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番外編書いてたらうっかり本編が短くなりました。
保健室で充分に眠った所為か、目が覚めるころには頭痛も吐き気も、ついでに胃痛も治まっていた。この分なら桃香が来たら一緒に帰れそうだ。篠谷が迎えに来るとか言っていたが、体調が回復した以上、あいつと桃香を一緒に下校させたくない。
このままここで待っていたら、あいつが来て、最悪桃香と鉢合わせになる。そうなる前に桃香を連れて帰らなくては!
私は起きて合歓木先生にお礼を言うと、保健室を飛び出した。
「……で? もう一度お聞きしますけど、あなたは僕が香川さんにお願いした伝言を聞いていましたか?」
「き…聞いてましたけど……」
「ほう…その上であえて僕の顔を見た途端走って逃げようとした意図について、詳細にお伺いしても?」
くっそ、まさか廊下に出た途端生徒会室から降りてきた篠谷と遭遇するなんて、神様は意地が悪い。その上走って逃げたら速攻で掴まった。…やっぱりまだ本調子じゃないらしい。
そんなわけで、現在絶賛、篠谷の嫌味を聞いています。
「に…逃げたわけでは……」
あるけど。
「体調も良くなりましたので送っていただく必要はなくなったかと……」
「病み上がりがそんなことを言って…。帰りに倒れでもしたらどうするんですか。妹さんお一人ではあなたを運べないでしょう?」
正論ではあるんだが、腹立たしい。確かに私の方が身長もあるし、重いので桃香には運べないんだろうけれども! たとえ正論でもセクハラじゃないだろうか。
「……別にあなたが殊更重いと言っている訳じゃありませんよ。…僕が一緒なら多分運べますし、そもそも車でお送りすればそんな心配も無用だと申し上げているだけです」
半眼で睨み付ければ篠谷が少し気まずそうに目を逸らす。多分って…それで落とされでもしたらショックなので、もし今後機会があったとしても、篠谷に運ばれるのは断固拒否しよう。私は心ひそかに決意した。
そのまま延々と粘着王子の嫌味を聞いているかと思われた時間は、会いたかったけどこの場には来てほしくなかった天使の登場で終止符が打たれた。
「お姉ちゃん?! そんなとこで何してるの??」
「桃香…」
駆け寄ってきた桃香は部活が終わってシャワーを浴びてきたのだろう。髪が少し湿っていて、甘い香りがした。こんな美味しそうな状態の桃香を連れて篠谷と一緒に帰るとか…やっぱり危ない。篠谷に言って送ってもらうのは無しにしてもらおう…。
「篠谷君…せっかく気を使ってもらって悪いけど、やっぱり…」
「葛城さん、今お姉さんとも話していたのですが、病み上がりの状態で歩いて帰るのは危ないので、お二人とも僕の家の車でお送りします」
「え…?」
そんな私の行動は予測済みだったのか、篠谷は先手を打ってきやがった。桃香が戸惑うようにこちらを見て、暫く迷った後、首肯する。
「わざわざありがとうございます。…でも私までいいんですか?」
「同じ場所に送るのですから当たり前でしょう?」
私の警戒をよそに送ってもらう方向で話がまとまり始めている。っていうか、距離が近い。そこの粘着王子、桃香に近付くな。思わず小柄な肩を抱き寄せて腕の中に庇う。桃香はどうしたの? と可愛らしく小首を傾げ、篠谷は何故か仕方ない人だなあと言わんばかりの苦笑いを寄越してきた。
「篠谷君、私なら体調も良くなったからやっぱり送ってもらうのは…」
「お姉ちゃん、折角だから今日のところは先輩にお願いしよう? お姉ちゃん、大丈夫だって言って無理すること多いし、今日だって、すごく苦しそうで、心配したんだよ? 津南見先輩に聞いたけど、熱もあったんでしょ? ね? 私もついてるから」
小動物的で愛らしいマイスイート嫁な妹に、すがるような目で見上げられ、断れるやつがいるだろうか? 否! いるわけがない!!
「分かったわ。桃香の言う通りにする。心配かけてごめんなさいね」
「ううん。私がもっと身長も高くて力も強かったらお姉ちゃんの事余裕で抱えて帰れたのに……」
一瞬筋骨隆々な桃香を想像してしまった。……お姉ちゃんは今のありのままの桃香が一番好きかな。うん。どうか桃香の身長がもう伸びませんようにと酷いことを思いながら頭を撫でる。姉のエゴだが、桃香にはいつまでも小さく可愛い妹でいてほしい。
「それじゃあ話がまとまったところで行きましょうか」
妙に上機嫌の篠谷に、改めて警戒心が募る。これを機に桃香と距離を詰める気満々なのだろう。そうはさせるか。私は桃香と篠谷の間を遮るように、二人の間に立って歩き出した。
車では、篠谷が助手席に、私と桃香が後部座席にそれぞれ座った。これが沢渡家のようなリムジンだったら向かい合って座る羽目になっていたことを思うと、国産車好きらしい篠谷のご両親には感謝すべきだろう。
「篠谷先輩、生徒会でのお姉ちゃんの様子とか、聞いてもいいですか?」
「そうですね…大変優秀で仕事熱心な方ですよ。執行部のメンバーや役員からも慕われていますし…。慕われ過ぎているくらいです」
向かい合っても隣り合ってもいないとはいえ、桃香と篠谷はなんだか楽しそうに話している。内容は家庭訪問の教師と親みたいな会話だが…。何となく口を挟めないまま、二人の会話を見守っている。本来なら、積極的に二人の会話を邪魔するべきなんだろうけれど、桃香が楽しそうにしているのを遮るのは忍びない。…それでも何となく寂しい気持ちで桃香の横顔をじっと見つめていたら、突然ギュッと抱き付かれた。何故か頭を撫でられている。
「え?! あの…?!! 桃香??!」
「お姉ちゃん可愛い…」
何かぼそっと言われた気がするが混乱して聞き取れない。ああ、でも桃香の身体は柔らかいなあ…甘い匂いがするし、今日昼休みに抱きしめられた津南見の身体とは大違いだ…。
「……っ!?」
いらん事を思い出して顔がぼっと火照る。駄目だ、あれは忘れろ。事故だ事故。思わず桃香にぎゅうぎゅう抱き付けば、嬉しそうに頭を撫でる速度が上がった気がした。折角なので、ささやかだが柔らかな胸に顔をうずめていたら、咳ばらいが聞こえて、我に返った。
「…姉妹仲がよろしいようで大変結構ですが、多少は人目を憚ってください」
「ご…ごめんなさい」
慌てて身を起こせば、篠谷が呆れたような、少し気まずそうな顔で溜息をついていて、流石に少し恥ずかしくなった。桃香はと言えば、少し不満そうに唇をとがらせている。可愛いから。その顔。うっかりまた見惚れそうになって、誤魔化すために鞄からペットボトルのお茶を取り出して飲もうとした。
「あっ!」
慌てていた所為で、ふたを取り落としてしまい、少しだけ中身が膝にこぼれた。ポケットからハンカチを取り出して拭いていたら、桃香が何かに気づいたように目を丸くした。視線の先をたどると、白地に小鳥が刺繍されたハンカチがポケットから転がり落ちていた。自分のハンカチを出す時に一緒に出てきてしまったらしい。
「それ…津南見先輩のハンカチだよね? 何でお姉ちゃんが持ってるの?」
「えっとこれは…ちょっと借りていて……」
記憶力の良い桃香は津南見がお詫びと称して桃香に渡そうとした事があるそのハンカチを覚えていたらしい。これを借りるに至った経緯については絶対に桃香に話すことはできないので、どうしたものかと誤魔化すように曖昧な言葉を並べながら何気なく前を見たら、篠谷がじっとハンカチを見ていた。
「……津南見先輩だったんですか………」
ゾワッと、背筋に鳥肌が立つのが分かった。以前、シェリムの事で本気で怒ったような篠谷にうっかり怯えたことがあったけれど、その時の比じゃない、暗く、冷たい声。こんな篠谷の声をどこかで聞いたことがある。あれはどこでだったろう…。ずっと昔…そう、前世でやったゲームの中で……ヤンデレ化する直前の、感情が抜け落ちたような、篠谷の独り言のシーン…。
あの時はそれが役者が演じている演技だと知っていても、ゾクゾクしたのを覚えている。今回のそれはずっとリアルで…言い知れない恐怖を私に感じさせた。
「篠谷君…あの…このハンカチはたまたま借りていただけで……その…誤解よ?」
何が、とは言えない。昼休みの事は桃香には絶対に話せないし、嘘を吐くのも心苦しい。そんな気持ちが顔に出ていたのか、篠谷は全く信じてない顔でにっこり笑った。…目だけは笑ってなかったけど。
「そうですか。…たまたま……ね」
「? 篠谷先輩、何かご存じなんですか?」
「いえ、普段真梨香さんが使っているハンカチと趣味が違っているようだったので、どなたかからの頂き物かと思っていたんですよ。…借り物で、津南見先輩というのは意外でしたけど」
この場合、意外というのは私が泣いていたことと無関係ではないだろう。元々私の方が意図して避けていたおかげで私と津南見は本当に必要最低限の事務的な会話しかしていない。そんな津南見に私が泣かされたというのは、篠谷でなくとも意外に思うだろう。
実際、昼休みのあれは私が勝手に混乱して泣いてしまったのであって、津南見が私に何かしたというわけではない。きっかけは津南見の言葉にあったかもしれないが、あの状況では津南見にしても、いきなり訳も分からず泣かれて迷惑だったのではないだろうか。その上部活中に乱入した挙句、体調不良を起こして迷惑をかけて…。私が津南見ならデコピンの5、6発はお見舞いしている。…思い出したらまた恥ずかしくなってきた。
「…お姉ちゃん、顔赤いけど、大丈夫? また熱が上がって来ちゃった?」
津南見のハンカチを握りしめたまま一人百面相していた私を桃香が心配そうにのぞき込んでくる。慈愛に満ちた表情に心が癒される。
「いえ、大丈夫よ。…ハンカチは、昼休みにたまたま津南見先輩と話をした時、借りて汚してしまったから、洗って返す約束をしているだけよ。今日は部活の邪魔もしてしまったし、今度改めて謝罪に伺いますと伝えておいてくれる?」
「わかった。言っておくね」
桃香がそう言った時、車がちょうど家の前に着いた。車から降りた私たちを、篠谷が家の門扉まで送る。
「真梨香さん…」
「篠谷先輩、今日は送って下さってありがとうございました。…お姉ちゃんを早く休ませてあげたいんで、お話は今度にしてもらえませんか?」
何か言いかけた篠谷を遮って桃香が私の前に出る。きっぱりとした口調に、篠谷が溜息をついた。そこには先ほどの様な底冷えするような冷たさはなく、寂しげな苦笑いを浮かべて、篠谷はそうですね、と頭を下げた。
「僕としたことが、すみません。真梨香さん、ゆっくりと休んでください。明日の朝ミーティングも、無理はせず、きつそうなら休んでください」
その顔を見てるうちに、何とも言えない気持ちになる。
「桃香、申し訳ないんだけど、ちょっとだけ、先に家に入っててくれない?」
「お姉ちゃん?!」
「…お願い。すぐちゃんと家に入って、休むから」
手を合わせてお願いすると、桃香は渋々とだけれど、家の中に入って行ってくれた。改めて、篠谷に向き直る。篠谷は訝しげな表情で、その場に残った私を見つめている。
「あなたは先ほどの僕と妹さんの会話を聞いていなかったのですか? 早く体を休めるようにと…」
「あの、本当に、誤解だから!」
お小言を言い始める篠谷の言葉に被せるように、そう言ったら、篠谷が驚いたように目を見開いた。
「ハンカチの事と…津南見先輩と昼休みの件は本当に、関係な…くもないけど、篠谷君が思っているようなことじゃないから。私がその…泣いてるところに居合わせた先輩が気を使ってハンカチを貸してくれただけで……先輩に何かされたとかじゃないから…それだけは…信じて頂戴」
「真梨香さん……?」
「今日は…ありがとう。…送ってくれたことも…昼休みの事も、桃香に黙っていてくれたことも……それだけ」
言うだけ言って、踵を返そうとしたら、篠谷に手を掴まれた。驚いて振り返れば、なぜか真っ赤な顔の篠谷がいた。熱でもあんの? いや、熱があったのは私の筈。…感染った?!
「……信じます。………信じたいと思っています。…………だから、あなたも僕を信じてください」
「信頼…してるわ……」
「信頼じゃ足りません。信用でもない……あなたが僕を心から信じて、ちゃんと全て話してくれるまで、待っていますから…」
掴まれた掌に、篠谷が唇を寄せるのが目に入って、思わず振り上げた手は篠谷の顎を直撃していた。
「と、とにかくそう言うことだから、それじゃあまた明日! おやすみ!!」
逃げるように玄関に飛び込めば、むくれた顔の桃香に抱き付かれた。
「お姉ちゃん、顔が赤くなってる。やっぱり熱が上がってるんだよ。ちゃんと休まなきゃ駄目」
そのまま部屋まで連行され、ベッドに押し込まれた。今日は桃香にも色々心配をかけてしまったので、大人しくされるがままになる。…いつも割とされるがままな気もするけど。
「ご飯は食べられそう? 具合がまだ悪いならお粥とか作るけど…」
「大丈夫、食欲は普通にあるから。今日はお母さんの当番でしょ? 楽しみなんだから食べさせて」
「わかった。持ってくるから、ちゃんと休んでてね」
その後、「食べさせて」と言った私の台詞をそのまま受け止めたらしい桃香に、あーんしてと言われ、悶死しそうになったのはまた別の話である。