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「桃香、桜花学園入学おめでとう!」
その日の食卓では久々に母の手料理が並び、小さめではあるがケーキも用意され、ささやかながらも心づくしのお祝いとなった。
「真梨香に続いて桃香まで桜花に通うことになるなんて、なんだか不思議な気持ちだわ」
ショートレイヤーの黒髪がマニッシュな雰囲気の母、葛城柚子は自分の思い出の場所でもある学園に娘たちが揃って通うことに一際感慨を覚えているようだった。
運命の恋ともいえる出会いをした場所でもあり、身分違いの恋に苦しんだ場所でもある。娘たちが同じ苦労をしなければよいと心配する反面、幸せな出会いをしてほしいとも思っている、そんな顔だ。
お母さんは切れ長の目をさらに細めて微笑んでいる。私は完全に母親似、桃香は亡き父親似だ。母の部屋にある仏壇に飾られた写真には、童顔で優しそうな男性が微笑んでいる。
「これから大変なこともいっぱいあると思うけど、悔いの無いように、全力で頑張って、全力で楽しみなさい」
「ありがとう、お母さん」
頬を薔薇色にして嬉しそうに笑う桃香を見ていると、本当に幸せな気持ちになる。これからの1年間、この笑顔を守り通せるかが、私の今の最重要課題だ。
姉妹水入らずの青春学園生活の為にも、攻略キャラ達をこの子には近づけさせない。
私は決意を新たにした。
その日の夜、ベッドに入ってからこれからの事を考えた。
ゲーム中のシナリオの期間は桃香の高等部入学から1年間。初日から色々元のシナリオと違っていたので、多少混乱はしたが、大部分は結果オーライだ。今日桃香と対面した攻略キャラはどちらもゲームの時よりも桃香との距離感が離れているように見えた。
これがそのまま好感度の低さと取るなら、この結果は悪くない。
あの不思議ちゃんはクラスが一緒なので油断ができないが、彼は高確率で授業をさぼって屋上で寝ているので、休み時間に桃香がそちらへ向かわないように注意さえすれば好感度が上がることはないはずだ。
問題は篠谷だな~。あいつ何考えてるかわかんないからな~。まあ桃香とは学年も違うし、接点は私自身なので、過去の事さえ桃香に思い出させなければ何とかなる…かな。
ともかく、今現在の状況を整理するべく、頭の中で相関図やゲーム攻略のフローチャートを思い出す。
入学式からしばらくは共通ルート、時間ごとの行動選択によって会えるキャラクターが異なり、その後の会話イベントでの選択肢で好感度が変動する。日常の会話イベントの他に学校行事や休日にランダム発生するサブイベントでも重要な選択肢が発生したりする。
本格的なルート分岐は2学期だから、それまでにサブイベントを中心にフラグを折っていこう。
明日は、桃香の入部する剣道部の主将、津南見 柑治の初対面イベントの伏線回収がある。事前に打てる手は打ってあるが、こいつもゲームシナリオとは大きく違う展開を迎えるだろう相手なので、気を引き締めてかからねば。
桃香と津南見の初対面イベント自体は入学式前に起こっている。剣道のスポーツ特待生で入学した桃香は春休みの剣道部の合宿に特別に参加していたからだ。合宿は校内の施設で行われる為、私は生徒会の仕事の合間に様子を見に行ったりもした。
合宿中の様子では、津南見が桃香とゲームの時以上に仲良くなることはなかったので、ひとまず安心だ。
津南見ルートを防ぐために、私は剣道を中学卒業と同時に止めたのだから。
実は私こと桃香の姉、真梨香はゲーム本来の役割はこの津南見ルートに置ける桃香のライバル役として登場するはずだったのだ。
津南見はとある理由から、女性が苦手で、唯一対等に付き合えるのが、剣道部の後輩で女子ながら互角に近い勝負ができる真梨香だけだった。その為周囲からは二人は恋人同士だと噂されており、入学して二人の様子を見た桃香もその噂を信じてしまう。
けれど二人は実際は恋人同士でもなんでもなく、桃香と親しくなっていくうちに、津南見は桃香を愛するようになる。真実を知り、津南見への想いに気づいた桃香も彼へ告白し、二人は恋人になる。真梨香はそんな二人を祝福する。
ここまでがルート確定後、花の絆が開花するまでの展開。このゲームは恋人になってからの展開が特に波乱を含んでいることで人気だった。
一時は桃香を祝福した真梨香は、実は津南見にずっと片想いをしていた。一度は身を引いたものの諦めきれず段々と心を病み、二人の邪魔をするようになり、桃香への傷害未遂や、最後には津南見との心中未遂にまで発展してしまうのだ。
津南見ルートでの最悪のバッドエンドでは、真梨香に同情し、彼女を突き放すことができなかった津南見がこれ以上桃香を巻き込むよりは、と桃香に別れを告げ、真梨香と共に行方不明になり、桃香の号泣で幕を閉じる。それは、姉と恋人の裏切りと、その後の二人の死を予感させ、桃香は恋人と家族を同時に、そして永遠に失うというものだった。
元のゲームの事を思い出して、私は溜息をついた。
前世の私は、真梨香というキャラが好きではなかった。桃香という愛すべき妹を裏切り、不幸のどん底に落とした女。そんな女に生まれ変わってしまうなんて、と始めのうちは思っていた。
でも真梨香として生きているうちに気が付いた。真梨香だって最初から桃香と対立していたわけじゃない。ゲームの最初の頃、真梨香は妹思いで、剣道が強くて、桃香の憧れのお姉ちゃんだったのだ。あんな風に尊敬される姉が、妹を最初から疎んじていたはずがない。妹が大好きだからこそ、追い詰められて、心を病んでしまったのだ、ということに。
妹を祝福したいと心から思いつつも、津南見の事をあきらめきれなくて、二つの感情の板挟みから、精神の均衡を保てなくなったのだろう。
今の私は津南見に対する恋愛感情もなければ、そもそもの接点すらほとんど持っていない。
津南見ルートは真梨香が桃香より先に剣道部で津南見と交流を持っていることが前提のシナリオだ。だから私はあえて剣道ではなく学力での推薦をとった。たとえ剣道部に入ったとしても津南見の事は好きにはならなかったと断言できるが、桃香を悲しませる可能性は一つでも潰しておきたかったから。
明日のイベントでは、合宿中に桃香のハンカチを駄目にしてしまった津南見が新品のハンカチをプレゼントしてくることになっている。
ゲームでは合宿中に不注意から怪我をしてしまった津南見に桃香が自分のハンカチで止血しようとする。女性嫌いの津南見がついその手を振り払ってしまうため、ハンカチは血と泥で汚れて使い物にならなくなるのだ。その詫びとして津南見が持ってくるのが桔梗の花の図案が刺繍されたハンカチ。
これが津南見と桃香の花の絆フラグだ。
部員でもない私にはこのイベント自体の発生は邪魔できなかったので、事前に少々小細工をさせてもらった。うまくいけばこの絆フラグも折れるはずだ。
絆フラグはすべての攻略キャラの好感度ゲージのスタート地点だ。絆イベントが発生していないキャラはパラメーター画面には表示されない。だとするならば、まず出会いイベントでの花の絆フラグを折ることができれば、その後の接触でも好感度の上昇を抑えることができるんじゃないかと思う。
日常の桃香の行動をすべて追って通常会話を邪魔し続けるというのは不可能に近いし、実際そんなことをしたら桃香から嫌われて本末転倒だ。目標はあくまでも、桃香と仲良し姉妹で水入らずに過ごすことだ。
明日からの学園生活への希望と目標を再確認し、私は眠りについた。
翌日、オリエンテーリングの準備の為に、またも私は早朝からの登校だ。桃香の部活の朝練が始まれば一緒に登校できるようになるのでそれまでは我慢するしかない。
生徒会室に着くと、またしても篠谷が先に来ていた。こいついつも先に、というか一番に来てる気がするけど、何時に起きているんだろう。
「おはようございます。葛城さん」
「おはようございます。篠谷会長。昨日はどうも」
昨日家に入った後、子猫の写真をメールで送ったところ、篠谷があちこちで情報を拡散してくれたらしく、昨夜のうちに飼い主が見つかった。今日母が出勤途中に飼い主の家へ送り届けることになっている。
事情を話すと篠谷もホッとした表情を浮かべた。
「あの子猫、飼い主見つかったんですか。よかった」
「ええ、会長のおかげです。完全な家猫で飼ってたそうなんですが、不注意で開け放してしまった窓から逃げてしまったらしくて、探していたんだそうです」
珍しく和やかに会話していると、遅れて入ってきた執行部メンバーおよび顧問の先生が狐につままれたような顔をしていた。
お昼休みになり、妹と待ち合わせて食堂へ向かう。といっても食堂のメニューを食べるわけじゃない。奨学金が出ているとはいえ、私たち姉妹は庶民だ。食堂はお弁当の持ち込みも自由なので、二人で一緒にお弁当を食べることにしたのだ。
「お姉ちゃんはここの食堂のご飯て食べたことあるの?」
「一度だけね。創立記念日だけ、ここの食堂無料の特別メニューが出るの。去年は子羊のハーブソテーがメインのセットだったわよ。正式名が何かあったけど、長すぎて忘れちゃったわ」
「そうなの?やっぱりフランス語みたいな名前だったりするのかな。ブルゴーニュがどうとか?」
「うん、そんな感じ。でも桃香のご飯の方が私は好きよ。今日のお弁当も楽しみ」
そんな会話をしながら桃香特製のお弁当を広げる。白いご飯と今日は白身の焼き魚。ごぼうのきんぴらと野沢菜のお漬物、厚焼き玉子とプチトマト、ポテトサラダ、彩りもよく、お弁当箱に収まっている。
「おいしそう。ありがとう、桃香。桃香の朝練が始まったらちゃんと交代にするからね」
「気にしないでいいのに。でもお姉ちゃんのお弁当も私好きだからやっぱり楽しみにしてるね」
ああ、うちの妹は天使だわ。後光が見える気がする。交代でお弁当作るようになったら桃香の好物をいっぱい作ってやろう。そんでいつかはあーんして食べさせっこしたいな。
ついラブリーな妹との薔薇色未来を妄想していたら、食堂の入り口から津南見柑治が入ってくるのが見えた。人を探している様子できょろきょろした後、こちらに気づいてまっすぐに歩いてくる。
ゲームと違って私は津南見に探されるほど親しくもないので、桃香への用事だろう。十中八九、絆イベントだ。
「葛城」
「「はい」」
声をかけられ私と桃香が同時に返事をする。私たちはどちらも葛城なので、間違いじゃない。その返事で津南見は初めて私もいることに気づいたようだ。
鋭さにあるアーモンド形の瞳が驚きに少し丸くなる。剣道部に入部はしなかったとはいえ、生徒会として剣道部主将である津南見とは顔見知りだ。
「あ、すまない、妹の方の葛城に用があるのだが構わないか?」
「はい。こちらこそ失礼しました。津南見先輩」
「えっと…。主将、何か…?」
桃香はちょっと緊張した表情で津南見に尋ねる。津南見も改めて問われると緊張してしまうのか、言葉を躊躇っているようだ。
私は二人の様子を目の前で観察しながら、焼き魚を一口頬張った。
津南見柑治は男子剣道部主将で全国大会でも上位に上る優秀な選手だ。頑固で生真面目、制服を規則通りに一部のすきもなく着こなし、動作一つとっても隙がない。短く整えた黒髪とくっきりとした意志の強い眉に長いまつげが黒々と目力を強調する鋭いアーモンド形の瞳をしている。168センチと男子にしては小柄だが、骨格などはしっかりとしている。
ちっちゃい頃はあんなにかわいかったのになあ…。
前世の頃に見た、ゲームの設定資料集に載っていた津南見の幼少期のイラストを思い出す。どう見ても女の子にしか見えない幼児がフリフリのドレスを着せられ、涙目で写真に収められている、というイラストだ。
津南見の女性嫌いは実際のところ、女性恐怖症に近く、その原因は4人いる彼の姉に起因する。歳の離れた姉たちは彼をそれはそれは可愛がり、構い倒し、時には着せ替え人形のように彼で遊んだ。結果、女性全般が苦手になった、ということらしい。今でこそ、骨格も育ってしまって、男らしくなってしまっているが、小さい頃はさぞ可愛らしかっただろう。構い倒したお姉さんたちの気持ちも分からなくはない。
「葛城妹、この前の合宿の時の詫びだ。受け取れ」
ぶっきらぼうな台詞と共に桃香に突き出されたのは白いハンカチ。その角には細やかな刺繍で、小鳥が描かれていた。その模様を確認して、私はテーブルの下で小さくガッツポーズをした。花の絵ではない。これで津南見と桃香に花の絆は発生しない筈だ。
津南見の女性恐怖症と共に、彼が周囲に隠している秘密が、この趣味の手芸だ。ハンカチの刺繍は彼が自ら刺したものだ。ゲーム中で刺繍の絵が花だったのは、彼が駄目にした桃香のハンカチが花柄だったから。なので私は合宿前に桃香が持っていくハンカチをすべて花以外の絵柄に変えさせたのだ。更にもう一つ。
「わ、可愛い。あの、でも本当にいいんですか?」
「ああ、そんなに大したものじゃないから気にするな。俺の方こそすまなかったな」
「じゃあ、あの、実はあのハンカチ、お姉ちゃんからの借り物だったので、これ、お姉ちゃんにあげてもいいですか?」
「え…?」
そう、念には念を入れて、合宿前日に私は「うっかり」桃香のハンカチを全て洗濯してしまい、代わりに自分のハンカチを数枚貸しておいたのだ。これで万が一にも桃香と津南見の間に花の絆は成立しない。
津南見は突然話に上がった私の存在に動揺したようにこちらを見る。ゲームと違い、剣道という接点のない私は津南見にとって他の女子と変わらない恐怖の対象なのだろう。口元がひきつっている。
私はゲームの中で桃香を苦しめた真梨香は好きじゃないが、この津南見柑治のことはもっと好きじゃない、というかはっきり言って嫌いだ。女性恐怖症の彼が真梨香だけは平気だったのは、彼が真梨香を女性として見ていなかったからだ。
ゲームのファンブックに載っていた裏話によると、真梨香と津南見は小学生の頃に出会っている。津南見の通う剣道場に、真梨香の通っていた道場のが練習試合を申込み、その試合の会場で初めて顔を合わせた。(桃香はその時まだ剣道を始めていなかった。)
男女の性差がうすいその頃、髪も短かった真梨香を男と思い、手合わせをして、津南見は真梨香に負けたのだ。以来、真梨香を好敵手として認め、真梨香が女子だとわかった後も、彼女に男同士のような友情を求めたのだ。
子どもの頃ならそれで良かったかもしれないが、思春期を経て、体格も、力も差が出るようになっても、津南見にとって、真梨香は性別など関係ない親友であり、好敵手だった。
けれど、真梨香にしてみれば、他の女子に対してはまともに口も利かないような男が、自分だけは特別に扱うのだから、堪らなかっただろう。そこに愛情がないと気付いていても、目をそらして縋らずにいられないほど、真梨香は津南見だけを想っていたのだ。
本人は純粋に友情を貫きたかったのだろうが、本気で友人と思うのなら、女性としての真梨香を認め、その心情を思いやるべきだったのじゃないだろうか。与えられる友人としての振る舞いに甘え、その実真梨香の本質を見ようともせず、最後には真梨香も桃香も傷つけることになったのは、この男の弱さが一番の原因だ。
ハッピーエンドルートでは桃香のひたむきさに、女性恐怖症を克服し、桃香と幸せになるルートが描かれてはいるが、彼の中での女性像が、自分を虐げる存在から、守りたい存在、(桃香限定)にシフトチェンジしただけで、根本的な部分は解決しないままだった。
この男のルートだけは徹底的に潰す。くだらないトラウマでも一生抱えていればいい。
「…せっかくですけど、ハンカチはお返しします」
私は津南見から桃香へ、桃香から私へと渡されたハンカチを津南見へと返した。受け取る瞬間、指が触れ、津南見の肩が震える。
「あ…いや、持ち主を知らなかったとはいえ、ハンカチを汚してしまったのは俺のせいだ、これは受け取ってくれ」
多少どもりながらも再度ハンカチを私に差し出してくる津南見。いらないと言っているのにしつこい。
「津南見先輩が自分で使えばいいじゃないですか」
「これは女性ものだ」
「白無地に小鳥の刺繍が入っているくらい、男性でも使えます。お似合いじゃないですか。先輩に、小鳥」
「なっ??!」
津南見が顔を真っ赤にして口をパクパクさせる。小さい頃にさんざん女装させられ、いじられたせいで、津南見は可愛いとか女々しいとか、あとついでに身長の事とかを言われることを嫌っている。それを知っていて、あえて口にする。
「小さくてかわいい小鳥、先輩にぴったりだと思いますよ」
席を立ち、真正面から見据えながら、その手にハンカチを握りこませる。168センチの津南見と163センチの私ではほとんど目線が変わらない。津南見の顔色が青くなり、鳥肌が浮いているのが分かる。
「~~~~~~~~~~~!!!!」
限界点を越えたらしく、津南見は私の手を乱暴に振りほどくと返されたハンカチをぐしゃぐしゃに握りしめたまま走り去ってしまった。
「え?!主将??!」
桃香は津南見の突然の奇行に目を丸くしている。私にしてみれば衆目の場で気絶しなかっただけ頑張ったと思う。実際ゲーム中では他の女生徒に迫られ気絶するエピソードもあった。
「体調が良くなかったのかしらね?」
真相はすっとぼけ、再び桃香の前に座る。邪魔者は去ったし、やっと桃香と水入らずのお昼御飯だ。
「さ、時間も少なくなっちゃったから、いただきましょう?」
私はまだ首をかしげている桃香に、そう言って微笑んだ。