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約2か月ぶりの更新です。生きてます。
「真梨香」
優しい声で名前を呼ばれるのが好きだった。大きな手で頭を撫でられるのも。少し垂れ気味の目じりをさらに下げて、ぎゅっと抱きしめられれば暖かくて、幸せな気持ちになれた。
「ももかね~、おおきくなったらパパのおよめさんになる!」
幼い桃香が舌足らずな言葉でそう言うと、お父さんは今にも蕩けそうな顔で桃香を抱きしめる。
「柚子さん~~~!!! どうしよう、娘が可愛すぎて僕幸せで死にそうだよ~~~~~~!!!!!!!」
「はいはい、良かったわね~」
そんな夫婦のやり取りをぼんやり見つめていたら、お父さんが期待に満ちた瞳でこちらをキラキラと見つめ返してきた。言葉に詰まる。しばらく迷った後、口から出たのは、
「……桃香、親子は結婚できないのよ。お父さんはお母さんのお婿さんなんだから」
という夢も可愛げもない言葉で、お父さんの顔が目に見えて落ち込むのが見えて、胸が少し痛んだ。子供らしく、甘えて見せればきっとお父さんは喜んだのだろうと思うけど、今の『私』にはそれは少々難易度が高かったのだ。
「柚子さん~~~真梨香は君に似て少しリアリスト過ぎじゃないかい~~~??」
「私に似てるんならそういう所も含めて椿くんの好きなところでしょう? 真梨香は照れ屋さんなのよ。私に似て」
冗談を言ってお父さんを宥めるお母さんがぽんぽんとお父さんの背中を撫でながら、こちらを手招きする。
「ほら、真梨香もこっちにいらっしゃい。椿君も、桃香も真梨香も、全員まとめて面倒見たげるから」
我が母ながら男前な発言にお父さんは感極まって母さんに抱き付くし、桃香もよくわかってないながら楽しそうにお母さんの胸に突撃している。その体当たりを受け止めながら、お母さんは私の方へも手を差し伸べる。
「ほら、真梨香もおいで」
そう言われて恐る恐る近付いて、その手の内側に入ると、家族全員でおしくら饅頭でもしているような状態になった。暖かな体温と、誰のものともわからない程混じりあった心音を聞いて、安心すると同時に叫びそうになった。
この幸せな時間には、終わりがある。
真梨香と桃香の父親、葛城椿は、桃香が6歳の時に、事故で死ぬ。
私がこの世界が乙女ゲームの世界だと思い出したのが、桃香が5歳の時、それ以来ずっと、お父さんの死を回避する方法はないか、考えている。けれど、いくら思い出そうとしても、ゲーム本編でのスタート時点ですでに死んだことになっている葛城椿に関係のあるエピソードは殆ど作中で語られることがなく、どんなに思い出しても『桃香が6歳の時に事故で死んだ』というシナリオ上の一文しか思い出せない。
それが交通事故なのか、水難事故なのか、自然災害などによる事故なのかも分からない。私は何か手がかりはないかとひたすらにお父さんの後ろをついて回った。
お父さんは作家をしていて、あまり家から出ることは少ない。営業職でバリバリのキャリアウーマンな母は対照的に毎日外に働きに出ている。このままいっそのこと完璧な引き籠りにでもなってくれたら少なくとも交通事故に会うことは無いんじゃないだろうか。そんなことを考え、父に『おうちを一歩も出ないで3年くらい過ごしていてほしい』と言ったらものすごく微妙な顔をされた。言ってしまってから、自分でも失敗に気づいたけど、あの言い方は無かった……。
そうこうするうちに、恐れていた桃香6歳の誕生日が来て、私は学校が終わると道場もサボって家に真っ直ぐ帰るようになった。朝学校を出るときはお父さんに何度も『外に出ないで、家でお仕事頑張ってね』と言い含め、走って帰宅しては無事な姿を見てホッとする。その後はひたすら父の周りをうろうろして、まるで監視でもしているかのように逐一その傍らについて回った。
娘の異常な行動に、お父さんもお母さんも困惑した顔を見せたが、暫くは何も言わなかった。いや、言えない程私の様子が必死で、異様だったのだろう。
もちろん、学校に行っている以上、完全に父の行動を制限できるわけもなかったし、実際、学校に行っている間に父が打ち合わせやちょっとした買い物で外に出ることは度々あった。その度に、理由を言えないまま泣いて癇癪を起こす私に、父は困ったような顔で笑いながらあやすように頭を撫でるのだ。
その日、朝から嫌な予感がしていた私は、仮病を使って学校をさぼろうとした。病気の娘が家にいれば、お父さんは看病の為、片時も傍を離れようとしないだろう。そんな打算は、いつになく厳しい顔をしたお父さんに打ち砕かれた。
「真梨香、最近の真梨香の様子から、学校で何かあったのかと思っていたけれど、違うみたいだし、この際だからお父さんも心を鬼にして言うけど、嘘をついて学校をさぼったり、お母さんや僕を騙すのは感心できないな。……柚子さん、君の様子を見に仕事を休んで学校まで行ったりしてるんだよ?」
「……ごめんなさい」
「今日はちゃんと学校へ行っておいで。そのかわり、帰ってきたら、ゆっくりお話しよう」
「…………はい」
結局、私はお父さんに見送られて、桃香と一緒に学校へ行った。
ずっと、後悔している。どうしてこの時、お父さんに嫌われても、見限られても、学校を休んでしまわなかったのかを……。
目を覚ますと、見覚えのない天井が見えた。キラキラしたガラス細工が光を反射する、小さなシャンデリアタイプの照明は個人の部屋にしては随分高価だ。
「お姉ちゃん!!」
ぼんやりと天井を見ていたら、悲鳴と共に抱き付かれた。小柄とはいえ体重の乗ったボディアタックは強烈で、一瞬覚めたはずの意識が遠退くところだったけれど、堪えて、ベッドに身を起こした。泣きながら私にしがみついている桃香との肩越しに、ピンクとフリルが満載の女の子らしい内装の部屋が見え、そのドアのところに付いた内線電話で何事か話している倉田苺さんの姿が見えた。そう言えば、気を失う前に彼女の声を聴いた気がする。どうやら目の前で倒れた私を介抱してくれたのは彼女らしい。
「もう!! 苺ちゃんから連絡貰って、すっごくすっごく、ものすっっっごく!!! 心配したんだからね!!!!!!」
桃香が泣きながら怒るという器用な表情でガクガクと肩を揺さぶってくる。心配をかけて申し訳ない気持ちがこみ上げてきたが、それと同時に、激しい揺さぶりに別のものがこみ上げそうになって慌てて桃香の手をぺしぺし叩くと、ようやく揺さぶるのをやめてくれた。
危うく高価そうなシーツやら枕元のタオルやらに粗相を働くところだった…。
「お姉ちゃん思いっきり揺すってごめんなさい。大丈夫? 気持ち悪い??」
心配そうに覗きこんでくる桃香の顔を見て、そっと無言でその身体を抱きしめた。ささやかな胸のふくらみに耳を当ててその奥の鼓動を聞く。規則的なその音は、桃香が生きている証しだ。桃香は生きていて、私も生きて、ここにいる。その事実を噛みしめるようにひたすらに桃香の胸に縋りついていた。
桃香の手が、戸惑いながらも優しく私の頭を撫でる。その手つきが、幼い頃に泣いて縋る私を撫でてくれた手とそっくりで、胸の奥がツンと痛んだ。
「……桃香は…お父さんに似て来たね。頭の撫で方とか…」
「お姉ちゃんはお母さんそっくりだよ。意地っ張りで、頑張りすぎで、大好きな人にしか弱いところ見せられないところとか」
桃香の言葉に苦笑いが浮かぶ。そう言えばお母さんの泣き顔を見たのは、あとにも先にも、あの事故の日だけだった。あの日以来母が泣くのを見たことがない。母が安心して泣ける場所を………私は…………………。
「私は…お父さんに似たかった………」
たとえ似たところで、私にはお母さんを安心して泣かせてあげられないけれど。せめて、少しでも慰めになれたら……。そんなことを考えていたら、ぺち、と頭を叩かれた。驚いて顔を上げると、桃香が頬をぷくりと膨らませていた。なにその顔、可愛いんですけど。
「お姉ちゃんは、お父さんにもそっくりだよ! 私やお母さんの事ばっかり優先して、自分の事は後回しなところとか! すごく優しく笑う所とか!! それに!! お姉ちゃんにしかないところもいっぱいあって、だから、誰に似てても、似てなくても、お姉ちゃんは私のお姉ちゃんなんだからね!!!」
「桃香……」
思わずもう一度桃香を抱きしめようとしたら、カタンと物音が聞こえて、私は今いる場所がどこかという事を思い出した。恐る恐る桃香の肩越しに見れば、倉田さんが困った表情で立ち尽くしている。
「く…っ…倉田さん! ごめんなさい!!」
いきなりクラスメイトの姉に夜道で遭遇した挙句、目の前で倒れられ、起きたら起きたで家主そっちのけで妹と抱き合って喋ってるって最悪な客だよ。申し訳なさすぎる。当の倉田さんはほんのり頬を染めてもじもじとしながら首を振る。
「いえ、あ、あたしのことはお気になさらず……姉妹ゆ…………じゃなかった、えっと、お、お水持ってきますねぇ!!」
そう言って倉田さんは部屋を飛び出していった。一瞬目が輝いていたような気がするけれど、気のせいだろうか……。倉田さんとのやり取りで、桃香も状況を思い出したらしく、そっと私から離れて、ベッドサイドの椅子に腰を下ろした。
コホン、と咳払いを一つ。……空気が、変わったのを感じた。思わず私も居住まいを正す。
「お姉ちゃん、何があったの? 苺ちゃんから連絡が来たのと同じくらいに、篠谷先輩からも電話があって、車で言い争いになって、お姉ちゃんが車を飛び出して行っちゃったって。…篠谷先輩が、自分がお姉ちゃんを傷つけた所為だって言ってた……。お姉ちゃん、篠谷先輩に何をされたの?」
桃香の言葉に、なんと返していいか分からない。篠谷に突きつけられた言葉は、確かに鋭く胸を抉ってきた。桃香は私に守られるだけのか弱い少女じゃない。ちゃんと自分の意志で道を切り開ける芯の強さと賢さを持ってる。
それでも、私には桃香の傍に居るのに、理由が必要だった。
『桃香を守る』それだけが自分の生きている理由だと、葛城真梨香でいてもいい、存在理由だと自分に言い聞かせてきたのだ。
桃香から、お母さんから大切な家族を奪ったのは私だ。4つだった心音が3つだけになってしまったあの日から、桃香の為だけに生きようと決めた。ゲームの運命は変えられなくて、桃香が桜花学園に入学し、攻略対象者が桃香に恋をするのが絶対の運命なら、フラグを折って、恋敵の目を逸らし、桃香を傷つけるルートに桃香が進まないように盾になる。それだけが私が自分に許した生きる理由だった。
『泣いては…いけないよ。真梨香は…お姉ちゃんなんだから』
あの人が、私に残した最後の言葉だから…。
「篠谷君とは……いつもの口喧嘩よ。…ちょっとヒートアップしちゃって………。明日ちゃんと謝るわ」
納得がいっていないという顔の桃香に、それでも私は嘘をついた。何か言いたそうにしていたけれど、倉田さんが飲み物を持って戻ってきたので、それ以上追及されることは無かった。
明日、篠谷に会ったら、殴った事だけは謝ろう。そうして、彼からは距離を取ろう。小林を拒絶したように。そうしないと、きっとまた大事なものを失う。ゲームで桃香を傷つけたように、津南見を破滅させたように、真梨香の恋は不幸しか生まないのだから。
結局、その日は暫く倉田さんの家で休ませてもらったあと、倉田さんの家の車で送ってもらった。残業で遅くなったお母さんは事の経緯を聞いた後、じっと私を見て、ポンと肩を叩いた。
「……無理は、しちゃだめよ?」
「………大丈夫」
そう言うと、お母さんは少し困った顔をしたけれど、何も言わなかった。桃香は一緒に寝ようかと言ってくれたけど、丁重にお断りした。今夜は一人になりたかった。
「………ふぅ」
自分の部屋に入ってベッドに倒れ込む。今日一日の事、ここ数日の事、四月に桃香が桜花学園に入学してきてからの事、いくつもの事がぐるぐると頭を巡る。今のところ、桃香は攻略キャラの誰とも恋をしていない。心の中ではわからないけれど、彼らの誰に対しても特別意識している様子がないのだから多分そう言うことなんだろうと思う。もし、今後誰かと恋に落ちるとしても、彼女を不幸にする要素はもうほとんどないと言っていい。
沢渡花梨は学園からいなくなり、胡桃澤嘉穂は桃香と友達になった。一之宮は親衛隊を解散するつもりでいる。吉嶺は取り巻き達と別れた。小林は家と和解の上で家を出る決意をしている。菅原先輩の家も、榛くんを中心に良い方向に向かっているようだ。シェリムももう桃香の意志を無視して無茶な事はしてこないだろう。津南見は……真梨香さえ関わらなければ問題ない。
ころりと寝返りを打つと、枕元のチェストに置かれたアルバムが目に入った。あの日から開かれることのないその中身は、開けなくても鮮明に思い出せる。だからこそ余計に開けられない。
「………」
そっと手を伸ばし、背表紙を撫でる。達筆な文字で書かれた『家族の思い出』という文字と、私が生まれてから7歳までの年号はもうだいぶ擦り切れて、消えかかってしまっている。
その晩は、開けられないアルバムを抱きしめて眠りについた。
翌日、学校へ登校した私を待っていたのは、篠谷の欠席の知らせと、職員会議への呼び出しだった。
「昨晩篠谷君のご両親から連絡があって、君が彼に暴力を振るって怪我を負わせたとの訴えだった。……事実かね」
「…………はい、間違いありません」
教頭と校長、生徒指導の先生に問われ、そう応えた私に下されたのは、2週間の停学措置だった。