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「…………………」
「……葛城?」
驚きのあまり声も出ない私に、津南見がしゃがみこんで視線を合わせてくる。その顔を無言で見つめているうちに、涙がぼろぼろと零れはじめた。津南見がぎょっとする。そりゃそうだろう。私自身もびっくりだ。
幽霊に怯えて恐怖のどん底にいたところに、知ってる人間が現れて気が緩んだのだろうと頭の片隅では冷静に分析できているのに、涙は止まってくれない。そもそも津南見相手に『安心した』と認めること自体、できることならしたくないと思っている自分がいる。だって真梨香は津南見にだけは心を許すわけにいかないんだから。
顔を見られまいとそっぽを向いて涙を手で拭おうとしたら、その手を掴まれて止められた。
「馬鹿、地面に触れた手で拭うやつがあるか。…ハンカチは……持ってなさそうだな」
パジャマ代わりのTシャツと短パンのまま出てきてしまっていたので、確かにハンカチを持っていない。この流れで次の展開が分かってしまった…。
案の定、津南見がポケットから取り出したのは例の小鳥の刺繍のハンカチだ。……毎回このタイミングでこのハンカチが出てくるなんて、私に対する呪いのアイテムなんじゃないかと思ってしまう。
「……」
「ほら、使え。………それとも俺が拭うか?」
退路を断たれてハンカチを渋々受け取る。顔に押し当てればふわりと柔軟剤の優しい匂いがして、また涙が出た。暫く涙を拭っているうちに現状を顧みて困った事になったと気付く。
…津南見にどうやって誤魔化そう……? 泣いていた理由も含めて、私が幽霊が駄目な事とか、そもそもこんなところまで来てしまった原因だとか、どれもこれも津南見に知られるわけにいかないことばかりだ……。
俯いて悶々と考えていたら津南見がふっと苦笑する気配がした。
「なんだか俺はお前の泣き顔ばかり見ているな」
「…!??」
咄嗟に否定したい衝動にかられたけど、実際泣いていて、その度にハンカチを借りてしまっている身では説得力に欠ける…。どうしてこうも、一番見られたくない相手に限って……。
「今回は目にゴミが入っただけです……泣いてません」
我ながら子供じみた言い訳を口にする。いっそのこと転んだ所為で痛くて泣いていることにすればよかっただろうか。転んでないし、その位では泣かないけど。
「ハンカチはまた洗ってお返しします。ちょっと夜風に当たりたくて散歩をしていただけなので放っておいてください。……そう言えば先輩はどうしてこんなところに?」
追及を逃れたくてつい早口になってしまう。津南見は気づいているのかいないのか、こちらの問いかけにちらりと来た方向を見てから言いにくそうに答えた。
「ああ…、代議会有志で最後の夜だからと肝試し大会をしていてな…。……この先に幽霊の目撃証言多数の呪われた廃別荘があるからそこのドアにタッチして札を置いてくるっていう……」
肝試し、迄は我慢できたけど、この先の廃別荘と言う所で津南見が見た方向にうっかり目を凝らしてしまった。木々の隙間にうっすらと建物らしき影が見えて、盛大に肩が震えてしまう。顔から血の気が音を立てて引くのが分かった。
怪しい人物を追いかけるのに夢中になっていたとはいえ、絶対近寄るまいと思っていた例の別荘にこんなに近づいてしまっていたなんて…。下手をしたら別荘の前まで行ってしまっていたかもしれないと思うとゾッとする。
見たくもないけど、目を逸らしたら別荘の方向から何かが出てくるんじゃないかと思うと逸らせない。
「………」
じっと別荘の方向を見続ける私に何を思ったのか津南見はポケットから携帯を取りだし、どこかへ掛けだした。
「…もしもし? ああ、津南見だ。途中ですまんが俺は一足先にホテルへ戻る。……ああ、別荘へはたどり着いていないから失格で構わん。……別に、そう言うわけじゃないが……。いや、いい。とにかく先に帰るから次の順番の奴に伝えてくれ。………ああ、頼んだ」
どうやら肝試しをしている代議会の仲間なのだろうけれど、会話の内容が意味が分からなくて思わず津南見を振り返る。ちょうど電話を終えた彼と目が合った。
「あの…先輩……?」
「ホテルまで送っていく。横抱きとおんぶ、どっちがいい?」
「いえ! ですから放っておいてくださいと…」
「筋金入りの怖がりのくせに意地を張るな。見たところ腰が抜けてるんだろう? 足に力が入ってない。俺じゃ不満かもしれんが大人しく運ばれておけ」
津南見の発言にヒュッと喉が鳴る。何でという問いかけが零れそうになった。津南見の言葉は、今私の様子を見て察したとかいう雰囲気ではない。私が怖がりだと以前から知っていたように聞こえた。でもそれを問いかければ完全に自分の弱点を認めたことになる。絶句している私に津南見が気まずげに咳ばらいをした。
「……葛城、以前にお化け屋敷で気絶したことがあるだろう?」
「どうしてそれを!!?」
今度こそ私は叫んでしまった。小学校卒業前最後にして最大の私の黒歴史を、よりにもよって津南見の口から暴かれるなんて思いもしなかった。ひとつだけ心当たりが浮かんでだけれど、もしそうなら神様は私を確実に呪っているとしか思えない。できれば思い過ごしであって欲しかったけれど、やっぱり真実は残酷だった。
取り繕うこともできず取り乱した私に、津南見が言いにくそうに真相を口にした。
「あの時、気絶したお前を医務室に…」
「待ってください! 皆まで言わないでください。…今ちょっと現実を受け入れる余裕がないです」
無駄だと知りつつ耳を塞ぐ。あんなにも出会わないようにと気を付けていたのに知らない間に出会っていた上、助けられていただなんて、もはや運命の悪戯レベルを通り越して悪夢だ。いっそのこと殴り倒したら記憶を失ってくれないだろうか。そんな思考が顔に出ていたらしく、津南見が困った顔をする。
「物騒な顔でこっちを見るな。言っておくが、俺だって驚いたんだぞ。剣道大会の小学生の部で鬼のように強かった女が遊園地のお化け屋敷ごときで泣いて怯えているし、声をかけたら悲鳴を上げてそのまま気を失うし」
「忘れてください。そのまま誰にも言わずに忘却してください!!」
穴があったら入りたい。しかもお化け屋敷で会う以前から覚えられていたなんて、すべてまとめて忘れてほしい。
「……もとよりお前本人以外には話すつもりもないが…。まぁ、そういうわけでお前をここに置いて行く気は無いから、大人しく運ばれておけ。な?」
ぐしゃりと頭を撫でられて、渋々頷く。正直なところ、この場に置いて行かれたら、それこそ正気を保っていられる自信がない。背に腹は代えられないのだ。
「………絶対に、誰にも……桃香にも言わないでくださいね」
「わかっている。それで…? 腰が抜けているなら横抱きの方が良いか?」
横抱きっていうのは俗に言うお姫様抱っこと言うやつで、いくら極限状況とはいえそこまで自棄にはなれない。
「……おんぶでお願いします」
「ああ、それじゃあほら」
津南見が背を向けて掴まれと促してくる。私は渋々その肩に手を伸ばし、首にしがみついた。私とそう変わらない背丈だけれど、鍛えられた背中は思いのほかがっしりとしている。思い切ってその背に体重を預けた。
「っ?!!」
津南見が何かに驚いたように身を震わせたので、一瞬何か出たのかと辺りを見回す。けれど何もない。
「ちょっと、驚かさないでください! 何か出たのかと思うじゃないですか!!」
怖がりなことは既にばれているので、開き直って津南見に文句を言えば、津南見は一瞬こちらをちらりと振り返った後、ものすごい勢いで俯いて、何やら気合を入れながらおんぶの体勢になった私を持ち上げて立ち上がる。急に立ち上がられたので、ずり落ちそうになった私は思わず津南見の首に更に強くしがみついた。
「ぐっ…?!!」
首でも締まったのか津南見が苦しげに呻いたので力を緩める。見ると耳が真っ赤だ。そんなに強く締めたつもりはなかったのだけど、大丈夫だろうか。…まさかとは思うけれど、気合を入れないといけないくらい重たかった…とか? さすがにそうだとしたらショックだ。
「あの…津南見先輩、大丈夫ですか?」
「も…問題ない。それじゃあ行くぞ」
多少ぎくしゃくとした様子が気にはなったものの、津南見はしっかりとした足取りでホテルがある方へ歩き出した。そこまで重かったわけではないらしい。……いや、津南見の事だから重くても言わないだろうし、態度にも出さないだろうけど…。旅行から帰ったら少しダイエットしようかな……。
津南見は両手がふさがっているので、ペンライトは私が持って前方を照らす。
「…………」
「………………」
互いに無言のまま進む。沈黙が重たい。話をするのも怖いけれど、話をしないのも怖い。何も言わないでおぶわれていたらいつの間にか津南見がオバケに入れ替わっていたなんてベタな怪談話にありそうだ。
自分で想像してゾッとしてしまい、津南見につかまる手に力がこもる。
「どうした? 葛城、ホテルならもうすぐだぞ」
「あ、いえ…先輩は…先輩ですよね?」
「なんだそりゃ」
「いえ…こうしている間に実は先輩じゃなくてオバケの背に乗ってて、話しかけて振り返ったら顔が無かったら…とか…」
そう言ったら、津南見が吹き出し、笑いだした。子供みたいな事を言ってしまった自覚はある。それにしたって笑いすぎじゃないか?
「笑わないでください! 怖がってる人間には真剣な話なんですから!」
「ああ、すまんすまん。……まあ、誰だって怖いものはある。俺だって姉や従姉、あとは、まぁ、お前以外の女も怖いと言えば怖いしな」
「……随分素直に怖いって認めちゃうんですね。先輩負けず嫌いだからそういうの死んでも認めないと思ってました」
ゲームの中では幼馴染の真梨香ぐらいしか知らなかったし、桃香相手にもギリギリまで隠し通そうとしていた筈だ。
「…何となくお前には隠しても無駄だって気がしてるしな。…それに昔親父に言われた。『己の弱さと向き合わねば強くなることなどできないぞ』ってな」
「それは……素敵なお父様ですね」
「ああ、強さも人間としての器も桁違いだからな。目下のところ俺の目標だ」
活き活きとした声で父親への憧れを語る津南見に、なんと返していいか分からない…。喉の奥に小骨が刺さったような感覚を、そっと飲み下す。
「……なれるといいですね」
なれますよ、と言えない自分は何て狭量なんだろうと思う。他人を羨んでいても何も得るものなんてないのに…。
「……そういえば、あれから王子は大人しく練習してますか?」
無理やり話題を変える。津南見は一瞬考え込んだものの、面白くなさそうな口調で返してきた。
「王子…ああ、ジャムシードなら部活中の態度もまじめになった。木通先輩に傾倒してしまって時々妙な事を吹きこまれているが、それ以外は順当に力を付けていっている。次の練習試合はまだ無理だろうが、夏の大会、個人の部にはエントリーさせようと思っている。……あいつの事が気になるのか?」
「え? ……いえ、彼が桃香に迷惑をかけていなければそれでいいです」
「ああ…そういうことか」
津南見がホッと息をつく。
「木通先輩の言葉が効いているみたいでな、お前に認められるためにまず夏の大会で結果を出すまでは葛城妹に必要以上には近付かないと言う願掛けをしているそうだ」
「………木通先輩に感謝していますと伝えてください……」
……変な嘘だけは教えないでくれると助かるけど。
「あの人はだいたいやりたいようにやっているだけだから。下手に恩に着るとまた手合わせさせろとか言い出すから気にしなくていいぞ」
「それもそうですね…。そういえば、来週は練習試合ですよね。頑張ってください」
他校に出向いての練習試合なので、応援には行けない。桜花でやる試合なら桃香の番だけは何が何でも応援に行くのに。そんなことを思いつつ、一応津南見にも激励の言葉をかける。お愛想半分、純粋に応援する気持ち半分だ。苦手意識が先に立つけれど、津南見の剣道の選手としての姿勢や力量は尊敬に値する。いちスポーツ選手としては応援したいと思う。
「……ああ。夏の大会は葛城妹も個人と団体両方でエントリー予定だから見に来ると良い」
「それは、もちろん」
桃香の応援は言われなくとも行くに決まっている。
「団体戦、男子部も応援します。……お世話になっているので」
たとえ本意でなくとも助けてもらった事実は変わらないし、自校の剣道部を応援するのは生徒会副会長としてもそうおかしなことじゃない筈だ。
「ああ、それは負けられんな。期待していてくれ」
……そんなに嬉しそうに言われるとお愛想でしたとも言えない。…あくまで桃香の応援のついでだと主張すべきか、それとも……。
「ああ、ホテルに着いたぞ。……そう言えばお前の部屋はどこだ? 歩けないのなら部屋まで行く必要があるだろう」
「え? ああ、そうですね…えっと……」
言われて気付いたけど、慌てて部屋を飛び出してきたので鍵が室内に残ったままで、桃香は多分寝ているので開けられない。どうしたものか、と考えていたら、エレベーターの方から慌てた様子の小林が出てきて、こっちを見るなり叫んだ。
「真梨センパイ!! どこ行ってたの!!! 妹ちゃんが心配してるよ~!!」
…どうやら桃香が目を覚まして私がいないことに気がついたらしい。小林が来たのは桃香が部屋にいないと私が戻った時に鍵が開けられないからだろう。
「……アンタが真梨センパイ連れ出したの?」
駆け寄ってきた小林は津南見の背に負ぶわれている私を見て、剣呑な視線を津南見へと注ぐ。どうやら妙な誤解をされているようだ。
「待って、小林君。私が一人で外に出たのよ。津南見先輩は通りすがりで…」
「通りすがりでどうやったら真梨センパイをおんぶする状況になるわけ?」
「それは……」
答えに窮していたら津南見が助け舟を出してくれた。
「葛城は夜風に辺りに外に出てうっかり転んで足を挫いたんだそうだ。すぐ戻るつもりだったのが動けなくなってしまったらしい。妹の方にも俺からも謝っておく。送る前に一報入れるべきだったな」
津南見の言葉に小林が益々面白くなさそうに目を細めた。
「……何でアンタが謝るんだよ。はぁ……もういいや」
小林がさっと近付いてきたかと思うと、津南見の背から私をベリッと引き剥がし、肩に担ぎあげた。
「部屋には俺が送ってくよ。お侍先輩はゴクローサマ~」
「な?! おい……」
「何? 妹ちゃんに真梨センパイ探してくるよう頼まれたの俺だし。うちの副会長がお世話になったね。それじゃ」
『うちの』と言う部分を強調するように語気を強めて宣言すると、そのまま速足でエレベータに向かって歩き出す。私はと言えば上半身は逆さまになってるし、小林の身長の所為でずいぶん高い処に持ち上げられているしで身動きが取れない。速足で歩かれている所為で揺れるから声も出せない。
「おい、ちょっと待て…」
「待たねぇし」
エレベーターに早足で乗り込んだ小林が津南見の目の前でドアを閉める。やっと小林の歩みが止まり揺れが収まる。
「ちょっと! 流石に先輩に対してあの態度は良くないわよ?!」
「真梨センパイちょっと黙ってないと舌噛むよ」
「そういう持ち方してんのはどこの誰よ!? せめて津南見先輩みたいにおんぶとか普通の運び方できないの?!」
「おんぶとか超密着体勢じゃん。…あの先輩お堅そうな顔して案外むっつりスケベだね」
女嫌いと噂される津南見に対してむっつりスケベなどと評したのは多分小林が初めてじゃないだろうか…。
「おんぶかお姫様抱っこかの選択で私がお願いしたのよ。おかしな言いがかりはやめて頂戴」
窘めるように言ったけれど、小林は黙ったままで、そうこうするうちにエレベーターが止まり、速足で歩く小林に揺さぶられて本当に舌を噛みそうになる。
「……」
「………」
重苦しい沈黙の中、小林の背中に顔を伏せるようにしていた所為で気が付くのが遅れた。
「……小林君、何処に向かってるの…?」
客室の廊下はどのフロアも似た作りとはいえ、通り過ぎざまに見えるルームナンバーを見れば、今いる階が私と桃香の部屋の階ではないことがわかる。
「…………ついたよ」
「え…?」
小林が立ち止まり、かちりとドアの鍵を開ける音がする。疑問を差し挟む暇もなく、私は放り投げるようにベッドに投げ出された。柔らかなマットレスとシーツに体が一瞬沈む。慌てて起き上ろうとしたところを、肩を抑え込まれて再びシーツに沈む。大きな体で圧し掛かられて身動きが全く取れない。
「小林君!? ふざけてないで…」
「何でアイツなの?」
「は…?」
驚くほど暗く冷たい声で問いかけられて、思わず抵抗も忘れて小林の顔をまじまじと見てしまう。いつもの軽い調子が全くない、凍り付くような無表情に彼の怒りが現れている。怒りの理由はさっぱりわからないけれど、私と津南見の何かが彼を怒らせたらしい。
「外で二人で何してたの?」
「だから…私は一人で散歩していて、津南見先輩は通りすがりで…」
「目ぇ赤いね…。真梨センパイ、アイツの前で泣いたの? センパイでも泣くんだ……。それとも泣くような事、されたの?」
「そんな訳ないでしょう!? 何もされてないし、送ってもらっただけだってば」
「送ってもらうだけならおんぶされる必要ないよね? 足を挫いたなんて嘘までついて……」
長い指がつ、と足首をなぞる。触れるか触れないかの擽るような動きに背筋がゾワリとした。あの場で嘘をついたのは津南見だけれど、黙ってそれに乗っかったのは自分なので、この場合は自分も同罪だろう。というか、津南見は私が歩けない理由を隠したがっているのを察して嘘をついてくれたので、どっちかと言うと私の方が罪が重いかもしれない。だからと言って、オバケに驚いて腰が抜けたなんて死んでも言いたくないけど。
「う…嘘じゃない……っ!?」
嘘を上塗りしようとした途端、足首を強く掴まれた。爪が食い込んで地味に痛い。
「小林君…痛い……」
「…センパイが悪いんだよ……俺が………ずっと……」
本格的に押さえつけられて、小林の顔が逆光になって見えなくなる。途端、全身の毛が逆立つような恐怖感に支配された。
黒い影、敵わない体格差、何かが脳内で明滅して弾ける。小林の声が遠くなって聞こえなくなる。代わりに頭の中に響いたのは憎悪に満ちた少女の哄笑。
「……ゃ……っ………!」
秋の夕暮の空が男の肩越しに見えたことを覚えている。髪を掴まれて固く冷たいコンクリートに引き倒された。馬乗りになられ、欲望に満ちた目で見られ、ブラウスに手が…。
「…センパイ……?」
「ゃだ……っ……」
震える手をめちゃくちゃに振り回す。押さえつける手が緩んだような気がした。……でもまだ駄目だ……この手を振りほどいて逃げないと……殺される…。
「ぃや……やめてっ………!!」
「センパイ!? 真梨センパイ??!」
滅茶苦茶な抵抗を繰り返していたら、頬を軽くぺちぺちと叩かれた。ぼやけていた意識がはっきりする。逆光にも目が慣れて、心配そうな小林の顔が見えた。肩越しに見えるのは秋の空じゃなくて白い天井だった。
「…………こば…やし………?」
「そう、俺だよ…。分かる?!!」
目の前の綺麗な顔に手を伸ばす。滑らかな頬を撫で、切れ長の瞳を覗きこむ。呆けたような表情の私が映って見えた。何度も顔の形を確認するように頬を撫でていると、小林が耳まで赤くなった。
「あの…センパイ……?」
間違いなく、正真正銘、小林檎宇だ。
私はその頬に手を這わせたまま、にっこりと微笑んだ。小林がきょとんとした顔になる。
「えっと…真梨センパイ……?」
「ふんっ!!」
腹筋に力を込めて上半身を勢いよく起こし、小林の顎めがけてヘッドバットを振りぬいた。ゴツッ!! と鈍い音がして、視界に火花が散る。小林はそのままベッドの向こう側へと転がり落ちていった。
私自身の頭もひどく痛んだが、怒りに任せて起き上る。抜けていた腰も戻ったようだ。怒りの力ってすごい。
「小林檎宇!! そこに座りなさい!!!」
ベッドに仁王立ちで命令すると、顎をさすりながら小林が恨みがましい目つきで見上げてきた。
「もう座ってるってか、座らされてるけど~」
「この場合座れと言ったら、正座に決まっているでしょう? せ・い・ざ! はい、おすわり!!!」
「はい!!!」
鋭く命じれば、小林は飛び上がるように背筋を伸ばし正座の姿勢を取った。それを見届けてから私もベッドの上に正座する。
「まず! どんな理由があれ、体格、腕力共に弱い女子に対して力に訴えるのは絶対に駄目です!! わかったら復唱! 『か弱い女の子を力で捩じ伏せない』はい!」
「か…か弱い…? 女の子を…力で捩じ伏せません……」
ゲームの中で、小林が桃香を押し倒そうとするエピソードがあったのを思い出す。怯えて泣き出す桃香のスチルに胸が痛み、あの時は小林を殴りたくてしょうがなかったのだ。この先、桃香が小林ルートに進むことがあったとしても、桃香にそんな怖い思いはさせないように、今のうちにしっかり言い聞かせておかないと。
「私はともかく、ほとんどの女の子はあなたよりもだいぶ背が低いし、か弱いんだから、力任せに圧し掛かられたら怪獣にしか思えないのよ。怖い思いをさせて、トラウマにでもなったらどうするの」
くどくどとお説教する私に、小林は腑に落ちないという表情を浮かべていたが、ギンっと音がしそうな勢いで睨み付けたら首をすくめて頷いた。
実際、ゲームの桃香はそのエピソードからしばらくは男の子に対して極度に緊張するようになってしまっていた。そして桃香に怯えられた小林もそのことで深く傷ついていた。あんな風に拗れたらどっちも大変だ。小林はともかく、桃香にそんな思いはさせたくない
「……真梨センパイも……怖がらせた…よね?」
小林がおずおずと言った様子でこちらを窺ってくる。怖がったというか、自分でも思ってもみなかったトラウマが発動して取り乱してしまっただけだ。小林は沢渡とのことは知らないから、私が小林に対して怯えたのだと思っているのだろう。
沢渡の事を思い出すと今でも胸が痛む。自分でも思っていた以上にあの事件を引き摺っているのだと思い知らされた。
「……私はともかくって言ったでしょ」
努めて冷静に答えたつもりだった。けれど、そんな私の強がりは見抜かれていた。膝に置いた手に、小林の大きな手が重なる。
「でも、手も膝も…震えてる」
そっと膝上で握っていた拳を大きな手で包まれて、自分の手がカタカタと震えていたことに気づく。
「これは…怒りで震えてるのよ……」
否定する声にも力がこもらない。ボフッと音を立てて小林の顔がベッドの縁に沈んだ。
「ごめんなさい……」
力なくしょぼくれた声で謝られた。力なく垂れた耳としっぽが見えたような気がする。
「……あ~あ…俺カッコわるぅ………。ねぇ、センパイさっきの事、妹ちゃんには言わないでくれる? 俺殺されちゃうよ~」
確かに状況だけ説明すると桃香にあらぬ誤解をされかねない。桃香とこいつを引き離したいのは山々だが、誤解で人を貶める様なやり方は良くないし、私自身も桃香に誤解されたくない。
「……わかったわ。桃香にも、誰にも言わない。その代り、小林君もさっきの事はこれ以上追及しないで頂戴」
沢渡の事件の事は話せないし、ついでに足を挫いたという嘘の真相も話したくない。暗にそう伝えると、小林はしばらく唸りながらベッドの縁に頭をぐりぐりとやっていたが、結局はむくれつつも頷いてくれた。
「むぅ~…。わかった、聞きたいけど我慢する。……けど、一個だけ、あのお侍先輩に会ったのは本当に偶然? ……なんか、二人で約束してたとかじゃなくて…?」
「それだけは天地がひっくり返ってもあり得ないから。……足を挫いたっていうのは確かに嘘だけど、ちょっと事情があって歩けなくなってたところに通りかかったから仕方なく送ってもらうようお願いしたのよ。本当にそれだけ」
「…………わかった。信じる」
言いたいことはまだありそうな表情だけれど、それでも我慢してくれているのが分かったので、そっと手を伸ばしてその頭を撫でた。
「……ごめんなさいね。…それと、迎えに来てくれてありがとう。……心配してくれたのよね?」
「…した。また変な奴に呼び出されたんじゃないかとか。…妹ちゃんも、センパイが一人で夜に出歩くとは思えないって言ってたし…って、ぁあ!!」
「え?! どうしたの?」
小林が慌てた様子でガバっと身を起こしたので顔がぶつかりそうになった。寸でのところで避けたけど。
「妹ちゃんに真梨センパイ見つかったって連絡入れないと!!」
慌ただしくスマホを取りだしたのと、通知音が鳴り響くのが同時だった。表示されたラインメッセージを見た小林が顔をひきつらせてドアの方へと走っていった。ドアをガチャガチャと開ける音がして…。
「マジごめ…っ!!!」
「問答無用ーーーーーーーーー!!!」
桃香の怒声と聞き慣れた竹刀の音がして、思いっきり一本打ち込まれたらしい小林が悶絶しながら室内に転がりながら戻ってきた。後を追うように桃香と津南見が入ってくる。どうやら津南見が桃香に連絡したらしい。
「おい、大丈夫か?」
「お姉ちゃん!! ごめんなさい!! 小林君なんかに迎えに行かせたのが間違いだった!! 何かされた?!! すぐに成敗するから待っててね!!!」
「あ、いえ、何もされてないし、成敗まではしなくても……」
「でも!!」
「私が足を挫いたって聞いて手当てしようとこっちに連れてきたけど、元々大したことなかったから今から部屋に戻るところだったのよ?」
小林にはさっき私も頭突きをかましているし、この上さらに成敗されたら流石に無事じゃ済まないだろう。相手は剣道全国上位者だ。
「…本当に大丈夫なのか?」
津南見も心配そうに尋ねてくる。まあ、彼の場合は足を挫いたが嘘だと知っているので、腰が抜けていたことの方を心配しているのかもしれない。ベッドから降りて立ち上がって見せる。
「見ての通り、もう大丈夫です。桃香、部屋に戻りましょう? ね?」
「う…うん……。小林君、お姉ちゃんの言葉に免じて今日は見逃すけど、今度ちゃんと釈明してもらうからね!!」
「うぇ~~いぃ……ね、真梨センパイ…妹ちゃんに限ってはさっき言ってた『か弱い女の子』の範疇にいない気がすんの俺だけかな……?」
「そんなことないわよ……。小柄で華奢で…どこからどう見てもか弱くて可愛い女の子でしょ」
「………真梨センパイのそのフィルターが一番の敵って気がしてきた……」
がっくりとうなだれる小林を置いて、私は桃香に引き摺られるように彼の部屋を出た。一緒に出てきた津南見は何か言いたそうにしていたが、桃香がいるのを気遣ってか、そのまま部屋の前で別れた。約束通り、さっきの事については黙っていてくれるつもりらしい。
「……桃香、心配かけてごめんなさい。ちょっと外に出たくなって…桃香良く寝てたから起こすのも悪い気がしたのよ」
例のブログの事や、ドアの下に手紙を差し込んできた不審者の事は桃香には話せない。あたりさわりのない言い訳を口にする。振り向いた桃香はぷっくりと頬を膨らませてむくれていた。
「だからって夜中に鍵も持たないで出ていくなんてうっかりしすぎ!! 目を覚ました時すっごいビックリしたし、すっごくすっごく心配したんだからね!!」
「ええ、ごめんなさい。次からはちゃんと桃香も誘うわ」
「……うそ」
「………え?」
桃香は消え入りそうな声で言うと、私に背を向けて歩き始める。
「も…桃香……?」
「お姉ちゃんはそう言うけど、いつも危ない事する時には私を中に入れないようにってするでしょ? ……小林君や篠谷先輩、梧桐先輩の事は生徒会の仲間だからって頼りにするのに………ずるいよ」
細い肩が震えているのを見て、胸が痛んだ。私が桃香を守りたくて危険から遠ざけようとしていたのを、そんな風に思っていたのか…。駆け寄って後ろから抱きしめる。
「……ごめんなさい。心配ばかりかける駄目なお姉ちゃんで本当に、ごめん。………でも」
「『私はお姉ちゃんだから』……でしょ。お姉ちゃんがそういう性格だって事、分かってる。……言い出したら聞かないって事も……」
「うん………ごめんね」
「謝りすぎ。………いいよ、私は私でお姉ちゃんを心配するの止めないから」
心配してくれるのは嬉しいけど、危ない事には関わらせたくないなぁ…。これからはできるだけ桃香にばれないよう動かないと……。
「……お姉ちゃん、何かよくない事考えたでしょう?」
「そ…そんなことないわよ?」
この賢い妹相手に隠し通せるかは…ちょっと…いや、かなり不安だけど……。桃香が攻略対象の誰かに恋をするにしても、しないにしても、桃香を幸せにするために、危険なイベントは回避させてみせる。
ポケットの中で、津南見のハンカチと一緒に突っ込まれていた写真がカサリと音を立てた。