場合、お前はちゃんと覚悟を決めないといけないんだぞ。組を背負い、代紋を背負って立つって事がどういうことか。お前の背に、手に、頭に、組員たちの命も、姫林の矜持も、何もかもが被さってくるんだ。そうなればもう涼香さんの所為にも、親父の所為にも、もちろん俺の所為にもできない。お前がすべての責任を負う立場になる。親父がお前を跡目だと明言しないのは、お前にはまだ選ぶ余地を与えようと思ってるからだ。俺の時みたいに本人の意思を無視して跡目を押し付けることのリスクを理解したからこそ、お前にも自分の意志で将来を選ばせようと思ってるからだ」
北斗を怒鳴りつけでもするのかと思っていた小林の口から出たのは冷静な、諭す様な言葉で、ブルブルと怯えていた北斗も意外そうに小林を見つめ返している。
「正直、お前は喧嘩も弱いし、見た目にも舐められやすい。お世辞にもヤクザな仕事が向いてるとは思えない。それでも跡目を継ぎたいって言うなら、それは涼香さんの為でも、俺への対抗心でもなく、お前自身の意志じゃなきゃ、やってられない。親父だって、お前をむざむざ危険な稼業に就かせたくないから跡目に指名をしてないんだ。お前、意外とかわいがられてるんだぞ」
「う……嘘だ…。会うたびに檎宇みたいにでかくなればとか、檎宇みたいに強けりゃなとか、檎宇は頭も切れるのに、とか、ダメ出しばっかりで……」
「その辺の不満は親父本人にぶつけろよ。アイツ俺には北斗の半分も可愛げがあればとか、図体ばかりでかくなりやがってとか、北斗は俺の話にも付き合ってくれるのにとかしか言わないぞ」
小林の言葉に北斗が目を見開く。緊張が解けたのか、その場にへなへなと座り込んでしまった。首謀者が戦意を喪失しているのを見て、外で待ち構えていたのだろう小林側の組員が部屋になだれ込んでくる。北斗の護衛はあっさりと取り押さえられ、桃香と倉田さんの縄も解かれた。
ここまでは、多少台詞の違いはあれど、ゲームとそう変わらない展開。問題はこの後だ。私の意識が無意識に窓の外へと向かう。向かいのビルの屋上へと目を凝らした瞬間、凸凹コンビの片割れの携帯が鳴り響いた。
「なに?! そうか、わかった。ふんじばって事務所に連れて来い。ああ、頼んだぜ」
電話を終えた彼が小林にニヤリと笑って報告を上げてくる。
「坊、向かいのビルでライフル構えてた男を取り押さえました。この部屋を外から狙ってたみたいです。そこの姐さんのアドバイス通りでした」
その言葉に、今度こそ安堵の吐息が零れた。
このイベントでは、小林の桃香への好感度が足りないと、北斗を取り押さえ、油断した瞬間に、小林が窓の外から狙撃され、大怪我を負う。その後、入院した小林とのエピソードやら何やかんやあって、このままでは小林も桃香も危険と隣り合わせになると思った二人は手に手を取って家族や友人とも縁を切り、逃避行を選ぶ駆け落ちエンドへと向かうのだ。
この場所に来たとき、小林と幹部のお兄さんの一人には周囲のビルに警戒した方がいいと言って、調べてもらうよう進言していた。実際に現場に来ないとマンションの周囲のビルや、部屋を狙える位置が分からなかったので、ここまで無理矢理ついてきたのだ。
「小林君……無事で良かった……」
「? 言う相手違くない? ほら、妹ちゃん、怪我がなくて良かったね」
小林の言葉に、顔を上げると桃香がムッとした表情で歩み寄ってくる。ああ、これは危険な取引現場についてきたことを怒ってらっしゃるね。とはいえ、小林も桃香も無事だったのだから、今ならお説教タイムも甘んじて受ける気になれる。
「桃香…ごめんなさい……無事で良かっ…」
その時、連行されようとしていた北斗の護衛の一人が急に暴れ出した。大人しく連れていかれるそぶりだったことで油断していた小林側の組員はうっかり振りほどかれてしまう。ゲームには無かった展開に驚く暇もなく、男が懐から取り出した銃が私たちのいる方へ向けられる。
「危ない!!!」
叫んだのは誰だったのか、あるいは全員だったのか、耳をつんざくような轟音が響き渡って、花火の時の火薬に似た匂いが立ち込める。どたばたと周囲を踏み荒らす足音、この野郎とか、怒号も聞こえてくる。
目を開けて周りを見ると、銃を打ってきた男は小林側の組員に数人がかりで押さえつけられていた。今度こそ逃げられないだろう。そして、私はといえば、誰かの躰を下敷きにしていた。身を起こそうとしたら、長い腕が引き留めるように抱きしめてきた。
「真梨センパイ……怪我はない?」
「ええ…私は何とも…小林君も大丈夫…そうね」
「真梨センパイが押し倒してくれたからへーき、ちょっと頭打ったけど~」
にへら、と笑う顔から、本当に怪我はしてなさそうだとホッとした瞬間、倉田さんの悲鳴が耳に突き刺さった。
「桃香ちゃん!! 血が!!!」
振り返ると視線の先では右肩を押さえた桃香の姿があった。指の隙間から血が零れている。床に仰向けの倉田さんに圧し掛かるような桃香の体勢から、桃香が彼女を庇って怪我をしたのだという事が分かったけれど、私の心はそれどころではなかった。
「桃香――――――!!!」
慌てて駆け寄って怪我の様子を確かめる。どうやら銃弾が二の腕を掠めて行ったらしく、皮膚が抉られている。幸い骨には異常はなさそうなのと、筋肉の深いところまでは傷つけてはいないようで、腕を動かすのにも支障はなさそうだ。けれど、それでも血は溢れてくるし、きっと傷が残ってしまうだろう。全身の血が音を立てて退いていく錯覚を起こすほど、私は動揺し、その傷から目が離せなくなる。止血のために抑えた手が桃香の血で赤く染まって行く。
「ごめん……ごめんね………」
「何でお姉ちゃんが謝るの? お姉ちゃんの所為じゃないのに…お姉ちゃんこそ怪我がなくてよかっ…」
「良くないわよ!!! 私は桃香のお姉ちゃんなのに!!! 桃香を守らなきゃいけないのに、守れなかったっ……!!!!!! こんなひどい傷……私が…私の所為で……」
目の前が真っ暗になる。血まみれの父の言葉、私を葛城家に引き戻した桃香の言葉がぐるぐると頭の中で反響する。
『泣いてはいけないよ……真梨香は…お姉ちゃんなんだから……』
『おねえちゃんは…ももかのおねえちゃんなの!!』
桃香を守るためだけに生きてきたのに……私は……今…誰を守った………? 桃香ではなく……。
ぐるぐると歪む視界の中で、顔を上げた先には心配そうな表情の、小林檎宇がいた。銃が打たれる瞬間、その先には小林と桃香と倉田さんが固まるように立っていて……私は…咄嗟に………。
脳内でその瞬間がスローで再生される。小林を突き飛ばし、その上に覆いかぶさる私の視線の先で、桃香が倉田さんを押し倒すのが見えた。その腕から、血が飛び散る瞬間まで、鮮明に。
「あ…あぁ………あ―――――――――――――――――っっ!!!」
喉の奥から絶望の悲鳴が迸って、私はそのまま昏倒した。
今回の話を書くに当たって「林檎」「品種」で検索したという裏話があります。あんなにいっぱいあるんですね。美味しそうでした。