17
「真梨香さん、手を見せてください」
生徒会室に入った途端、いつもの胡散臭い笑顔を更に煮詰めたような迫力満点の笑顔の篠谷に詰め寄られた。思わず反射的に鞄を持った手ごと背中に隠してしまったのだが、その行動が気に食わなかったらしい生徒会長サマは怨念すら背負ってそうな笑顔で迫ってきて、私は壁際に追い詰められた。
「大人しく手を見せなさい」
ついには命令形で手を差し出され、その迫力に押されるようにおずおずと右手を差し出すと、恐ろしい表情とは裏腹に、そっと壊れ物でも触るように手を取られ、思わずドキリとする。
小さな瘡蓋がいくつも走っている掌を見て、篠谷の顔から笑顔が消える。背筋が凍り付くような怒りの気配に、手を引っ込めたいのに、引っ込められない。人形のように整った顔が間近にあるのも心臓に悪い。右手から熱が上がっていく気がする。
「あ…あの…会長、見た目はちょっとアレですけど、軽傷なんで、今日の授業にも支障はありませんでしたし、この後の仕事も問題なく…」
「……聞くところによると、その方は妹さんを口説くためにあなたを地面に放り出したとか……?」
唐突に妹の事を持ち出され、言葉に詰まる。
そうか…篠谷としてはシェリムは恋のライバルでもあるんだった。私の怪我も心配してくれているんだろうけど、そっちの意味でも怒りが上乗せされるわけか…。そんな考えが浮かんで、上がりかけた熱がすっと引く。少し動揺が静まったので、そっと手を引き抜く。篠谷も特に引き止めない。
「…そうみたいですね。今日も謝るから妹の事を教えてほしいと追い掛け回されました。教える義理もないので無視しましたけど。妹の方も今のところ彼に対して怒っているので、会いたくないと言っていますし」
そう言って、宥めたつもりが、なぜか更に険しい表情をされた。というか、私の言葉の何かが火に油を注いでしまったらしい。無言で怒り狂う篠谷に、そんなことよりも仕事をしようと言い出せなくて途方に暮れる。
そこへ、生徒会室のドアを開け、書類の束を持った小林が入ってきた。私を見て、駆け寄ってくる。こちらもなんだか穏やかでない気配だ。
「真梨センパイ、妹ちゃんから聞いたよ~。2年の転入生に怪我させられたんだって~?」
「え、いや、させられたっていうか、事故に加えて色々重なって…」
ひょいっと手を取られ、掌をまじまじと見つめられる。小林の眉間にみるみるしわが寄り、唇がへの字に曲がる。普段は無邪気で子供っぽい表情の多い彼だが、そう言う表情をすると、一気に凶暴な空気を纏って見えるのだ。一言でいうと、怖い。
「……その2年、いっぺん締めるか」
低く物騒なつぶやきが聞こえた。聞かなかったことにしたいが、小林の実家がヤの字が付く物騒な家業であることを考えると色々シャレにならない。しかも口調がいつもの間延びした口調じゃない分、本気度が高そうだ。
「小林君、私なら気にしてないから、そんな怖い事言っちゃだめよ。相手は曲がりなりにも王子様だし、国際問題とかになっても困るでしょう?」
「大丈夫。ばれないようにやるし、何なら余計なこと言えないようにする方法もあるし」
「全然大丈夫じゃない! …とにかく、怪我は大したことは無いし、桃香も彼と仲良くするつもりはないみたいだし、そんなに怒らないで」
「…怒るに決まってるじゃん!」
ガシっと肩を掴まれる。普段からどこか飄々としている小林らしからぬ態度で、強く言われて思わず目を丸くする。篠谷といい、小林といい、桃香の事を抜きにしてもどうやら真剣に怒っているらしく、どう宥めていいか分からない。思わず周囲に助けを求めようと見回して、梧桐くんと目が合った。
「あ、先に言っておくと、僕もジャムシード君については怒っているから」
まさかの同調発言。ビーバーみたいな癒し系笑顔に怒りのオーラ背負うのやめてほしい。ほんと怖いから。
それにしても、転校一日目にしてシェリムは一気にこの学園のトップ集団を敵に回しちゃったことになるのか…。自業自得とはいえ、これから苦労するだろうなあ。そして歯止め役の梧桐君も怒ってるとなると、今この場をどうやって納めたらいいかなあ…。
一番怒っていいはずの当事者である私の怒りは、彼らの怒りの前に何となく鎮火してしまっていた。とにかく、このままでは仕事が始められない。シェリムはムカつくけど、あいつへの怒りで仕事がおろそかになったらもっと腹立たしい。
「先輩、次の行事に向けてのスケジュールと見積もりを早めに出すようにって、木田川先生に言われたんですけど、概算だけでも今日やってしまおうかと……何してるんだ、小林」
ピリピリと張りつめた生徒会室の空気を壊すように入ってきた加賀谷少年は、私の肩を掴んでいる小林を見て怪訝な顔をしている。私としては、そんな加賀谷が救いの神に見えたとしても仕方ない。
「加賀谷君、急ぎの仕事なのね。スケジュールの方はこっちでざっくり組んでみるから、見積もりの方をお願いできるかしら?」
話題を無理矢理仕事の話にシフトチェンジさせる。小林も篠谷も、それ以上は何も言わず、仕事に戻ってくれた。表情にはまだ言い足りないというのがありありと見て取れるが、今は仕事の時間だと考え直してくれたようだ。梧桐君も何事もなかったように書類に集中している。
今回ばかりは空気の読めないマッシュルームを撫でてやりたい気持ちだ。
「ありがとう。加賀谷君」
言っても何のことかわからないだろうな、と思いながらお礼を言えば、彼は一瞬きょとんとした後、きゅっと唇を噛みしめた。
「……嘉穂から聞いてます。……その、気を付けてくださいね」
言われてみれば、あの胡桃澤が加賀谷に話をしていない筈がなかった。それでも、今は仕事を優先してくれているのか。空気が読めないなんて思って悪かったな。
「うん、ありがとう」
私はマッシュルームを撫でたくなる手を理性で抑えて、もう一度お礼を言った。
家に帰りついてベッドに倒れこむ。今日は色んな意味で疲れた…。天井をぼんやりと眺めながら、シェリムの今後の動向について考える。
「ゲームだと、出会いイベントが一通り終わって、共通ルートに入る時期か…」
ゲーム『花の鎖~桜花学園奇譚~』は1学期の共通ルート、夏休みの分岐イベントを経て秋に個別ルートからの泥沼展開に至る。この共通ルートでどのキャラと一番交流したかで夏休みの分岐イベントの発生が変わる。
この共通ルートは大きく4つのシナリオに別れていて、前半の会話イベントやヒロインの行動によって、それぞれのキャラクターのエピソードが掘り下げられる。
ひとつは、幼い頃の約束を胸に再会した篠谷に請われて生徒会のお手伝いなどに駆り出されるうちに、篠谷や加賀谷と交流が深まる生徒会ルート。
ひとつは、パーティーをきっかけに双璧に目を付けられ、強引にクラス委員に指名され、代議会に呼び出され、振り回される代議会ルート。
ひとつは、クラスに馴染もうとしない不良生徒と、生真面目な風紀委員長の対立に巻き込まれる、生活指導ルート。
…そして、最後が部活ルート。
シェリムはこの部活ルートからの分岐キャラに当たる。
事故をきっかけに桃香に一目ぼれしたと積極的に言い寄ってくるシェリムは、桃香を追っかけて剣道部にまで入部してくる。女目当てで入部し、部活中も練習よりも桃香に夢中になるなど、およそ真面目とは言えないシェリムの態度に、堅物主将の津南見柑治が黙っているはずもなく、水と油な二人の対立を桃香が宥めたり、どっちかの味方になったりして選択肢を進めていくのだ。
「……シェリムの出会いイベントが成立しちゃったって事は、この後の展開も部活ルートが優先度高くなるのかな……」
そう口に出して呟いた直後、重要な事を思い出した。ガバっとベッドから跳ね起きる。記憶を頼りに、事故の日から今日、今までのシェリムとの会話や行動を詳細に思い出す。
「……ない」
出会いイベントのフラグの象徴、『花』を桃香は受け取っていない…!!
ゲームの出会いイベントで、ヒロインは攻略対象である男性キャラから『花』を受け取る。プレゼントだったり、強引に渡された物だったり、偶然拾ってしまった物だったり、渡され方はバラバラで、品物も、本物の花であることもあれば花をかたどったアクセサリーであったり、花の刺繍のハンカチであったりバラバラだが、これが重要なキーアイテムであることはゲームの公式ムックや開発者のインタビュー記事でも書かれていた。
花を受け取るシーンを見るまでは、好感度確認画面でのキャラクターの表示がシルエットのみなことでも、それは示されている。
シェリムの『花』は事故の時、彼の滞在先のホストファミリー宅で手当てを受けた桃香にシェリムがお詫びと出会いの記念と称して強引に桃香の指に嵌める、薔薇の意匠の指輪である。今回、事故の時も、今までも、シェリムが桃香にそんなものを渡したという事実はない。
「……てことはシェリムもフラグは成立してない…?」
一瞬、期待に胸が躍るが、シェリムの態度はどう考えても桃香に一目ぼれしたと追い掛け回す、ゲームデフォルトのシェリムそのままである。ひょっとして、『花』は無くてもフラグは成立してしまうのだろうか…。そうなると私が過去に叩き折ったつもりのフラグも、いくつかは成立してしまっていることになるのではないだろうか。
「…少なくとも、篠谷は子供の頃に出会って、プロポーズ寸前まで行ってたし、小林も入学式の日にゲーム通りではないけれど桃香に出会って教室に案内してもらってる…」
思えば加賀谷も結局パーティーでパートナーにはなっていたし、津南見とは剣道部の合宿で会って、ハンカチのエピソード以外はゲーム通りに事が進んでいる。出会いらしい出会い自体が起こっていないのは3年生双璧の一之宮と吉嶺、風紀委員長の菅原、隠しルートキャラの杏一郎の4人だ。このうち、杏一郎は隠しルートキャラで、その登場も夏期の特別講習の講師としてだったから、置いておくとしても、他の3人が今桃香に対して何か特別な態度をしているかと言えば答えはノーだ。
一応、パーティーの時私と一緒にいるのを見ているし、挨拶くらいはしたから出会ったと言えば出会っているのだが、出会いイベント、と呼称されるようなエピソードではなかった。その後、彼らが桃香と接触したという話も聞かないし、今この現状だけを見て考えるなら、あの3人はルートフラグが折れていると考えても良さそうな気がする…。けれど、他の5人については、まだまだ油断ができないということになる。
いったん『花』については置いておくとして、それ以外の要素で考えた場合、いくつかは、ゲームの通りのエピソードも起こっているのだ。
「中でも、一番ゲーム通りに話が進んでしまっているのがシェリムって事か…次いで津南見……このままだと部活ルートまっしぐらじゃないか…」
再びベッドに倒れこむ。どのルートよりも避けたかったルートに一番近いとか……!! 軽く絶望的な気分になる。津南見ルートは私がいない状態ではほとんどのエピソードは発生しないので多分大丈夫だと思いたいが…シェリムルートに入るのも嫌だ。誰のルートでも多分やだけど!
唸りながらゴロゴロ寝返りを打つ。何年か前に桃香にプレゼントされたイルカの抱き枕に抱き付いてみるが、それでも落ち着かず、ひたすら転がっていたら、ベッドから落ちた。
「いたた……」
「真梨香? すごい音がしたけど大丈夫?」
ぶつけた肩をさすっていると、遠慮がちなノック音が聞こえた。お母さんが心配して様子を見に来たらしい。
「大丈夫、ちょっとベッドから転がり落ちただけよ」
「そう、ならいいけど」
ここで深く追求しないのがお母さんのクールな所だ。桃香や、今は亡きお父さんだったら、部屋の中に入ってきて怪我はないか、どこか痛むところはと大騒ぎするだろう。
「………お父さん…」
ふと、起き上って、本棚に入っている古いアルバムを出す。私が小学校に上がるより前の、家族の写真を収めたアルバムだ。表紙をそっと撫でる。
「………………っ」
結局、それを開くことなく、本棚に戻した。自分の手を見ると、微かに震えているのがわかる。ぎゅっと拳を握って、震えを止める。
「桃香だけは…絶対に…」
決意も新たに、ベッドに腰を下ろす。ゲーム通りに事が進んでいるというなら、逆にシェリムの行動は先読みできるという事でもある。
同じ学園にいる限り、桃香とシェリムが再会するのは時間の問題で、シェリムはその後、桃香を追いかけて、剣道部に入部してくる。
今のところそれを止める術はないので、その次のイベントを全力で防ごう。イベントそのものを発生させなければ、その後のルート分岐を防ぐことができるかもしれない。
「その為なら……」
もう一度拳を握りしめ、ぎゅっと胸に押し当てる。…大丈夫、もうこの胸は誰を見ても、ときめいたりしない。恋に溺れて大事なものを見失ったりしない…。
「……桃香を…泣かせない……!」
そう、声に出して、そっと目を閉じた。
昼休みの剣道場。彼はよくここで瞑想をしている。気配を殺して近づいてもすぐに気付かれ、振り返りもせずに声をかけられる。
『お前か…どうした?』
ヒロインと段々打ち解けていく彼に不安を覚えた『ボク』に、悩みでもあるのかなんて、鈍感極まりない台詞を吐く『親友』。そして、本当のことを言えない『ボク』に、桃香のことが気になるだなんて、追い打ちをかける、酷い男…。
「…葛城?! どうしてこんなところに?」
津南見の声にはっと我に返る。一瞬ゲームの『真梨香』と『津南見』の会話シーンを思い出してぼんやりしていたらしい。剣道場の戸を開けたところで固まっていた私に、瞑想を解いた津南見が立ち上がって歩み寄ってくるところだった。
「…津南見先輩、少し……よろしいですか?」
緊張に声が上擦る。津南見の嫌いな女性らしい仕草や言葉遣いを意識する。津南見の目に動揺が浮かぶのを見て安堵する。彼の苦手な女性らしい女性を演じられていると思えるから。
「あ、ああ。外に出るか」
道場の入り口の段差に並んで腰を下ろす。とはいえ、津南見は女性恐怖症なので、それなりの距離を置いてではあるが。
「それで…? どうした」
「その…まずは先日の教室の利用申請の許可証です。部長印と顧問印を捺印の上で、当日鍵の管理事務所に提出してください」
「ああ、ありがとう。……それで…?」
いざ話をするとなると何から話していいか悩む。今度留学生が剣道部に桃香目当てで入部してくると思いますけど、挑発に乗って喧嘩しないでくださいね、とか? 余計なお世話過ぎるだろ。でも他に何と言っていいかもわからない。
「えっと…その……」
今まで話すのを極力避けていた相手という事もあって、妙に緊張してしまう。津南見が落ち着いている様子な事も計算外だった。女性恐怖症だからこの距離でも冷汗だらだらの蕁麻疹一歩手前の状態になると思っていたのに、少しそわそわして見えるほかは平常通りなのだ。いったいどうなっているんだろう。
「葛城、話しにくい事だったら…」
「あ、いえ、えっと、先輩に相談というか、お願いがあって…」
「お願い……」
「昨日、うちのクラスに転校生が来たんですけど…」
「ああ、交換留学生らしいな」
少し拍子抜けしたように津南見の肩から力が抜ける。それを見て私の方は益々緊張してしまう。いっそ津南見が蕁麻疹で気絶するぐらい近付いて慌てさせてやろうかとさえ思う。やらないけど。
「ええ、そのジャムシード王子がどうもうちの桃香を追いかけてて…というか、本人曰く運命の一目惚れだとかで…多分桃香を追って剣道部に入部を希望すると思うんです」
この話で津南見の眉間に深くしわが寄る。生真面目で堅物の津南見にしてみればそんな理由で剣の道を志すなんて言語道断という所だろうか。でも、それで彼の行動に逐一腹を立てられては困るのだ。二人の喧嘩はシェリムルートの選択肢発生フラグなのだから。
「ただ、目的が目的だし、剣道のルールも心得も全くない状態でいきなり始めるわけですから、多分色々騒動を起こすんじゃないかと思って……」
シェリムの第二のイベントは彼の練習態度に我慢できなくなった津南見とシェリムが剣道の勝負をするというもの。ただし、シェリムが使うのは剣道ではなく、自国で鍛えた独自の剣術だ。ルールも一切無視した戦い方で、津南見は惜敗する。津南見が弱いわけでは決してない。ただ、スポーツとしてはジャンルが違いすぎるのだ。
そしてそのイベントの後の桃香の行動によってシェリムの好感度が変化するのだけど、今の桃香の怒りようからして、100%、『ルールを無視したシェリムを叱る』という行動に出る。そうなると何故かシェリムの好感度が益々上がってしまうのだ。それは拙い。
一番いいのは、二人が勝負すること自体を防ぐこと。その為には、津南見の方を何とか怒らせないよう心の準備をさせるしかない。相手は剣道に関しては初心者で素人だ。勝負をするにしても、シェリムが剣道のルールと精神を覚えてからでも遅くはないだろう。そう思って我慢してもらいたい。
「それで…できれば寛容の精神で以ってひとつ……」
「どうしてそんなに気にするんだ?」
「……え? ……」
どうにかこうにか、遠まわしに言葉を選んでいたら、不意に津南見が口を挟んできた。驚いて振り返ると、いつの間にか座っていた距離が詰められていて、手の触れそうな近くに津南見の顔があった。思わず腰ごと後ずさる。
「あの…津南見先輩……?」
「その留学生がお前の妹目当てで入部しようが、お前自身には関係がないだろう? なぜそんなにそいつのことを気に掛ける?」
「いえ、私が気にしているのは妹への悪影響で…」
こちらが下がれば津南見がずい、と距離を詰めてくる。とうとう段の端に追い詰められた。
「ちょっ……! 津南見先輩、女性が苦手なんじゃなかったんですか?! ほら、触っちゃったら蕁麻疹が出ちゃいますよ??!」
「出ない。というか、なぜ知っている?」
咄嗟に出てしまった言葉に津南見が怪訝な表情を浮かべる。しまった…。津南見の女性恐怖症は一部の身内しか知らない筈の極秘事項だった。ザっと血の気が引くのを感じる。
「あ…の、以前見ました。先輩が女性に触れられて蕁麻疹が出ていたの。あ、あと、オリエンテーリングのあった日の昼休み! あの時私もうっかり先輩の手を握ってしまったじゃないですか。その時確か…」
「出ていない」
「…え?」
「あの時は、急に手を握られたから動揺はしたが、蕁麻疹は出ていない」
そう…だっただろうか…顔色が青かったのは覚えているけれど、言われてみれば蕁麻疹まではいってなかったかもしれない。いやでも出ないとおかしいでしょ。他の女子には出るっていうなら、私相手でも出ないとおかしい。だって私はゲームの中の『葛城真梨香』じゃない。子どもの頃に男に間違われて津南見と友達になって、津南見に女を意識させないようボーイッシュに振舞っていた少女じゃない。
津南見が女性恐怖症だと知った上で、髪を伸ばし、言葉遣いを改め、友達になどならないよう、出会う機会を可能な限り避け続けた。高校生になって初めて顔を合わせ、その後も必要なとき以外は話すことも近付くこともなく、津南見が苦手なその他大勢の女子と同じような存在になっていたはずだった。
「俺は…」
「先輩、私は…」
津南見の言葉に言い知れない恐怖を感じて遮ろうと声を振り絞る。津南見が怖いんじゃない。それでも津南見が言おうとしていることは、きっと私にとってとても恐ろしい事だ。今の私を、今までの私を否定する…。
「俺はどうやら、お前だけは苦手じゃないらしい」
「そんな筈ないじゃないですか!!」
苦手でなければいけない。その他大勢の女子と同じ、触れることはおろかまともに口もきけない相手でなければいけないのだ。特別な存在になんてなってはいけないのに、それを否定する津南見に私は思わず叫んだ。その途端、後退った身体が段差からずり落ちる。
「葛城!!」
「きゃっ!?」
しりもちをついて、下手をすれば頭を打つかと思ったが、逞しい腕に引き寄せられ、抱き止められた。小柄だが鍛えられた身体は固く、筋肉質だ。手を握るどころか、抱きしめられて、それでも異常の出ない津南見の身体に、いっそ転がり落ちて頭を打ってしまいたかった。
「…大丈夫か? どこかぶつけ…おい?!」
津南見の驚いた声が聞こえる。混乱した頭でぼんやりとその顔を見返そうとするけれど、視界がぼやけている。気が付くと、私は泣いていたのだ。
涙は後から後から溢れて頬を伝い、膝を濡らす。感情がコントロールできない。乱暴に手で拭おうとして止められる。その代りにそっとハンカチを当てられた。擦らないように、そっと触れては涙を吸い取るように押し当てられ、顔を見られたくない一心でそれを受け取る。
津南見の手が、頭に触れる。遠慮がちに、そっと置いて、離す。そしてまた置いて…まるであやすような動きに、益々涙が出た。平気な顔で触れないで。特別だなんて言わないで。『私』は…あなたの親友には…絶対にならないのだから………。
暫くして涙が止まるころには多少頭も冷えて、改めて、穴があったら入りたい心境でハンカチから顔があげられなくなっていた。
「あ…あの…津南見先輩……ハンカチ、洗って返します…」
消え入りそうな声で言えば、くすりと笑う気配がした。
「お前にやると言ってもまた突っ返されるんだろうな」
言われて気付いたが、今私が握りしめている、涙でぐちゃぐちゃのハンカチは、以前に津南見が桃香に渡そうとして私が突っ返したハンカチだ。端に小鳥の刺繍もある。
「…絶対に洗濯して、絶対にお返しします」
「そうか…まあ、いつでもかまわない。それより…もう大丈夫か?」
「……はい、いきなりすみません……」
冷静になって考えると、自分の行動の不審さに顔から火が出そうだ。かといって、さっきの混乱状態を今、冷静に説明できるかというと無理だ。とにかく、これだけは言わないといけない。私は、ハンカチから顔を上げ、津南見をまっすぐ見つめた。
「先ほどのお話ですが…津南見先輩は、私だけは近付いても平気だと仰いましたが、見ての通り私は平気じゃありません。……なので、これからも話をしたりするときは、一定の距離を保ってください」
「葛城……」
「それと…最初にお話しした、ジャムシード王子の事ですが、彼が剣道部に入部することで、桃香の部活動の妨げになるのが心配なだけです。過保護だとお思いかとは思いますが、できれば心に留めておいてください」
言いたいことだけ言うとさっと立ち上がってその場を後にする。背中に物問いたげな津南見の視線を感じるが、答えられる気がしないので、振り返らず、足早にその場を離れた。
本校舎に戻り、保健室へ寄ってアイスバッグを貰う。借りたハンカチで包んで、目元を冷やす。放課後までに腫れが引いてくれればいいけど…。
とりあえずは今、できるだけ人目を避けたくて、一番近くて、途中の道でも人に会わなさそうなところを一つだけ思い浮かべた。今の時期は仕事も立て込んではいないし、この時間ならだれもいない筈……だった。
「……何で………何でこのタイミングでいるのよ…」
「真梨香さん?! その顔は…!!」
無人だと思っていた生徒会室には、生徒会長の篠谷侑李がいて、ドアを開けた私の顔を見て駆け寄ってきたかと思うと、腕を引かれ、中へと強引に引きずり込まれたのだった。
せんせー、柑治君が女の子泣かせてましたー!