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短い上に急旋回ご注意
思えば放課後の生徒会室で、淡々と仕事をこなす彼に疑問を覚えるべきだった。いつものようにブリザードスマイルで嫌味を言ってこない篠谷侑李など、篠谷侑李とは言えないと、その場で突っ込んでいれば、あるいは口に出さないまでも、様子がおかしいことを警戒していれば、こんな状況には陥っていなかったかもしれない。
これまで何度か押し問答を交えつつも篠谷の家の車で送ってもらったこともあったし、何より今日は身も心も疲れ切っていたから、校門を出たところで篠谷に送ると言われ、つい頷いてしまったのだ。そして、篠谷の家の車がいつもの国産車ではなく、ボックスシートを備え、運転席と後部座席が完全に仕切られた高級リムジンだったことも気にかける余裕がなかった。
その結果、車に乗り込み、向かい合わせで座って数分後、車が私の家への道を進んでいないことに気づいた時には手遅れだった。
気まずさと疲れから俯いて座っていたけれど、無言のまま数分が過ぎて、違和感を覚えて顔を上げると、窓の外には見覚えのない風景が流れていたのだ。
「篠谷君…? いったいどこに向かって…きゃっ!?」
慌てて身を起こそうとして、肩を押され、シートに押し付けられた。頭の両脇に篠谷の手が置かれ、背もたれがギシリと軋む。小林といい篠谷といい、今日はよく壁ドンされる日だ。いや、この場合も壁じゃないから椅子ドン? シートドン?? 座席ドン??? そんなことを思いながら抵抗の意を示そうと顔を上げて篠谷の顔を見た途端、そんな呑気な状況ではないことを悟った。
篠谷は笑っていた。
優雅で、人当たりの良い学園の王子様を演じているときの胡散臭い微笑みでもなく、ときおり生徒会で見せる、気の抜けた笑顔でもなく、眩しいほどに無邪気な、幸せそうな微笑みだったのだ。
こんな風に笑う篠谷侑李を私は知っている。ゲームの中で、桃香と恋仲になったものの、周囲からの邪魔や自身の猜疑心に苛まされ、桃香を束縛し、監禁した篠谷が、まさにこの笑顔で桃香に愛を囁いていたのだ。閉じ込めて、自分だけしか見ない世界に桃香を縛り付けることでようやく心の底から安心して桃香と愛し合えると無邪気に喜ぶ姿にゾッとした事を思い出した。
その微笑みが、いま自分へと向けられている。何故とか、どうしてこうなったと考えるよりも先に、逃げ道を探して車内を見回す。ドアはロックがかかっている。外そうと思えば外せるはずだが、もたもたしたらすぐに引き戻されてしまうだろう。窓の外の風景は見覚えが無く、車外に飛び出したとしても地の利がない分逃げるには不利だ。それ以前に、走行スピードが速すぎて、車外に飛び出して無事でいられる気がしない。
あーでもないこーでもないときょろきょろしていたら、篠谷の手が両側から頬を包み込んで、正面を向かされた。改めて見ても篠谷は慈愛さえ感じるほどの蕩ける様な微笑みを浮かべていて、だからこそ背筋がゾッとした。
「……篠谷君、あの…」
「………以前に」
何か言わなければと声を絞り出したのを、少し低めの甘い声が遮った。耳朶を擽る甘い声だけは、好みのタイプだなんて、無邪気に思っていた頃がありました。けれどその声が今は怖い。優しく、宥める様なゆったりとしたトーンなのもよりいっそう恐怖心を煽った。
長い指がまるで輪郭を確かめるように頬を撫で、唇をなぞり、首筋へと降りてくる。息を呑む喉の動きさえ相手を刺激してしまうのではないかと思えて、呼吸を止める。
「あなたを信じたいと言いましたね。そして僕の事を信じて欲しい、とも」
「篠谷君の事は…信ら…」
「信頼では足りない、信用でもない、あなたが心から僕を信じて、全てを話してくれるまで待つ…と」
津南見の前で初めて泣いてしまった日の夜、確かにそう告げられた。あの時私は彼が、私が津南見に泣かされたと誤解していると思って、津南見に何かされたわけではないと言い訳をしたけれど、ひょっとしてあれ、全然別の話してたのか? てっきり私が津南見にいじめられたとでも誤解して、紳士な篠谷が怒ったのだと思っていたんだけど…。
「あの時は本当に待つつもりだったんですよ? あなたの隣が僕の立つべき場所だと、他の誰にも譲りはしないと」
「私は…」
「でも気づいてしまったんです」
すとん、と音を立てるように、篠谷の顔から表情が抜け落ちた。さっきまでの笑顔が嘘のように、感情がなにも浮かんでいない顔は、よくできたビスクドールじみて、どうしていいか分からなくなる。ゲームで見た病んでいるような影もなく、負の感情も見えないソレが、何故かとても哀しげに見えた。
「最初から、あなたには隣に誰かの立つ場所なんて無いと」
「……」
「他ならぬあなたが、誰の隣に立つことも、誰かに添われることも求めていない。……誰にでも手を差し伸べて、掬い上げて、その背を押す癖に、自分へと伸ばされた手に気づかない。………気づくことを、拒んでいる」
首筋を撫でていた手が、肩へと滑り、ぐっと掴まれる。抑揚のない声音に、隠しきれない悔しさがにじみ出ている。その奥に秘められた感情を知ってはいけない。知れば、きっと揺さぶられる。揺らいではいけない。だって、私は……真梨香は………。
「好意を寄せられることを恐れ、それに応えることを恐れ、鈍感なふりをして距離を取って、近づこうとすれば棘を振りかざして、近づくなと警告する。……でも、その棘があなた自身を余計に傷つけているように、僕には見えるんです」
篠谷の言葉に耳を塞ぐ。目を閉じて、顔を伏せて、拒絶する。聞いてはいけない。気づかされるから。見てはいけない。彼の表情に、私への気持ちが溢れているから。私はそれに応えるわけにいかないから。そうしないと、真梨香は……。
「昔、溺れた僕を助けたあなたは、屈託の一切ない笑顔で、『自分は正義の味方なんだ』と仰いました。あの真っ直ぐさが、風邪をひいて寝込んでいる間も、回復してからも、ずっと忘れられなかった。10年経って、再会したあなたは、真っ直ぐなのにどこか歪で、素直なのに、意地っ張りで、誰よりも強い気持ちを持っているのに、ひどく臆病で……なにが、あなたをそうさせているんですか?」
「やめて」
「今のあなたは茨の蔓で自らを戒めているようにしか見えません」
「言わないで」
「あなた自身を傷つける鎖から、あなたを解放したい。その為でしたら、あなたに嫌われても、あなたの古傷を抉ることになっても、あなたを暴くと決めました」
篠谷の声に、真摯な気持ちを感じてはいけない。彼は桃香の初恋の王子様、ヤンデレで、ヘタレで、桃香を傷つけるから、姉の私は盾になって、壁になって、桃香が彼のルートに入らないよう邪魔をする。それだけが私のすべきこと。桃香を守ることだけが真梨香の……たった一つの…………。
「真梨香さん」
篠谷が再びぐっと頬を包むように手を添わせて、呼びかけてくる。耳を塞ぐ手を取られて、嫌々をするように首を振ってみたけれど、篠谷は言葉を止めてはくれない。感じたくない熱が宿る声が耳から沁み込んで心臓を揺さぶる。目に、耳に、掛けていた覆いを引き剥がされる。
「あなたは、妹さんを、桃香さんを守るということに執着しすぎています。彼女はあなたが思うより強く、ただ守られることを良しとするような方ではありません。あなたが何もかもをなげうって彼女を守る必要はありません。あなたは、あなた自身の事をもっと顧みるべきで…」
「そんなこと!! そんなことあなたに言われなくたってわかってるわよ!!!」
咄嗟に迸った叫びは、自分でも驚くほど、弱々しく響いた。
篠谷の腕をしゃにむに暴れて振りほどく。突き飛ばした身体が向かい側のシートに音を立ててぶつかり、驚いた運転手がブレーキを踏んだのか、車体が揺れた。その勢いに乗って篠谷の膝をまたぐように馬乗りになって彼の胸倉を掴んで揺さぶる。堰を切ったように溢れ出た激情を抑えることができなかった。
「可愛い桃香、健気で、明るくて、儚く見えるのに芯が強くて、どんな困難にも負けない真のヒロイン。私なんかが守らなくてもあの子は自力で全部何とかするって、そんなことわかってるわ!!! ずっと、ずっとずっと見てきたんだもの!!!!!! 私なんかいなくても!!! 私なんかいない方があの子の為だって!!! 誰よりも私が知ってる!!!!!! 葛城真梨香は桃香を傷つける!!! 彼女を不幸にする!!!!!! だからいなくなりたかった!!! 葛城真梨香じゃない誰かになりたかった!!! でも!!! 誰よりも!!! 桃香のお姉ちゃんでいたかった!!! 桃香のお姉ちゃんでいることだけが!!!!!! 私の残された、たった一つの約束なの!!!!!!」
血まみれの手で優しく頭を撫でられた。『泣いてはいけないよ、お姉ちゃんなんだから』と笑ったその人が、たった一つだけ残してくれた約束だけが、私が今ここに生きている意味を与えてくれている。
一番大切な人の運命を変えられなかった無力な私に残された存在意義を、そんなふうに否定しないで。
けれど、甘く柔らかな声は、残酷なまでに優しく、現実を突きつけてきた。
「何度でも言います。桃香さんは、あなたに守られてその影に隠れているほど弱くはありません。桃香さんに依存して、立てなくなっているのはあなたの方です! っ!!」
鈍い音が響いて、気が付くと、篠谷を殴っていた。綺麗な白磁の頬がみるみる赤く腫れて、桜色の唇から赤い雫が糸を引いて滴る。握りしめた拳がひりひりと痛んで、それ以上に、胸が痛かった。碧玉の瞳が静かに見つめ返してくるのを呆然と見下ろしていたら、車が停止した。運転手が自分のとこのお坊ちゃんが暴行されてるのに気づいて停めたんだろう。私はドアのロックを外し、そのまま外へと飛び出した。そのまま後ろも見ずにやみくもに走る。追ってくる気配がないのは、運転手が篠谷の手当てを優先したからだろうか。それでも私の足は止まらず、何かに突き動かされるように走り続けた。
「……はっ……は………」
ペース配分もむちゃくちゃに走った所為で、暫くすると息が切れた。足を止め、目に付いた塀に手をついて肩で息をする。汗が顎を伝って地面に滴り落ちる。勢い余って目からも何かが零れ落ちていった気がするけれど、きっと気のせいだ。手の甲で顔をぐいぐい拭う。改めてここはどこだろうかと顔を上げた時、思ってもみなかった声が聞こえた。
「真梨香先輩?! なんでこんなところに??!」
振り返ると、ふわふわの栗色の髪を揺らしながら、小柄な影が駆け寄ってきた。小動物を思わせる小柄で可憐な容姿の桃香のクラスメイト、倉田苺は、大きな瞳を零れんばかりに見開いて、見上げてくる。
「あの…すごい汗……それに顔色真っ青ですよ?」
「ごめん…なさい。ちょっと道に迷っちゃって………」
そう言いながら、私の意識はブラックアウトしていった。
筋書きのドリフト走行。そのうち書き直すかもしれませぬ。