18
今回短めですみません。
カリカリとペンが紙を走る音だけがやたらと耳に付く。そっと、瞼に当てたアイスバッグをずらして音のする方を盗み見る。机に向かって黙々と書き物をしている篠谷はさっきからずっと無言だ。
生徒会室に強引に引っ張り込まれた時には、てっきり何があったのか根掘り葉掘り詰問されるものと思っていたのに、私を椅子に座らせ、アイスバッグを目元に当てさせたかと思うと、後は無言で自分の作業に戻ってしまった。
私はと言えば、下手に動けば何か言われるのではと警戒しているうちに、出ていくタイミングを完全に逸してしまっていた。どのみちここを出て行って赤く腫れた目を誰かに見られるリスクを思えば、篠谷には既に見られてしまったのだから、今更隠しても遅いという諦観もある。今のところ何も言ってこないし、ここは顔を冷やすのに専念した方が良さそうだ。
「(……それにしても…顔だけはほんと、完璧だよなあ………)」
すらりとした長身に金髪碧眼はお伽話の王子様そのものだ。
ハニーブロンドの髪は緩く癖があり、柔らかそうだ。少し俯いて、机上に視線を落としている為、伏せたまつ毛の長さが遠目にも良く見える。碧の瞳は宝石のように澄んでいて見るものを惹きつける。すっと通った鼻梁、肌理の細かな白磁の肌にはシミひとつない。普段は胡散臭い微笑みを浮かべている唇も今は引き結ばれ、真剣な表情をしている。
「(いつもの寒気がするような笑顔よりこっちの方がいい顔してると思うんだけどな…)」
篠谷にとってはあの笑顔が人付き合いの上での鎧みたいなものだから仕方ないのだろうけれど。
小さい頃から家同士の思惑や大人の事情に振り回されて育った篠谷の、処世の為の笑顔は、繊細で脆い彼の心を守るための壁だ。ゲームの彼がヤンデレキャラなのは、愛情が深すぎることと、その心が繊細過ぎるが故の悲劇でもある。
「(………もし万が一、桃香と付き合うことになれば、素の表情を見せるようになるのかな……)」
ゲームの中の篠谷の、ハッピーエンドルートを思い出す。過去の思い出を桃香が思い出し、恋人同士になった二人が、沢渡の妨害や、篠谷のヤンデレ堕ちを回避して、迎えるひたすら甘いラブエピソードの詰まったルートだった。桃香に対して屈託ない笑顔を見せる篠谷と幸せそうに笑い返す桃香。二人の思い出の場所で篠谷が桃香にもう一度プロポーズをするスチルでエンディングになり、テーマソングとエンドロールの後、数年後、結婚式を挙げる二人の姿がエピローグとして語られ、幕を閉じる。
幸せそうな桃香の笑顔に、娘を嫁に出す父親の心境を味わいながらコントローラーを握り締めて感涙したのを思い出す。
いつか現実の桃香も私の手を離れて行ってしまうのかと思うと今からすでに胸が痛い。篠谷のエンディングスチルを思い出してふっと零れかけた溜息を飲み込む。
はっと我に返って、篠谷の様子を窺うが、先ほどと同じように書類に向かっている。集中している様子に声をかけるのもためらわれるが、そろそろこの沈黙に耐えるのも辛くなってきた。
「…あの…篠谷君……」
声に出して呼んでから、しまった、と思う。どうして何も訊かないのかだなんて、訊かれても何も答えられない人間が言っていい台詞ではない。篠谷に、なぜ泣いていたのかと訊かれても、津南見の事も、前世の事も、桃香の事も、何一つ話せることなんて無いのに……。
アイスバッグの影からそっと顔を出せば、篠谷が手を止めてこちらを見つめていた。碧の瞳がもの問いたげに揺らぐ。
私はそっと目を逸らし、まったく別の事を口にした。
「あ…えっと……私、邪魔じゃない? それ…おうちのお仕事関係の書類じゃないの?」
篠谷はごくたまに父親の経営する会社の手伝いでマーケティングのデータをまとめたりの作業をさせられているらしい。当然社外秘だろうから、教室ではなくここで作業していたのだろう。いくら中を見ていないとはいえ、私が近くにいては作業しづらいのではないだろうか。
「大丈夫です。父の頼まれ物には違いありませんが、仕事の関係ではありません。ちょっとした手紙の翻訳を頼まれてやっていただけです」
「そ…そう……」
再びの沈黙。しかも今度は篠谷の視線付き。これならまだ黙って顔を冷やしていた方がマシだった気もする。
「…真梨香さん」
「あ、あの! …篠谷君は…体育祭、何に出るつもりなの?」
何か言いかける篠谷を遮って無理やり話題を振る。生徒会が次に運営として関わる大きな行事が体育祭だ。実行委員会の招集のスケジュールやらその後の日程調整などの裏方が主な仕事になるが、それぞれクラスでの競技にも参加することになっている。
去年は不本意な事に吉嶺橘平との2人3脚をする羽目になったので、今年は何があっても学年混合のチーム代表とかにはならないようにしたい。
「体育祭…ですか? まだ考えてはいませんけれど、メドレーリレーか障害物競争ですかね。……真梨香さんは昨年は確か組対抗の2人3脚に出ていらっしゃいましたよね」
昨年の話になった瞬間、篠谷の声がワントーン低くなったような気がする。
「今年はできればああいう誰かと組んでやる競技は遠慮したいわ。玉入れとか短距離走を希望しようと思ってるの」
「ああ、それがいいですね。…安心できる」
……チームプレイが得意だとは言わないけど、そんなにはっきり言われるとさすがに傷つくぞ。ちょっとムッとしたのが伝わったのか、篠谷がぷっと吹き出した。
「…失礼。真梨香さんが思っているような意味じゃありませんよ。…何でしたら今年は僕と組んでみますか? 2人3脚。…案外、息が合うかもしれませんよ」
「走りながら互いに口喧嘩になる様が目に浮かぶようだわね。…あとは日頃の鬱憤を晴らす勢いで文字通り足の引っ張り合いになると思う」
まだ組分けも決まっていないのだから、私と篠谷の2人3脚なんて可能性の低い想像だけれど、そうやって言い争うことで、やっといつもの自分を取り戻せたような気がした。篠谷もさっきまでの微妙な雰囲気が消えて、いつも通りの憎まれ口を叩いてくる。そのことにすごくホッとした。
「……ごめんね」
篠谷が気を使ってわざと言ってくれているのはさすがに私でもわかる。そんな篠谷に何も話せないことが少し心苦しくて、そう言うと、篠谷が立ち上がって目の前に来た。少し屈んで、正面から見つめられる。碧の瞳に自分が鏡写しに見える。
「……やっぱり、話せませんか?」
「………うん」
篠谷の表情は静かで、怒っている訳でも、苛立っているわけでもなさそうだった。ただ、少し悲しげに見えた気がして、胸の奥がチクリと痛む。
思えば篠谷は私が悩んでいるときによく、話を聞く、力になりたいと言ってくれていた。それに甘えることができないのは私個人の都合なのに、いまだにこうして気遣ってくれる。それを思うと余計に申し訳ない気持ちになった。
「…今はまだ、気持ちの整理がついてないから……」
とは言ったものの、気持ちの整理を付けても、篠谷相手に前世がどうのという話はできないだろうけど…。
後ろめたくて俯いたままそう言えば、篠谷は黙ったまま、アイスバッグを持った私の手に自分の手を重ねてきた。冷えていた手にそれは熱いくらいに感じられてビクッとして手を引っ込めようとしたら更に強く握りしめられた。
「……本当は、何があったのか、無理やりにでも聞き出したい気持ちはありますけど、それをすれば、ただでさえ傷ついているあなたを徒に追い詰めることになる…。だから今は聞きません。その代わり…もう少しだけ、ここで休んで行ってください。……そんな顔のあなたに外を歩かせたくありません」
握りしめられた手に力がこもって、もう片方の手が私の頬を包み込むように触れた。そっと撫でられて、親指が目元を擽るようになぞる。
「………まだ顔も赤いし、少し熱があるようです。あなたのクラスには伝えておきますから、午後の授業は欠席して、ここで休んでいってください」
そう言うと篠谷がすっと離れた。自分のデスクの書類をまとめると、生徒会室を出ていく。足音が遠ざかって、聞こえなくなるまで、私は指一本動かせずに固まっていた。
篠谷の気配が完全に遠ざかり、静寂の訪れた生徒会室で、私は無言で机に突っ伏す。
頬に手を当てれば、燃えそうに熱い。大きな掌と繊細そうな指の感触がまざまざと蘇る。
……まだ、顔が赤いと言われたって……。
「誰の所為だと思ってるのよ……あの男は~~~~~!!!」
生徒会室内に、声にならない私の叫びが響いた。
結局、午後の1番目の授業は篠谷に言われた通り、サボってしまった。それも保健室ではなく生徒会室で。何とか気持ちを落ち着け、顔の赤みも引いたことを確認してから教室に戻れば、クラスメイトの柿崎由紀が心配そうに駆け寄ってきた。
「篠谷会長に聞いたよ? 生徒会室で資料整理してて貧血を起こしたから、動かさないで休ませてきたって。もう大丈夫なの?」
どうやらクラスにはうまいこと誤魔化してくれたらしい。由紀にまで嘘を吐くのは忍びないけど、今日の事については篠谷の言った通りの状況だったことにしておこう。
「ええ、心配かけてごめんなさい。もう平気よ」
「いや、元気になったんなら良かったよ。はい、これさっきの授業のノート」
「ありがとう。助かるわ」
由紀からノートを受け取り、ざっと目を通す。テストも近いし、この時期の授業は落とせない単元が多い。今日は色々な事がありすぎて、正直勉強に集中できる気がしないけれど、これでも特待生の身の上だ。疎かにはできない。
「マリカの欠席を告げに来たアノ男…。笑顔で私を睨んできまシタ」
斜め後ろからシェリムが覗き込むように身を乗り出してきた。……そう言えば、教室にはこいつがいたんだった。もとをただせばシェリム対策で津南見に会いに行ったのだから、ある意味今日の一連の出来事の元凶である。
外国人だからなのか、ファーストネームで呼んでくるので、最初は無視していたのだが、苗字の『葛城』が言いづらいと訴えられてからは仕方なく放置している。
「『あなたが女性に怪我をさせてまともな謝罪一つできないと噂の留学生ですか』と言われました。酷いフウセツ被害デス。私はずっと貴女に謝罪しているノニ、マリカが受け入れてくれないカラ誤解されていマス」
それを言うなら風評被害だ。風雪じゃ天気による災害になっちゃうじゃないか。シェリムの国では雪が降らないだろうけど。
「まあまあ、王子、自業自得ですよ。特に篠谷会長が怒るのは仕方ありませんって」
「ジゴウジトク? 初めて聞く言葉デス。どういう意味でスカ?」
「あはは~、じゃあついでにこういう時に使う言葉も教えますね~。『ググレカス』て言うんですよ~」
由紀のフォローする気のないフォローにシェリムは興味深げにうんうん頷きながらメモを取っている。……由紀、全然表情に出てないけど、もしかしてシェリムに対して怒ってる…?
親友が愛想よくシェリムに罵詈雑言を吐くのを横目に見ながら、冷汗を垂らす。
「そう、これは私の勘なのデスが、彼は私の恋敵ではないかと思いマス。砂漠の民の勘デス」
砂漠の民の勘すごいな。ほぼ合ってる。そこまで相手の感情の機微が読めるんなら、もうちょっと空気が読めてもいいのじゃないだろうか。そんな風に思ってシェリムを振り返ると、シェリムは無邪気そのものの笑顔でこう続けた。
「マリカの妹姫ともすぐに会える気がしていマス。意地悪な姉の迫害に耐える美しい姫とそれを救う王子は乙女の憧れと聞きまシタ。まさに私たちそのものデス。そうは思いまセンか?」
そんな問いかけを『意地悪な姉』役に率直にしちゃう神経にある意味で感心してしまう。思わず半眼で睨む。
「ああ、そんな顔をするト、益々絵本で呼んだ意地悪なお姉サンにそっくりデス」
……なんというか、相手をするのも馬鹿馬鹿しくなってしまって、私は由紀と顔を見合わせ、次の授業の準備に集中することにした。
放課後になり、今日こそは妹を紹介しろと詰め寄ってくるシェリムを躱して生徒会室に急ぐ。正直、篠谷に会うのは気まずいが、仕事は仕事だ。そう思いながら急いで歩いていた所為か、本校舎の出口で小柄な影とぶつかりそうになってしまった。
「わッ!? ごめんなさ…って、桃香?!」
「お姉ちゃん!」
タイミングの悪さに舌打ちしそうになる。背後からシェリムが私たちを見つけて猛ダッシュしてくる。
「やっと見つけまシターーー!! ここで会ったが百年目デス!!」
シェリム、それは敵に会った時の台詞だよ。由紀辺りが教えたんだろうな…。一瞬きょとんとした桃香がシェリムの顔を見てムッと眉根を寄せる。
「あなたはあの時の失礼な外人!!」
「ああ、それは誤解デス。お姉サンにもあの時の非礼は誠心誠意お詫びしていマス。ここで会えたのも運命の女神が私を許してくレタからに他なりまセン」
運命の女神が許しても被害者は許していないんですが、無視ですか。そうですか。シェリムの言葉に桃香は益々むっとして、私を背中に庇おうとする。桃香よ、この男の狙いはあんたなので、どっちかっていうと私の背に隠れててほしい。
「あなたがお姉ちゃんに怪我をさせた上に、怪我したお姉ちゃんを地べたに放り出したこと、絶対絶対に許さないんだから!」
「怪我をしたノハ彼女が車の前に飛び出してきたからデ、こちらも事故を防ぐので精一杯でシタ。如何様にもお詫びしマス。どうか許していただけまセンか?」
桃香に跪いてその手を握ろうとするシェリムの手を叩き落とす。
「うちの妹に気安く触らないで頂戴」
「暴力は良くないと思いマス。マリカはヤマトナデシコのツツシミが足りまセン」
「お姉ちゃんを気安く名前で呼ばないで!」
三者三様のかみ合わない口論に、通りすがりの野次馬が集まり始める。とにかくこの暴走王子をどうにかしないと、部活や仕事どころじゃない。一旦謝罪を受けると言って後日面会の場を設けるか、いっそダッシュで振り切って逃げるか…。
頭の中で作戦を考えていると、野次馬をかき分けて、長身の男子生徒が割り込んできた。センター分けのまっすぐな黒髪と、理知的な細身のスクエアフレームの眼鏡、涼しげに整った美貌の風紀委員長、菅原棗先輩だった。
「お前たち何を騒いでいるんだ?」
風紀委員長の登場で益々興味津々の顔になる野次馬。一方シェリムは相手が何者か知らないらしく、怪訝そうな顔で菅原先輩を見つめ返す。
「何ですか? アナタは。今私は運命の出会いを果たして取り込み中デス。邪魔をしないデくだサイ」
シェリムの言葉に菅原先輩が『何を言ってるんだこいつは?』という顔をする。気持ちはわかるけど。
「運命ね…なんにせよこんな場所で騒ぎを起こせば登下校中の生徒の邪魔だろう。時と場所を改めたらどうだ?」
ちょうど同じような案を考えていたところだ。ここは菅原先輩に乗っかるとしよう。
「ジャムシード君、菅原先輩の言う通り、今は私も妹も急ぎの用事もあるし、後日ちゃんと話し合いましょう?」
どちらにせよ、桃香がこの学園の生徒だとばれた以上はシェリムが桃香のストーカーと化すのは目に見えている。被害を最小限に防ぐためにも、これ以上は逃げずにちゃんと話し合うべきだと思った。
「急ぎの用事、トハ? マリカは生徒会と聞きまシタ。妹姫は? 放課後、家へ帰るところでしタラ私がお送りしマス」
「私は部活よ! ついて来ないで!!」
「桃香!」
慌てて桃香を止めようとしたが間に合わなかった。部活、という言葉にしばらく考え込んだシェリムの顔が輝く。
「ブカツとは放課後にスポーツや文化芸術に嗜む学生ならではの活動ダト聞きまシタ。私も姫と同じブカツに入りマス!」
「え?! やだやだ、絶対お断りよ!! ついて来ないでったら!!」
桃香が心底嫌そうに騒ぐけれど、シェリムの中ではもはや決定事項になっているらしく、交換留学で来ている彼の立場上も部活に入る権利は保証されてしまっているわけで、ここでも私はシェリムが桃香のいる剣道部に入るフラグを折ることに失敗したことに、溜息をつかずにはいられなかった。
会長、それセクハラです。